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舞の贄



<26>



 丞の家から飛び出した玲熙は、海岸線に沿ってしばらく歩いていくうちに、激しい自己嫌悪に陥っていた。

(……丞は、何も悪くないのに──)

 もちろん悪いのはアルラウドで、丞は何もしていないし、何も悪くないはずだった。

 そうだと言うのに、無性に腹が立ったのはアルラウドではなく丞の方で、玲熙は彼を責めてしまった。

 丞はただ慰めてくれようとしただけなのに、何故あんな態度をとってしまったのか──。

 深いため息をついた後、玲熙は手の甲で唇を拭っていた。

(──僕がアルラウドにキスされたのに……丞は、何とも思ってないんだ──)

 アルラウドにキスをされた以上に、その事の方に自分はこだわり、傷ついている。

 どうしてこれほどに苛ついて、悲しんでいるのか、その理由が判らなかった。

 いつの間にか自然に歩みは遅くなっていたが、その場所に来たとき、玲熙はふと足どりを止めた。

 海岸に打ち寄せる波音に混じって、激しく水が流れ落ちる音が響いてくる。

 竜海山を源流とする青津川を遡ると、「狐参りの滝」と呼ばれる三段の滝に行き当たるのだが、どうやらその滝から聞こえてくる音らしかった。

 青津川にかかっている眼鏡橋の欄干にもたれかかった玲熙は、海と川とが入り混ざる河口を見下ろし、もう一度深いため息をもらした。

「──どうしよう……丞、怒っちゃったかな……」

 澄み切った海の青の中に、白い気泡が渦巻いている。

 その神秘的な深い色合いを見つめていた玲熙は、いつの間にか頬に涙が伝い落ちていることにも気づかなかった。

 石の欄干に顔を伏せた玲熙は、不意に湧き起こってきた衝動に身を震わせた。

「……ごめんなさい──どうか、僕を嫌いにならないで……」

 あれほど丞に助けられたり、守ってもらったりしているのに、何時から自分はこんなにも我が儘になってしまったのだろう。

 もっと自分の事を見て欲しい、そう願っている自分がいる。

 目を逸らさずに見つめて、傍にいて欲しい──この気持ちを何と名付ければよいのか判らない。

 決して人に期待せず、多くを望まないと誓った決心が、たったあれしきの事で脆くも崩れ去るとは思わなかった。

 丞から優しさを与えられるたびに、自分は贅沢になってしまって、もっと沢山の優しさと彼の心を欲しがるようになってしまったのだろうか?

 涙を止めることもできずに嗚咽をもらしながら、玲熙は細い肩を抱き締めていた。

「──おい、玲熙じゃないか。どうしたんだよ、そんな所で」

 その時、背後からぱたぱたと軽い足音がして、融が玲熙の肩を叩いた。

 はっと玲熙が濡れた顔を上げて振り返ると、幼馴染みの少年は、驚いたように大きなアーモンド型の双眸を瞠った。

「な、何で泣いてるんだよ、玲熙? 何かあったのか?」

「ごめん、何でもないんだ──散歩してて、通りがかっただけだから……」

 慌てたように手の甲で涙を拭う玲熙に、融は訝しげな眼差しを向けた。

「何でもないって顔じゃないだろ、その顔は。
 おまえ、ひょっとして誰かに変な事言われたんじゃないのか?
 それとも、また誰かに何かされた?」

 言葉を失ってうつむいてしまった玲熙を見て、融が畳みかけるように問いかけた。

「──もしかして、アルラウドって事はないだろうな?」

 融の野生的勘の強さに驚きながらも、玲熙はゆっくりと頭を横に振った。

「そうじゃないけど……ただ、何となく自分が嫌になっちゃって──」

 嘘ではないと思いながら、玲熙は細い声でようやくそう答えると、改めて融の姿を見返した。

 融はジーパンにTシャツ、その上に白いエプロンという出で立ちであり、片手には箒まで持っている。

「──融こそ、どうしたの?」

 思わずそう訊ねると、融は自分を見下ろし、うんざりしたような表情を浮かべた。

「ああ、これね──おふくろから、たまには掃除しろって命令されたんだ。
 あ、うちに寄ってく?
 玲熙が来たって言えば、おふくろも許してくれると思うからさ」

「でも、迷惑でしょ、こんな朝早くから」

 微かに微笑みを浮かべつつそう言うと、融は顔の前で片手を振った。

「平気、平気──もう朝飯食ったのか、おまえ?」

 玲熙が首を横に振ると、融は明るくにこりと笑った。

「そっか、じゃあ、一緒に食ってけよ。おまえ、何だか顔色悪いよ」

 滝壺の横にある稲荷神社から少し引っ込んだ所にある古い屋敷が、融の生家である割烹旅館「滝桜」だった。

 初夏の青々とした若葉を茂らせる楓や山桜が、屋敷を囲む白壁に薄い影を落とし、梢をすり抜ける風が静寂と涼気で周囲を包み込んでいる。

 幼馴染みに手を引かれるようにして、玲熙は滝沢家の門をくぐった。

「──まあ、玲熙さん、おはようございます。
 お散歩には丁度良い、気持ちの良い朝ですわね」

 融の母親である滝沢清香(タキザワ キヨカ)が、清楚な着物姿で玲熙を出迎え、穏やかに微笑んだ。

 早くに母を亡くした玲熙は、いつも清香に母親の面影を重ねてしまう。

 泣き顔を見られたくないと思いながら、玲熙は深く頭を下げた。

「こんなに朝早くからお邪魔をしてしまって、すみません」

「まあ、そんな事気にしないでくださいな。
 うちは仕込みがあって朝は早いし、今はちょっと一息ついたところなんですよ。
 さあ、どうぞお上がりください、すぐに朝ご飯を用意しますからね。
 融さん、配膳を手伝ってくださいな」

 泣き腫らしたような顔に気づいているのだろうが、清香はそれ以上は何も問わずに、玲熙を母屋の客間へと通した。

「──それで、いったい何があったんだよ?」

 朝食が運ばれ、母親が部屋から出ていくと、融は厳しい表情で玲熙に問い質した。

 幼馴染みの融には隠し事はできず、玲熙はぽつりぽつりと重い口を開いた。

 その話を聞いているうちに、融の顔がどんどん引きつってくる。

「……でもさ、アルラウドの事はもういいんだ。
 問題なのは、その後で丞に八つ当たりしちゃった事なんだよね。
 せっかく慰めてくれたのに──僕、丞を責めちゃった」

「う〜ん、どうしてそんな事になっちゃったわけ?」

 両腕を組んで真剣に考え込みながら、融がさらに問いを重ねた。

「僕にもよく判らないんだけど──ただ、アルラウドより、丞の態度にすごく腹が立ったんだよね。
 何でもっと……本気で怒ってくれないんだろうって」

 首を傾げた玲熙は、しばらく自分の考えを整理するように沈黙していたが、やがてほっと嘆息した。

「──丞ってさ、すごく優しいよね。
 もたれかかってれば安心するし、誰からも守ってくれそうでしょう?
 僕はずっと、その優しさに甘えていたような気がする。
 でも……最近はね、ちょっと守られてるだけって状態が嫌になってきたんだ。
 融やアルラウドと喋ってる時みたいに、もっと言いたい事を言ってくれればいいのにって思うんだ。
 僕と話してる時って、絶対に傷つけないように、丞は言葉を選んでるもの。
 それってさ、やっぱり対等じゃないって事なんだよね」

 玲熙の話を黙って聞いていた融は、少し不思議そうな表情で首をひねった。

「丞が玲熙の事を大事にしてるのは確かだよ。
 でも、だから対等に見てないってわけじゃないだろ。
 玲熙はずっと大変な事件に巻き込まれてたし、お父さんの事もあるじゃん?
 他の奴らより重いものをおまえが背負ってるのを知ってるから、丞は気づかってるんじゃないのかな」

 普段では考えられないほど真面目な発言をした融は、不意ににんまりと唇をつり上げた。

「あのさ──竜桜の女の子の間では、おまえ、もの凄〜く羨ましがられてんだからな。
 何と言っても、あいつはいい男だからさ、外見だけじゃなく。
 結構、ファンは多いらしんだぜ」