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舞の贄



<23>



 何故か、異常なほど朝早く目覚めてしまった玲熙は、瞼を手の甲でこすった。

 頭の奥が霞んだようにぼんやりとしており、頭の芯が重い。

 真夜中、志熙に出会った事だけはうっすらと覚えているのだが、その記憶は曖昧で霧の中の出来事のように朦朧としている。

 枕元に置かれた時計を見ると、時計の針は五時を五分ほど過ぎている。

 朝食にはまだ早く、もう一度寝直そうかとも思ったが、玲熙は着替えをすませた。

 今日は学校も休みということもあり、少しのんびりとして重い気分を払拭しようと思い、玲熙はそっと屋敷を抜け出した。

 早朝の東天は朝焼けに染まり、海にもその色が溶けだしているように見えた。

 湿気を多く含んだ風が、海から黒髪を散らすように吹き上げてくる。

(雨が降るって……誰かが言っていたような……)

 ぼんやりとしたまま海辺の道路を散歩していた玲熙は、いつの間にか、昨晩バーベキューをした浜辺の近くまで来ている事に気づいた。

「──峰月家、か……」

 志熙から告げられた言葉の一部が、頭の隅にほんの少しだけ留まっている。

 声に出して呟いていた玲熙は、黒い屋根瓦が見える白壁に囲まれた家を見つめた。

(隠岐宮家と、峰月家と、いったいどんな関係があったのだろう。
 丞はそれを知っているんだろうか……)

 思いを巡らせて立ち止まったちょうどその時、海の方から波の打ち寄せる音とは違う、大きな魚が跳ねるような水音が聞こえてきた。

 はっと振り返った玲熙は、満潮に近い海の中で、誰かが泳いでいる事に気づいた。

 高いうねりを持った波の合間から、時折、長い手足が垣間見える。

 夏日が続いているとは言え、鬼ヶ浦の水温は凍えるように冷たく、海水浴を楽しむシーズンにはまだ早すぎる。

 堤防の脇にあるコンクリートの階段で砂浜に下り立った玲熙は、青い波間で輝いている金色の髪を見た。

 朝日を浴びて輝く髪が、あたかも黄金の波のように揺れている。

「──まさか、丞?」

 丞に早朝水泳の趣味があるとは聞いていなかったが、それでも家の目の前が海水浴場にもなる砂浜なのだから、泳いでいても不思議はないのかもしれない。

「丞っ! こんな時間に、どうして泳いでいるの!」

 玲熙が大声で呼びかけると、ざばっと波間が盛り上がり、砂浜を目指していた人影が立ち上がった。

 金色に輝く頭から海水が滝のように滴り落ちる。

 瞬間、玲熙はふっと意識を引っ張られるような奇妙な感覚を覚えた。

 ──いつか見たような風景……記憶には無かったが、何故か懐かしく思えてしまう。

 デ・ジャヴーというものなのだろうかと眉をひそめた時、立ち上がったその人物が濡れた髪を掻き上げ、少し驚いたような表情で玲熙を見つめた。

「──アルラウド!?」

 水に濡れた秀麗な顔を見返し、玲熙は驚いて声を上げていた。

「おや、レイキ……こんな朝早くから、タスクに会いに来たのか?」

 にやりと唇を歪め、アルラウドはからかうような口調で問いかけた。

「ち、違うよ──僕はただ、散歩をしていただけで……」

 人違いをしてしまった気まずさに玲熙は焦って答えたが、海から上がってくるアルラウドの姿を見て、慌てて視線を逸らした。

 長身でモデルのような体躯を持つアルラウドは、人目というものを全く気にしていないのか、全裸で泳いでいたようだった。

 恥じらう様子もなく近づいてくるため、玲熙は慌てふためく。

「──おい、レイキ、どうした?」

 顔を背けるようにしてうつむいている玲熙を見やり、アルラウドが怪訝そうに首を傾げる。

 そして赤く染まっている玲熙の美貌に気づくと、さもおかしげに声を上げて笑い出した。

「どうしておまえが赤くなるんだ?
 初な女じゃあるまいし、見慣れているだろうが」

「だ…誰かに見られたらどうするんです? とにかく、早く何か着て下さい」

 必死で視線を合わせないようにしている玲熙を見下ろし、アルラウドはくつくつと笑った。

 そして玲熙の細い肩をつかむと、強引に自分の方に振り向かせた。

「おい、こっちを見ろ」

 顔を背ける玲熙の顎をつかみ、アルラウドは力任せに己を見させた。

 玲熙は唇をきつく噛んだまま頬を赤らめていたが、アルラウドの上体の片側半分が火傷の痕で覆われていることに気づき、はっと双眸を見開いた。

 焼けただれた皮膚を指でなぞり、アルラウドが独白するように呟いた。

「爆発に巻き込まれた時、この火傷ができた。
 まったく、酷い傷痕だと思うだろう?
 この傷のせいで、俺の顔につられてきた女どもは、怯えて逃げ出す始末だ。
 うんざりしているのは、俺の方なんだがね」

 微かに自嘲的な笑いを浮かべたアルラウドは、痛いものを堪えるように眉をひそめている玲熙の黒い瞳をのぞき込んだ。

「そんな顔をするな、レイキ。
 俺は別にこの傷痕のことなんて気にしていない。
 おまえは同情などしなくていいんだ──不能になったわけじゃないしな」

 淡々と語るアルラウドの端整な顔を呆然と見上げていた玲熙は、最後に卑猥ですらある言葉を聞き、さっと頬に朱を走らせた。

 その様子を見守っていたアルラウドは、片腕で玲熙を深く抱き込むと、もう片方の手で顔を仰のかせた。

「……は、放して!」

 怯えを含んだ表情になり、玲熙は逃れようと抗った。

 アルラウドは易々とその抵抗を封じ込め、細くしなやかな身体に己の肉体を押しつける。

「誘ったのはおまえだぞ──もっとも、今ここで襲おうなんて思ってるわけじゃない。
 だが、そんなに暴れていると、俺の気が変わるかもしれないな」

 何気ないような調子でアルラウドが低く告げると、玲熙はびくりと身をすくませた。

 小刻みにブルブルと震える強張った身体を感じながら、アルラウドは口の端に禍々しく、美しい微笑を浮かべた。

「……そう、それでいい」

 大人しくなった玲熙の長い黒髪を、アルラウドはゆっくりと指先で梳き上げてゆく。

 何をされるのかと不安に震えていた玲熙は、不意に、髪を根元から強く引っ張られ、尖った悲鳴を上げた。

 薄く開かれた玲熙の唇に、アルラウドは貪るような口づけを与えた。

 深く唇を塞いで舌を絡め、悲鳴を封じるように吸い上げる。

 縦横無尽に暴れるアルラウドの舌に翻弄され、あまりの息苦しさに呻いた玲熙は、必死で抵抗しようとその逞しい肩に爪を立てようとした。

 しかし指先にケロイドになった火傷の傷痕を感じ、思わず腕から力が抜ける。

 それに気づいたアルラウドは、さらに玲熙を引き寄せた。

 しかし、彼はふと動きを止めると、突然玲熙の身体を解放した。

 ショックのあまりずるずると砂浜に座り込んでしまった玲熙を見下ろし、アルラウドは近くに放り出してあったバスローブを裸体に羽織った。

「おいおい、キス一つで腰が抜けたか?」

 荒い息を吐いている玲熙に、アルラウドは笑いながら声をかける。

 玲熙は涙で潤んだ漆黒の双眸で、きっとアルラウドを強く睨みつけた。

「──どうして…こんなことを?」

「おまえがあまりにもチャーミングだったからな。
 それより──寄っていくか、せっかく来たんなら?」

 あたかも自分の家でもあるかのような言いように、玲熙は思わず唖然としてしまった。