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舞の刻



<64>



 結界から離れ、静かな孤高の光を放っている銀の鬼は、玉虫色に耀う双眸をひたりと大蛇に向けた。

「──深き恨みを抱いて死に、浮かばれず怨念となった者たちよ。
 邪悪なる闇に囚われてしまったのは、己の魂なのだと、なにゆえ気づかぬのです?
 人の世への執心を捨てぬ限り、そなたらは再び輪廻の中へ戻ることはできない。
 取り残されたまま、永劫の暗黒を彷徨いたいのですか?」

 あたかも誰かに語りかけるように、銀鬼は優しく諭すような声で言った。

 その涼やかな声は風に乗り、漆黒の蛇神を形作っている魂核へと届いた。

『我らを呪詛のかかった面に封じておいて、戯けた事をぬかすな』

「己の怨恨から解き放たれれば、そなたらはいつなりとも自由になれたのですよ。
 そなたらを封じていたのは、そなたら自身の怨念の力。
 邪神は──そなたらの心が作りだした、影にすぎない」

『黙れ──我らは鬼の力を得て真の神となり、そして人の世を支配する。
 邪魔はさせぬ。
 叶わなかった我らが宿願を果たすまでは』

 暗黒の炎を吹き出し、ゆらゆらと踊るように揺れていた大蛇の鎌首は、狙いを定めたように高く首を掲げた。

 その時、大蛇と銀鬼の間に黄金の影が舞い降り、主を守るように威嚇の声を上げた。

 地面を踏みしめた四肢の先から、華やかなまでに燃え盛る黄金の火炎が吹き出す。

 それは金狼を中心とする同心円状の光輪となって広がり、その輝く結界の中に銀の鬼は静かにたたずんでいた。

「ならば仕方がありません。
 ──その邪念が浄化されるその日まで、私の中で静かに眠りなさい。
 時が満ちた時、そなたらを輪廻の中に還してあげよう」

 銀の鬼は大蛇を見つめたまま、あたかも引き寄せようとするかのように、すいっと右手を伸ばした。

 指先まで朧月のような淡い光に包まれた鬼は、冒しがたい神性を帯びた表情となり、そして──軽く足踏みするように地面を踏んだ。

 鬼が地面に足を下ろす度、そこから淡い霧のような輝きが流れ始め、金狼の光炎と混ざり合うように広がっていった。

 大蛇は呪縛されたようにその動きをとめ、静謐な美しい舞を凝視していた。

 差し出す手は聖なる光を導き、翻る袖は浄化の風を呼び起こす。
 滑るような足取りは大地を鎮め──時の流れさえも止めてしまう。

「あれは…神舞か──?」

 紅蓮の炎に包まれていた世界が、徐々に静けさを取り戻してゆく様を見つめながら、ぽつりと要が呟いた。

 融は同意するようにうなずいたが、大蛇の姿が徐々に縮み始めていることに気づいた。

 流麗なる舞の虜となった大蛇は、身の内に宿した憎悪と怨念を鎮められ、その妖力の源を失いつつあった。

 銀の鬼は大蛇を見つめ、トン……と足を下ろす。

 その瞬間、闇が凍えて結晶したかのような大蛇の姿が歪み、黒い霞となって銀の鬼を包み込んだ。

 あたかも全てを受け入れるように鬼は静かに舞い続け、やがて大蛇であった影は溶け込むように吸い込まれていった。

「あれは──やはり雪姫なのか。
 玲熙さんの内に宿っておられたとは……」

「でも、完全に覚醒したわけじゃないみたいですよ。
 玲熙が、浄化の舞を舞えないほどに傷ついていて、このままいくと沖月島が再生できないほどに穢れてしまうから、一時的に覚醒しているだけだって」

 妖狐の言葉をそのまま告げた融の顔を見て、要は思わず苦笑を漏らした。

「おまえに物事を教えてもらう日が来るとは思わなかったな」

「うーん、でも彼女もすぐに眠るって言ってるから、これが最後かもしれないですねえ」

 融はさも残念だと言うように笑い、天空を仰いだ銀の鬼を見守った。

 差し伸べるように天に両手を掲げた鬼は、澄んだ声で命じた。

「──邪神の力によって破壊され、地獄の炎に焼かれたものたちよ。
 我が命によりて、元の姿へと還るがよい」

 そう言い終えた後、銀の鬼は静かに唇から息吹を吹きかけた。

 紅く美しい唇からきらきらと光る霞が天空に舞い上がり、季節外れの雪のように、沖月島の大地へと降り注いでゆく。

 炎に包まれ、どろどろとした溶岩に呑み込まれていた庭園は、その白銀の結晶に触れた途端、白い閃光と共に元の美しい姿を取り戻していた。

 そして、破壊されたものが全て元の姿を取り戻したように見えた時、美しい芝生の上に、ぽつんと『真蛇』の能面が転がっていた。

 雪姫はその面を取り上げると、慈悲に満ちた眼差しで見つめた。

 損傷が激しく、細かく表面がひび割れていた能面を、鬼は宝物でも扱うように両手で掲げ持つと、もう一度ふっと吐息を吹きかけた。

 すると能面はさらさらと砂のように崩れ始め、やがて舞い降りてきた風によって、遙かなる空の高みへと運ばれていった。

 それを見送るように空を仰いでいた銀の鬼は、『女神』の面をつけたまま倒れている晴熙の傍らに歩み寄り、跪いた。

 そしてその顔を覆っていた能面を取り去り、血に濡れた頭を抱き寄せると、静かに語りかけた。

「そなたは、どうしてあれほどの邪念に、耳を傾けてしまった?
 古の血は、そなたに災いしかもたらさなかったであろう。
 だが、鬼形と化したそなたを、私は責めることができぬ。
 私と──あの方の間から生まれた、愛おしい子らの末裔を、どうして私が責められよう」

 すると、その声に導かれるように晴熙の瞼が開き、驚愕したように、変わり果てた弟の美貌を見つめた。

「おまえは……玲熙か?」

 かすれる声でそう問うた晴熙は、すぐに激しく身を苛む苦痛に顔を歪めた。

 透き通った哀しみの微笑を浮かべた鬼は、白い手を晴熙の額に載せた。

「私は、玲熙の深い哀しみによって目覚めた。
 目覚めの時は遠く、まだ至ってはおらぬというのに」

 ひんやりとした心地よい手が触れた場所から、痛みが消え去り、全ての傷が治癒する。

「──玲熙を傷つけ、汚したのは僕だ。
 傷など癒さずに、このまま殺せばいい。
 玲熙の手に掛かって死ねるなら、望外の幸せだ。
 呪われた血からも──ようやく解放される」

 その言葉を聞いた途端、銀の鬼は痛みを堪えるように柳眉をひそめ、美しい顔を辛そうに歪めた。

「呪われてなど……」

「いないと言えるのか?
 鬼と化した僕は殺戮を楽しみ、人の血や肉を甘露のように味わった。
 まさしく鬼の血が、僕を人ならぬ異形の化け物へと変化させたんだ。
 ──あなたの、血のせいだ、雪姫」

「そなたは──己の欲望のために、真実を歪ませてしまった。
 私の望みは、一族が人と共に暮らしてゆくこと。
 それゆえに、我が身にあの方を受け入れ、血肉を欲する鬼族の宿業を、我が血の内に封じたのです。 
 だが、時折、そなたのように古の血が目覚めてしまう者もいる。
 その者たちが人の世から迫害されぬよう、守り、導いていくことが、一族に託した私の願いだったのですよ。
 そなたらは、主上から受け継いだ、重い宿命を背負った者たちなのですから」

 淡々と話していた銀の鬼の双眸から、透明な涙が静かに滑り落ちた。