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舞の刻



終章



 長い昏睡から目覚め、重い瞼を開いて見ると、そこに空虚なほどに白い天井が見えた。

 ピッ、ピッ、ピッ……と規則正しい電子音が繰り返し、繰り返し聞こえてくる。

 隠岐宮家の当主であり、鬼塚森神社の宮司である隠岐宮泰熙は、ようやくそこが病院の一室であることを悟った。

 何度か瞬きをしていると、薄暗い部屋の一角で、ゆらりと影が動くのが目の端に映った。

 その影はゆっくりとベッドを迂回しながら、横たわっている泰熙の枕元に立った。

「──気分はどうです、お父さん?」

 静かな声で語りかけ、顔を覗き込んできたのは、泰熙の長男である晴熙だった。

 隠岐宮家の次期当主であり、沖月島の住人に孝行息子と評判な晴熙は、何故か疲れ果てたような、激しく面やつれした表情をしていた。

「良いとは言えんな。
 まあ、仕方がない──この歳になると、どこもかしこもガタガタだ」

 己の命がさほど長くはないと知ってはいたが、泰熙は冗談めかして呟き、晴熙に目だけで微笑んで見せた。

 晴熙の端整な顔に暗い翳りが過ぎり、双眸に沈痛な苦悩が漂う。

 それを認めた泰熙は、もう一度瞳を閉じ、かすれた声のまま呟いた。

「──久しぶりに……昔の夢を見た。
 祥子と幼いおまえを、出雲の日御崎の方まで連れて行った。
 あの時は夏の盛りで──白い燈台と青い海が……眩しいほどに輝いていたな」

 その言葉を聞いた晴熙は微かに首を傾げ、自嘲的な笑みを唇に浮かべた。

「一番、穏やかで……幸福な時代だったのかもしれませんね。
 あの頃は何の悩みもなく、日々が楽しく過ぎていった」

 泰熙は双眸を息子に向け、淡々とした口調で訊ねた。

「今は……幸福ではないのかね、晴熙?」

「苦悩の無い、純粋な幸福は──玲熙が生まれたと同時に失われました。
 玲熙が生まれて、お母さんが死んでから、お父さんも以前と同じようには二度と笑わなくなってしまった」

「……全ては移り変わってゆく。
 いつまでも同じというわけにはゆくまいよ。
 だが、おまえには辛い思いをさせてしまったかもしれないな。
 幼いおまえに、私は説明する言葉を持たなかったのだ。
 玲熙が──我が子であって、我が子ではないのだと。
 あれが、選ばれた巫女であり、聖なる生贄なのだと気づいた時、私は何としてでも玲熙を守らなければならないと思った。
 それが、私に与えられた天命なのだと……」

 そう語り、何度か苦しそうに咳き込んだ父親の姿を、晴熙は不気味なほどに蒼ざめた、暗い眼差しで見下ろしていた。

「僕は、あなたと同じ道は歩めない。
 幼い頃の幸福は失われたが、僕にはもっと欲しいものができてしまった。
 そのためならば……一族を裏切ることも厭いはしない。
 ──お別れです、お父さん」

 沈鬱でさえある暗い声を聞き、泰熙は驚いたように双眸を見開いたが、すぐに全てを悟ったようにうなずいた。

「おまえから……『真蛇』の面と同じ波動を微かに感じていた。
 知っていたのに──信じまいとする私の心が、全ての惨劇を引き起こした。
 憎ければ、私を殺すがいい、晴熙。
 だが、玲熙はもう、そっとしておいてやりなさい。
 おまえまでいなくなると……あの子は、隠岐宮家の当主として立たなければならない。
 一族を背負う重さは、誰であっても耐え難い苦痛なのだ」

 その途端、晴熙は虚ろな声で笑った。

「一族など、もう関係ない。
 いつだって、僕は一族という枷から逃れたかった。
 そして、何より玲熙が欲しかった──弟としてではなく。
 一族が僕から全てを奪おうというのなら、僕は一族にとって、もっとも大切な巫女を、玲熙を奪ってやる。
 それが……僕の復讐でもあるのだから」

 そう言いながら、晴熙は、鬼の爪を持った恐るべき腕を振り上げた。

 鋭い鉄爪が閃いたのを見た泰熙は、全てをゆだねるように静かに双眸を閉ざした。

 ──ひゅっと空気が悲鳴を上げ、風圧が顔を打つ。

 しかし喉を切り裂く恐るべき刃はもたらされず、疑問を抱いた泰熙は、驚愕してはっと目を見開いた。

「……あなたの命は、あと僅か。
 残りの時を、後悔し、恐れながら過ごすがいい。
 死に逝くあなたの手から玲熙を奪い、僕は一族を滅ぼす復讐者となるだろう」

「──晴熙! 待ちなさい!!」

 虚空に姿を溶け込ませようとする晴熙に、泰熙は初めて声を荒立てて呼びかけた。

 うっすらと唇に微笑を浮かべた晴熙は、焦りを見せた父親に囁きかけた。

「──さようなら、お父さん」

 そう言い残し、あたかも自ら暗黒の触手に囚われようとするかのように、晴熙は暗い影の中へと消え失せていった。


 竜桜学園高等部の校舎の屋上で、一人惰眠を貪っていた丞は、ふっと目を開けた。

 天空は小さな薄雲が羊のように飛んでいるだけで、目を射るほどの青さで晴れ渡っていた。

 あまりの眩しさに腕を翳した丞は、ここのところずっと悩まされ通しの、頭の中に響く優しい声を思い出した。

 何を語っているのかは思い出せない。

 ただ夢の中で響く声は、どこまでも優しく、透き通った哀しみに満ちあふれていた。

「……いったい、誰なんだろうな」

 自問するように呟いた丞は、その時、美しい夢も幻想も一気に引き裂くような大声で、名前を呼ばれた。

「おーい、丞! 部活に行くぞーっ!!」

 むくりと上半身を起こした丞は、階段へと続く入り口を見下ろし、大きくため息をついた。

「俺は、まだバスケ部に入るとは一言も言ってないぞ」

「だってえ、来週、浜高と練習試合があるのよぉ。
 負けるの、嫌じゃなーい。
 だから、タスク君、助っ人で出てくれないかしらぁ?」

 階段の入り口から丞を見上げ、不気味な女言葉で融がそう叫んだ。

 呆れたように融を見下ろし、丞は宣告するように言った。

「3年に嫌がられるだろう、俺が出ると。
 それより、おまえ、その言葉使いだけは止めてくれ。
 背筋がゾクゾクする」

「あっらー、止めたら、試合に出てくれる?」 

 首を傾げた融に、丞は冷ややかな眼差しを向け、浄水タンクの設置されたコンクリートの屋根から屋上の床へと飛び降りた。

 そして融の前に立ち、琥珀色の瞳で傲然と見下ろした。

「止めなかったら、金輪際、その話は聞かないからな。
 それでも良いなら、勝手にやってろ」

 そう言い残し、踵を返した丞を、慌てふためいたように融が追いかけてくる。

「ごめん、許して、俺が悪かった。
 だから、怒らないでちょうだいよ、タスクちゃーん!」

 屋上から続く階段を共に下りながら、融が必死で説得してくる。

 それを横目で眺めていた丞は、そのあまりのしつこさに、やがて降参したように両手を上げて見せた。

「──判った。出てやるから、そう騒ぐのはやめてくれ」

「あら、ホント? 嬉しいわあ、僕」

「いい加減にしないと、前言撤回するぞ」

 夕陽の射し込んでくる教室に戻ると、人の少なくなった中で帰り支度をしていた玲熙に出会った。

 清冽な美貌を上げ、丞と融の姿を認めた玲熙は、転校当初に見せていた硬い表情が嘘のように柔らかく微笑んだ。

「──明日の夜、神社で薪能を行うんだ。
 良かったら、融と一緒に見に来ない?」

 父親は入院し、兄である晴熙は失踪している。
 それでもなお微笑んでみせる玲熙の笑顔はあまりにも痛々しく見えたが、しかしその苦境を必死で乗り越えようとする意思を感じさせた。

 玲熙の中で何が変わったのか──。

 感情を無くし、他人に流されるばかりではいけないと悟った潔い決意と、死に物狂いで耐えていなければ崩れてしまいそうな苦悩が、ときおり玲熙の瞳の中で交錯していた。

 翼を折られ、傷つきながらも、なお天を目指そうとする鳥のような悲愴感。

 飛べないのなら、その傷が癒えるまで守ってやりたいという庇護欲が湧き起こってくる。
 それは、丞の中に生まれた、かつて無いほどに強い感情だった。

 しかしその思いを隠すように、丞は唇に淡く微笑を浮かべた。

「──ああ、是非、見に行かせてもらう。
 でも、融はどうだろうな。
 今度の練習試合に、ずいぶん入れ込んでるみたいだが」

 首を傾げた丞を見上げ、融はべっと舌を出した。

「行くに決まってんだろ。
 久しぶりに玲熙の舞台、見たいもんな。
 あ、でも、疲れちゃって、眠っちゃったらごめんな」

 そう言って笑い出した融を見返し、玲熙はくすりと微笑んだ。

「じゃあ、二人分の席を先にとっておくね。
 それとね、丞、今日はナナシと遊んであげられないんだ。
 お父さんが退院するから、要と一緒に迎えにいかなきゃ。
 また明日、遊びに行くね」

 片手を振って教室から出ていった玲熙を見送り、丞は知らずため息をついていた。

 それを怪訝そうに見上げ、融が問いかけた。

「やーねぇ、タスクちゃんってば、まさか恋煩い?
 最近、玲熙ってばますます綺麗になっちゃって、幼馴染みの俺でさえ胸苦しいもんねえ。
 あんな事件は思い出すのも嫌だけど……玲熙が変わったのは確かだよな。
 何だか──玲熙が急に大人びちゃって、俺はちょっと寂しい」

「あんな事件があっても、何も変わらないおまえの方が、俺には驚異だな」

 そう言い、丞は明るく光が反射する教室の窓に歩み寄った。

 あれほど大騒ぎを繰り広げていた報道陣の姿も、2週間が過ぎた今では、めっきり少なくなっている。

 海の彼方へ落ちてゆく西日を見つめていた丞は、玲熙が小走りに校舎の前庭を横切り、校門に向かって駆けていく姿を見下ろした。

 校門の前には、いつものように隠岐宮家の黒いメルセデス・ベンツが横付けされ、開いたドアの横に沖守要の姿があった。

 扉が閉められ、沖月島へと走り去っていく車を見送った丞は、きらきらと白い波濤の輝く鬼ヶ浦を見つめ、大きく深呼吸をした。

 長かった4月もやっと終わりに近づき、来週からはゴールデンウィークが待っている。

 ようやく、平和な日常が戻ってきたような気がしていた。

 穏やかな日常は決して長くは続かないだろうと察しつつ、それでも束の間の休息がもたらされることを、丞は心から喜ばしいと思っていた。



─ The End ─