Rosariel.com
舞の刻



<序章>



 暗闇に包まれた森の中を、ひときわ強い不気味な生ぬるい風が吹いた。

 空を覆い隠すように大樹が立ち並ぶ山道を、女が一人、1時間近くも息を切らしながら歩いていた。

「──もう、どこまで歩けばいいのよ。
 ホテルに帰れないじゃない」

 低い段差を上がった所で立ち止まり、歩き疲れてい松代明美は、スカートが汚れるのも構わずその場に座り込んでしまった。

 右手に持っていた懐中電灯で前方を照らし出すと、彼女は不安と怒りに満ちた声を上げた。


 沖月島に旅行に来ていた明美は、海辺に立つ竜泉閣ホテルに宿泊中だった。
 最近になって有名になった沖月島は、国内の新たなリゾート地になっていたのである。

 有給休暇を取って沖月島に来ていた明美は、ホテルのビーチで夕方まで恋人と二人で戯れていた。
 そして夜に催される花火大会を見るため、恋人と共に、ホテルと海が一望できる高台を探しに来たのだった。

「慎二のバカ! いったい、どこをほっつき歩いているのよ」

 明美は隣にいない恋人を大声で罵った。

 その途端、木々が大きく揺れ、ざわめいた。

 闇の中に響く風と木々の音に怯え、明美は涙を溜めた目で周囲を見回した。

 まるで嘲笑うかのように揺れる木々は、夜の闇の深さと重さをひしひしと感じさせた。

 生れた時から不夜城の町に慣れきっていた明美は、夜闇がこれほど重く、恐れをかき立てるものだとは今まで思ってもみなかった。

 星すら見えない深い森に迷い込んでしまった明美は、叫び出しそうな心を必死で押さえ込んだ。
 そしてもはや足手まといでしかないサンダルを脱ぐと、一応は整備されている石畳の歩道を歩き出した。

「怖くなんかない……ただの森じゃない」

 自分自身を納得させるように、明美はそう呟きながら歩いた。
 人の気配と声がないことが怖かった。
 独り言を言わずにはいられないほど、不安で恐ろしかった。

 黙ってしまうと、風に揺れる木の音と、時々聞こえてくる何かの獣の声が森中に響く。

 その耳慣れない音が、明美の恐怖をいっそうかき立てるのだった。


 その時、凄まじい雷鳴が空に響き渡った。

 空を引き裂くほどの悲鳴を上げ、明美は思わずその場にしゃがみ込んだ。

 一瞬、木々の間から稲妻が見えた。

 森を震撼させるほどの雷鳴が長く尾を引き、強い風が吹き抜けていく。

 明美はがくがくと震える膝を引きずるようにして立ち上がった。
 度重なる稲妻と雷鳴に、ただ悲鳴を上げながら、彼女はサンダルと懐中電灯を持って無我夢中で走り出した。

 心臓は限界に達するほど速く脈打ち、血を吐きそうなほど息切れがした。
 しかしパニック状態に陥っていた明美は、森から抜け出したい一心でひたすら走り続けた。


 それからどのくらい走っただろう。
 明美は深い森を抜け、広場に出ていた。

 ぜいぜいと喘ぎながら明美は立ち止まり、周囲を見回した。

 強い風に煽られ、桜が吹雪のように散っていた。

 広場は桜の老木に囲まれ、中央にはどっしりとした能舞台が建っている。

 稲妻が走った時、明美は能舞台の向かいに荘厳な社殿が建っているのを見た。

「……よかった。鬼塚森神社だわ」

 明美は大きくため息をついた。
 その社殿には見覚えがあった。
 彼女はもう一度安堵のため息をつくと、もう一度周囲を見渡した。

 どうやら自分は神社の裏手にある森に迷い込んでいたらしい。

 そう納得すると、明美はもう雷も怖いとは思わなかった。
 鬼塚森神社には、昨日観光がてら参拝に来たばかりなのだ。
 帰り道はよく判っていた。

 ホテルに帰ろうと思い、明美は参道に向かって歩き出した。
 その時、明美はふと能舞台の上に人影があるのを見た。

 そして、舞台の下にもう一人。

 その後ろ姿は、見慣れた恋人のものだった。

「──慎二! あんた、こんな所にいたの!?」

 安心とそれゆえに起こった怒りに駆られ、明美は恋人の傍らに走り寄った。

「ねえ、慎二ったら。聞いてるの?」

 そう言い、明美は男の腕を取った。
 しかし慎二は何の反応もしない。

 自分の声に反応しない男に不審を覚え、明美は慎二の視線の先を追った。

 風が吹き、桜が一斉に揺れ動いた。
 淡く色づいた花弁がはらはらと宙を舞い、舞台に落ちていく。

 茂みに隠された証明に照らし出された能舞台では、美しい女面をつけた何者かが、絢爛たる能装束を身につけ、静かに舞っていた。

「……何、あれ?」

 稲妻が夜空を切り裂き、ひときわ鮮やかに舞台を照らす。

 声もなく立ちすくんだ明美は、男の腕に力一杯しがみついたまま、魅入られたように舞台を見つめていた。

 能舞台の上では、美しい女が舞っていた。
 稲妻の光と舞い散る桜吹雪の中で、女はこの世ならざる不気味な美しさで舞う。
 その姿は、どこかドロドロとした怨念が覆い被さっているように見えた。

 舞台の下に立ちつくした二人は、妖艶な舞から目をそらすことができなかった。

 と、女が持っていた扇を投じた。

 かつんと扇が落ちる音がする。
 その途端、二人は夢から覚めたように我に返り、お互いに顔を見合わせた。

「……慎二」

「──明美、よかった。無事だったんだな」

 慎二は生気のない顔で笑った。

「おまえ、どこに行ってたんだよ。必死で捜したんだぜ。
 おまえが懐中電灯持って行ったからさ。
 仕方なく電灯を頼りに階段を上がってきたら、こんな所まで来ちまった」

 慎二の言葉に、明美はムッとした。

「あたしのせいだって言うわけ?
 あんたが先にさっさと歩いて行っちゃうからじゃないのよ。
 階段につまずいたとき、慎二を呼んだのに……」

 そう言って慎二の顔を見上げた時、明美は彼の顔が恐怖に引きつっているのを見た。
 不思議に思い、能舞台を振り返る。

 舞台の上に、先ほどの美しい女はいなかった。
 その代わりに、恐ろしい形相をした女が立っていた。
 長い日本刀を持った鬼は、二人と睨みつけ、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。

「きゃあああっ!」

 思わず明美は甲高い悲鳴を上げていた。

 その途端、慎二は明美の腕を振りきり、必死の形相で森の中へと逃げ込んでいった。

 先に逃げ出した慎二を追って、明美は抜け出してきたばかりの森へと走った。

 気を抜くと腰が抜けそうになる。
 つまずき、転げそうになりながら、明美は薄情な男を追いかけた。

「いやあああっ! 慎二、待ってよおっ! 置いて行かないでっ!!」

 どこまで逃げても、後ろから恐ろしい鬼の息づかいが聞こえてくるような気がした。

 泣き叫びながら走っていた明美は、石畳の間から出ていた木の根につまづき、転倒した。
 そのままの勢いで坂を転げ落ちた明美は、山道からはみ出し、木の根元に叩きつけられた。

 激痛に呻きながら、明美は身体を起こした。
 コンタクトレンズがずれてしまったのか、どこかに飛んでしまったのか、目の前がぼやけてよく見えなかった。

 ぼろぼろと涙を流しながら、明美は懐中電灯を手探りで捜した。
 その時不意に、目の前に誰かが立っていることに気づいた。

「……え? 慎二なの?」

 足下からゆっくりと視線を上げていった瞬間、雷光が周囲を照らし出した。

 悲鳴は出なかった。

 壊れた笛のような音が喉から出たのを、明美は他人事のように感じていた。

 視線をそらすことができなかった。

 再び暗くなったというのに、明美の瞳は、そこにいるものを正確に見とっていた。


 ──かっと口を開き、牙を剥きだして嘲笑う恐ろしい形相の鬼。


 明美の脳裏には、鬼の顔がはっきりと刻み込まれた。