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舞の贄



<22>




 夜がさらに深まり、湿り気を帯びた重い空気が木々の間を流れた。

 遊び疲れてしまったせいか、入浴後、早々に寝床についていた玲熙は、足の爪先から滑り込んでくる冷たい気配に気づかぬまま、小さなため息をもらして寝返りを打った。

 闇の中から、囁きかけるような声が聞こえる。

「──……き。……れいき……玲熙……」

 聞き覚えのあるその声──幼い頃から常に傍にあった兄、晴熙の声が耳元で響いたような気がして、玲熙は眠りに落ちたまま眉宇をひそめた。

 寝間着にしている白い浴衣の裾を開くように、凍えた妖気が白い肌の上を滑る。

 背筋に戦慄が走り、その冷ややかな感触から逃れようとした玲熙は、睡魔に囚われたままぴくりとも身体が動かないことに気づいた。

 玲熙の抵抗を嘲笑うように、人間のものではありえないほど冷たい手が、温かな肌を求めるように触れてゆく。

「……玲熙──おまえは誰にも渡さない……おまえは、僕のものだ……」

 狂気を帯びた声は、驚くほどはっきりと聞こえてきた。

 裾を割って広げられた両足の付け根に顔を埋め、ぴちゃぴちゃと音を立てながらうっすらと流れ出した蜜液を吸う者がいる。

 玲熙は金縛りにあったように身動きすることもできず、ただその怪奇な愛撫に身を任せるしかなかった。

「あ……あっ……あ、うぅ──ッ」

 絶叫を上げたかったが、喉が凍りついてしまったように声が出ない。

 夜闇の中で震えていた玲熙は、身体の奥に眠る淫靡な快楽の種火が少しずつ大きくなっていくような錯覚に囚われ、恐怖と快楽の間でかすれた悲鳴をもらしていた。

「……ああ、美味い……おまえの蜜は甘くて、酔ってしまいそうだ。
 失われた力が……全て、戻ってくるような気がする」

 淫猥な愛撫を繰り返しながら、陶酔したような嘆息が花芯に吹きかけられる。

 目に見えない束縛から死に物狂いで逃れようと、玲熙は総身を弓なりに仰け反らせて拒絶を放った。

「……いや……いやあぁッ──僕に…触らないで……ッ!」

 堰を切ったように涙が溢れだした瞬間、、光を弾く刃のように鋭い気配が禍々しい妖気を引き裂いた。

「くくく……綻びた結界を繕うには、まだ時間が足りない。
 さらには内側に<邪鬼>が入り込んでしまっている。
 魔妖となった僕からおまえを守ることなど、誰にもできはしないよ……」

 嘲弄に満ちた笑いを響かせ、闇の深淵にその気配は吸い込まれていった。


 
 畳の上に敷かれた布団の上で、玲熙はふっと瞼を開いた。

 静かに眠っていたはずだというのに、びっしょりと寝汗をかき、頭の奥が重かった。

 気が高ぶっていたせいで眠りが浅かったのか、ひどく嫌な悪夢を見たような気がする。

 布団の上で天井を仰ぐように寝返りを打った玲熙は、ふと、夜が異様なまでに暗いと感じた。

「──新月だからかな……」

 ぽつりと呟いた玲熙は、冴えてしまった双眸を閉ざされている障子に向けた。

 夢の内容を思い出そうとすると、反発するように頭がずきりと痛む。

 しかし、身体の奥に秘められた部分が、熱を持って疼いているような気がして、玲熙は恐る恐る指先で確かめようとした。

 しかし寸前で思いとどまり、玲熙は羞恥で顔を赤らめながら、ゆっくりと布団の上で上半身を起こした。

 すぐに寝直すことを諦め、浴衣の裾を整えて立ち上がった玲熙は、忍び足でそっと自室を抜け出した。

 日中は夏のように暑かったものの、さすがに深夜になると肌寒いほどに涼しい。

 毎日磨かれている板張りの廊下を歩みながら、玲熙はガラス窓越しに夜空を見上げた。

 深い漆黒の夜空の中で、星が瞬きながら宝石のように輝いている。

 長い廊下を曲がったところで、玲熙は足を止めた。

 回遊池が巡らされた中洲の中に立っている巨大な桜の横に、おぼろげな白い人影がたたずんでいる。

 闇の中でさえほの白く輝いている姿は、深緑になった葉桜の太い幹にもたれかかっているようにも見えた。

「……志熙さん?」

 からりとガラス戸を開け、玲熙が躊躇いがちに声をかけると、その影がゆらりと動いた。

 驚愕している玲熙の方に顔を向けた志熙は、長い白絹の髪を涼やかな夜風に遊ばせながらゆっくりと歩み寄ってきた。

「──玲熙さん、眠れないのですか?」

 穏やかでありながら、凛とした強さを持った声が、深夜の静謐を乱さぬように問いかけてきた。

「ええ、一度眠ったのですが、多分、眠りが浅かったんだと思います。
 何だか身体が重くて、目が冴えてしまって……眠れなくなってしまいました」

 玲熙が小さく苦笑をもらすと、志熙が謎めいた眼差しを向け、そして不思議なほど優しく微笑んだ。

「──明日は雨が降りますよ。大気が不安定になっている。
 あなたが眠れないのは、多分、そのせいでしょう」

「……雨、ですか?」

 満天の星空を振り仰ぎ、訝しげに首を傾げた玲熙を見て、志熙はくすりと笑った。

「疑っているんですね──まあ、いいでしょう。
 ……ところで玲熙さん、夕刻、あなたのご学友にお会いしましたよ」

 志熙の突然の言葉に、玲熙は愕然として彼の白い端整な顔を見返した。

 神秘的とすら言える謎めいた淡い微笑を浮かべ、志熙は淡々と言葉を続けた。

「──私はね、玲熙さん……彼を見たとき、とても驚いてしまった。
 彼は、かつて私がよく知っていた人物に、驚くほどそっくりだったから。
 不覚にも涙が出そうなほど懐かしく思えた……彼自身は、まるで私の事など知らないという顔をしていたが」

 困惑した表情の玲熙を、志熙は楽しんでいるように微笑みながら見つめた。

「私は、人々の間で異端とされていた一族の中においても異端者なのです。
 この白い髪のせいで、ほとんど表だった場に出ることはありませんでした。
 けれど、私はあなたの事を見ていましたよ──幼い頃からずっと。
 あなたは引っ込み思案で臆病で、いつも要の背中の後ろに隠れていた。
 だからこそ驚いてしまった……そのあなたが、一族以外の者に心を許すとは思いもしなかったから。
 ──それも、よりによって峰月家の者だとはね」

「……峰月?」

 訳が分からず呆然としている玲熙を見つめ、志熙は哀しげな笑みを浮かべた。

「あなたは何も知らなかったのですね、玲熙さん。
 確かに、知らない方が幸せな時を過ごせる。
 玲熙さんのお父様は、きっとそう考えられたのでしょう。
 しかし──それは罪な事です」

 そう言い、志熙は夜空を仰いだ。

「一族がかの地を追われてから、もう五百年以上も経ってしまった。
 かつての栄華は取り戻す術もない……だが、それでも一族は、見果てぬ夢を見ている」

 独白するように低く呟いた志熙は、戸惑いの表情を浮かべる玲熙に視線を移した。

 そして、舞を舞うような優雅な動きで、ひたりと玲熙の額の上に掌を翳した。

「今度は良い夢を見なさい、玲熙。
 今のあなたに必要なのは、己自身を知る事なのだから」

 ひんやりとした冷たい手の感触を感じた瞬間、玲熙の意識は吸い込まれるようにふっと遠のいた。

 深い眠りに墜ちていきながら、玲熙は囁くような声を夢うつつに聞いていた。

「──時は動き出した……おまえは、運命に出会ってしまったのだから──」