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舞の贄



<1>



 岩壁に挟まれた細い階段を下りてゆくと、そこには煌めく夢幻の氷室があった。

 遙かな高みから一条の陽光が矢のように降り注ぎ、光は反射を繰り返しながら、その空洞を輝かせる。

 透明な氷の壁──否、それは澄んだ輝きを帯びた水晶の壁であった。

 無数の結晶に覆い尽くされた水晶の室は光炎の波動をさざめかせ、深い大地の鼓動をも響かせる。

 磨き抜かれた鏡面のごとき床の一部には、滾々と清水が沸き上がり、美しくも神秘的な青き泉があった。

 泉から流れ出した水は、溢れ出すこともなく静かに循環しながら、円形の舞台のような高床の周囲を巡る。

 ほぼ円錐形をした輝く鉱石の洞は、地球そのもののエネルギーを蓄え、混沌とした力を浄化しながら、繰り返される生命の営みを密やかに囁きかけていた。

 わずか三段の階段を上がり、<水晶の臺(うてな)>と呼ばれている円形の台座に上がった沖守要は、神秘的な泉を見下ろす位置に立った。

 本来は色彩の無い透明な空間ではあったが、射し込む陽光がいたるところに七色のプリズムを生み出している。

 深い青みを帯びた泉の上にも淡い虹がかかり、水に身を浸した人物の長い髪を美しく輝かせていた。

「──久しいな、要。
 いつも多忙なおまえがここに出向いたからには、相応の理由があるのだろうが」

 見下ろしてくる要に背を向けたまま、その人物は淡々とした口調で告げた。

 深みのある硬質な声が神秘的な空間に反響して広がり、それはあたかも大地そのものの声のように美しく響いた。

 色素の無い純白の髪が、水の中を漂い、長い絹糸のように水面に揺らめいている。

 夢幻の空間──水晶の獄(ひとや)の主もまた、この世ならざる幻想を見る者に抱かせた。

「君に頼みがあって来た──玲熙さんの事だ」

 感情を交えない平淡な口調で要が応じると、純白をまとった存在はくすりと小さく笑った。

「……ああ、おまえがそれほど深刻になるのは、玲熙の事しかあるまいよ。
 だいたいの話は聞かされているし、私も……見ていた。
 晴熙が魔妖と化し、玲熙もまた鬼となり、そして雪姫が顕現された。
 ──島の方は、随分と賑やかだったようだな」

「笑い事ではないんだ、志熙(シキ)。
 隠岐宮の当主は病床に伏しているし、もはや宮司として仕える事は無理だろう。
 晴熙さんによって島は汚され──浄化を必要としている。
 雪姫が浄めてくださったが、結界を張り直し、清浄を保つには、やはり宮司の存在が不可欠なのだ」

 その言葉を聞き、志熙と呼びかけられた人物は、わずかに背後を振り返った。

 しかし濡れた純白の髪がその顔を隠し、要の方からは瞳さえ見えない。

「……だから、この私に宮司になれと?
 お断りだ──私はここから離れる気はない。
 弁護士など辞めて、おまえが宮司になればよかろう?」

「それが出来るぐらいなら、わざわざここには来なかった」

 微かに不機嫌そうな声音を聞き、要は唇に苦笑を刻んでそう言った。

 志熙は深い嘆息をもらすと、泉の中から台座へと続く階段を上がった。

 水から上がると、長い純白の髪がその裸体を隠すように肌に絡まる。

 透けるほどに白い肌は真珠のような光沢があり、紛れもない男性体であるというのに、要には彼が何か別の生き物のようにも見えた。

 隠そうともせず裸体をさらして要の前に立った志熙は、その純白の長い髪のせいか、生きた人間というよりは大理石の彫像のようでもあり、不思議なほど生々しさを感じない。

 硬質な微笑を刻んだ美しい唇は血が透けるほどに紅く、白子(アルビノ)のような容姿でありながら、その瞳は深い闇を溶かした漆黒であった。

 双眸の闇と、鮮血の唇──それだけが志熙を彩る色であり、男にしてはひどく繊細で中性的な美貌を、一際幻想的なものに変えている。

 水に濡れた右手をついっと掲げ、志熙は艶麗な微笑を浮かべると、その指先で要の胸を押さえた。

「おまえの胸の裡は読めているのだぞ、要。
 私を懐柔し、晴熙から玲熙を守ろうと考えているのだろうが……。
 止めておけ、おまえが過保護になるほど、玲熙は自らの身を守れなくなる。
 恐らく、当主はもうさほど長くは生きられまい、晴熙もまた当主にはなれぬ──隠岐宮家の直系は玲熙ただ一人……となると、巫女であろうと、一族を統べねばならぬのだ。
 ゆえに、強くなってもらわねば困る──だが、私が出てゆけば、玲熙は私を頼るだろう」

 志熙はすいっと滑るような足取りで要から離れると、台座の上に置いてあった白色無紋の単衣(ひとえ)を取り上げ、袖を通し始めた。

 慣れた動作で神官がまとう浄衣を身につけた志熙は、腰まで届くほどに長い純白の髪に指を通し、優雅な動作で梳いた。

 きらきらと清水の雫が水晶の床に落ち、その音までもが空間に調和する。

 降り注ぐ陽光を眩しげに見上げた志熙は、黒水晶のように怜悧な双眸を要に向けた。

「──要、雛鳥をいつまでも庇護していては、空を飛べなくなる。
 玲熙には、玲熙の進むべき道があるのだ。
 おまえの執着で、彼の足を止めさせてはならない」

 年齢はさほど変わらず、要よりも華奢で背丈も低かったが、志熙の言葉は厳しく、その身を取り巻く雰囲気は閃く刃のように鋭かった。

 沈黙して志熙の言葉を聞いていた要は、不意に自嘲するような微笑を唇に刻んだ。

「……なるほど、やはり君が<導き手>ということか。
 雪姫が、君を玲熙さんのために島へ呼び寄せろと言っておられた。
 君は、きっと承諾してくれるだろうと」

 要の言葉を聞いた瞬間、不意に志熙の瞳に懐かしむような感情が揺らぎ、その身を取り巻く峻厳な覇気が凪いだ。

「──ゆきが……雪姫がそう言っていたのか?」

「ああ──過去を、平和だった頃の事を思い出して、ひどく懐かしんでおられた。
 あの方の悲しみは深い……多分、誰よりも」

 儚いほどに美しい銀の鬼を思い出すように宙を仰いだ要は、ふと志熙を見返した時、その漆黒の瞳から一粒の晶滴が流れ落ちたことに気づいた。

「──あれの悲しみも、一族の悲劇も……全ては吾が招いたもの。
 じゃが、雪姫は決して吾を責めはすまい──誰に対しても優しく、憐れみ深いゆえ。
 吾は、吾の罪を償わねばならぬ。
 人の罠に落ちたのは……吾の甘さゆえじゃ」

 光を弾く長い睫毛を伏せ、憂えるように呟いた志熙は、まるで別の存在が憑いたかのように幽玄だった。

 一度、黒曜石の瞳を閉ざした志熙は、冷たく静謐な双眸で要を見返すと、唇に淡い微笑を刻んだ。

「おまえと共に島に戻るとしよう。
 だが、この水晶の獄から出て暮らすようになれば、私には糧が必要となる。
 毎日とは言わぬが、誰かしらの妖力を奪わねば、私は暮らしてゆけない。
 ──それでも良いのか?」

「必要なら、僕の力を奪えばいい。
 君は、晴熙さんのように人を殺さなくても、生きてゆく術を知っているはずだ」

 軽く肩をすくめた要をじっと見つめ、志熙はくすりと謎めいた微笑を浮かべた。

「──その言葉を後悔することがなければ良いが。
 だが、まあ良い。
 おまえが嫌がるなら、一族の中から替わりを見つけよう」

「無理にこの室から君を連れ出すのだから、当然、君を助けるのは僕の義務だ。
 命を取られるのは困るが、それ以外であれば君に従おう」 

 その途端、志熙はくつくつと喉の奥で笑い出すと、濡れた長い前髪を掻き上げ、典雅でありながらひどく艶めかしい流し目を要に向けた。

「義務か……義務というだけで、おまえは私を抱けるのか、要?
 望むならおまえを幻惑してもいいが、いちいち誘いかけるのは私も面倒ゆえな。
 それならば、私を見て欲情する輩を相手にする方が気楽なのだよ。
 命は取らぬが、精気はいただく。
 私との情交は、命を削るようなものだ──定期的に交わるとなればなおさらな。
 それに……おまえは玲熙を愛しているのだろう?」

 内心では驚愕しながらも、要はそれを顔に表すことはなかった。

 憐れむように要を見つめた志熙は、すっと片手を上げ、秀麗な男の頬に触れた。

「報われぬ恋に懊悩しながら、守護せねばならぬのは苦しかろう?
 じゃが、それもまた一族の宿命かもしれぬ。
 吾もまた雪姫を愛したが、触れる事は叶わなかった。
 あの方は……主上の奥方となられたゆえに──」

「──志熙……」

 要が低く名前を呟くと、その名を呼ばれた者は美しく、神秘的な微笑を浮かべた。

「いいや──吾は雪綺(セツキ)じゃ……」

 そして血のごとく紅い唇をつり上げると、あたかも誓約を交わすかのように、彼は要の唇にゆっくりと接吻したのだった。