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舞の刻



<65>



 その美貌を見つめていた晴熙は、唇に皮肉げに嘲笑うような微笑みを刻むと、白磁のような頬に触れようと片手を伸ばした。

「僕は当主失格だな──あなたの想いを裏切った。
 だが、後悔はしていない。
 それでも僕は……玲熙を抱きたかった。
 いつも綺麗に微笑む美しい白い身体に、僕の汚い欲望を注ぎ込んで染め変え、僕だけのものにしてしまいたかった。
 ──他の誰よりも傍にいたのに、誰よりも遠い存在に思えていた」

 ぱたりと地面に腕を落とした晴熙は、瞼を閉じて深いため息をついた。

「人を屠った僕を咎めて、僕を殺すがいい。
 生かしておけば、僕はさらに罪を重ねるだろう。
 邪念と融合した僕の欲望は、もはや留めることはできない。
 ──正気でいられるのは、今のうちだ。
 『女神』の面が、束の間の静けさを与えてくれた。
 狂気が僕を蝕めば、僕は……一族の敵になるだろう」

「そなたの魂魄を蝕んでいるのは、そなた自身の心──解き放てば、自由になれる。
 それが、そなたにも判りませんか?」

 寂しげに水色の瞳を伏せた雪姫は、突然、可笑しげに低く笑い始めた晴熙の様子に驚いたようだった。

「──玲熙を諦めろと?
 いいや、狂気に憑かれたとしても、僕はこの邪恋を手放さないだろう。
 たとえそれが、我が身を燃やし尽くすことになっても」

 そう言い、端整な顔を苦悶にしかめると、晴熙は銀鬼の白いうなじを強く引き寄せ、その美しい唇を奪っていた。

 怒りに猛り、襲いかかって来ようとする金狼に視線を走らせ、晴熙はたおやかな鬼を突き飛ばすようにして立ち上がると、瞬時に虚空に身を躍らせていた。

「雪姫──あなたは、その優しさゆえの甘さをいつか後悔するだろう。
 もはや、僕は誰にも従わない──人にも、鬼にも」

 守護獣の攻撃が届く前に、空隙に身体を溶け込ませた晴熙は、そう言い残して消えた。

 追跡しようと宙に駆け上がった黄金の影を、しかし主である者が止めた。

「──おやめ。
 辛うじて魂魄を保った晴熙は、鬼身に変じることもできないほどに弱っている。
 だが、そなたが追いかければ、死力を尽くして闘おうとするでしょう。
 そうすれば、そなたとて無事では済みませぬ。
 これほど傷つき、力を使ってしまった後では」

 消え失せた者を捜すように双眸を空に向けた銀の鬼は、その命令に従った金狼に向けて淡く微笑みかけた。

「おいで──私の近くへ」

 優しく手招きをした雪姫に誘われるように、黄金の守護獣は軽やかな足取りで、空から駆け下りてきた。
 傷口はいつの間にか全て塞がっており、毛並みを美しく揃っている。

 銀の鬼は、黄金に輝く狼の頭を抱くと、愛おしそうにその美貌をすり寄せた。

「思えば、長い時を越えたもの。
 我が君や、数多くの同胞を失った私にとって、そなただけが慰めであった。
 あの方の影であるそなたを、私がどれほど愛しく思っていたか、そなたはきっと知らなかったであろう?」

 低く、慰めるように狼は唸り、涙の流れる白磁の頬を優しく舐める。
 くすぐったそうに微笑んだ雪姫は、その豊かな毛並みに顔を寄せたまま、はらはらと涙をこぼした。

「──そなたは思い出さぬか、平和だったあの頃を……。
 誰よりも強く、美しかった我が君のお側に仕え、静かに暮らしていた頃の事を。
 誰よりも激しく、強大な力を持ったあの方の激情を、止められるのは、そなたしかいなかった。
 私が大君に責め苛まれ、傷つくたびに庇ってくれたのは、そなただけではなかったか?
 誰よりも気まぐれで、残酷なあの方を、真実お諫めできたのは、そなただけであったというのに……」

 月影のごとき銀の髪がさらさらと流れ、鬼は悲嘆を堪えるように唇を噛み、その神々しいばかりに美しい顔を伏せた。

「けれど──あれほど残酷な方はおられぬというのに、わたくしはあの方を憎むことができなかった。
 いつも、いつも、最後の夜ばかり夢に見て……」

 金狼の頭を抱いたまま、雪姫は感情によってその色彩を変える美しい双眸から、水晶の涙を溢れさせた。

 その一粒が守護獣の頭に落ちた瞬間、黄金の体躯が硝子細工のように弾け、きらきらと煌めく金色の光となって消え失せた。

 その後には、気を失った丞が、雪姫に抱かれたまま眠っていた。

 銀の鬼は丞のゴールドブラウンの髪を優しく撫でると、己の結界を解いた要と、呆然としている融に視線を向けた。

「沖守家の次代の司よ──そなたに命じます。
 逃げた晴熙の行方を追いなさい。
 けれど、決して捕らえようとしてはなりません。
 邪念と融合した晴熙が死ねば、さらなる狂気が世界に放たれるでしょう」

「晴熙さんの居場所を、常に把握せよと言うことですか?」

 問い返した要を見つめ、銀鬼である隠岐宮家の初代当主は、美しい微笑みと共にうなずいた。

「恐らく、晴熙は再び、玲熙の前に姿を現すでしょう。
 それほどに、あれの執念は強い。
 ──そして、玲熙は血を目覚めさせてしまった。
 それゆえに、導き手が必要なのです。
 かの方がすでに目覚めておられることは知っています。
 玲熙を守るためにも、どうかあの方をこの島へ……」

 その言葉を聞いた瞬間、要は驚愕したように、美しい銀の鬼を見返した。

「しかし……彼は人前に姿を現すことを厭っています。
 玲熙さんの導き手として、相応しいかどうか──」

「私がそう申していたと、どうか伝えてください。
 あの方はきっと承諾してくださるでしょう──そういう方なのです、昔から」

 柔らかく微笑んだ銀の鬼は、緊張した面持ちの融に視線を向けた。

「融、そなたは、どうか、いつまでも玲熙の良き友人でいてください。
 そなたの言葉が、そして心が、玲熙を勇気づけ、支えるでしょう。
 そして、そなたの内に眠る者が、そなたに知恵と力を与えるはず。
 彼女は眠っていますが、目覚めた妖力は衰えることはない。
 要について、力の御し方を学ぶことです。
 いつ日か、それがそなたの命を救うことになるでしょう」

 あたかも神の啓示のごとき言葉に、融は真剣な顔で大きくうなずいた。

 それを見て優しく笑いかけ、鬼は、峰月司と冴夜子を見つめた。

「──峰月家の者たちよ……どうか、我が一族の者たちを、今はまだそっと見守っていてください。
 私の願いは、一族が人と共に暮らしてゆくこと。
 決して、争い合う事ではないのです」

「丞は──あなたの式神の器になってしまった丞は、これからどうなるのです?
 僕にしてみれば、息子を……人質として取られたようなものなのです。
 玲熙君を守って、今回のような事が続けば、いつか丞は、本当に死んでしまうでしょう」

 鋭く反駁した司を見返し、雪姫は少し寂しげに微笑み、首を傾げた。

「あれは確かに丞を選びましたが、彼が受け入れなければ、決して強引に己の器にしようとはしなかったでしょう。
 玲熙を守りたいと思ったのは、丞自身なのです。
 これからどうなるのかは──私にも判りません。
 ただ、何を選んでゆくかは、丞自身が決めてゆくこと。
 玲熙を傷つけぬかぎり、あれは、丞の身を守り、時として導いてゆくはずです」

 穏やかな口調で語られる言葉を聞き、司はうなだれたようにうなずくと、曖昧な複雑そうな微笑を浮かべた。
 その肩を、冴夜子が慰めるように叩いた。

 銀鬼は唇に淡い微笑を湛えると、もう一度、傍らに立つ要を見上げた。

「一族の者に伝えなさい。
 この者に……丞に手出しをしてはならぬと。
 主上の式神が宿っているのですから、誰も敵うはずはありません」

 無表情で深く頭を垂れた要を見つめ、雪姫はわずかに心配そうに美貌を翳らせた。

 そして周囲を見渡し、その光景を瞳に焼き付けようとでもするように見つめると、満足したように静かに瞼を閉ざした。

 やがて──長い髪から銀の光が消え失せ、深い闇色に戻ってゆく。

 元の姿に戻った玲熙の身体は、風に吹かれたようにゆらりと揺れると、ゆっくりと折り重なるように丞の上へと倒れたのだった。