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舞の贄



<30>



 丞は何気ない様子で振り向き、その視線の主を捜した。

 ところが振り返った途端に、その気配はふつりと消え失せる。

 野次馬をかき分けるようにしてホールに出た丞は、そこに微かな残り香が漂っていることに気づいた。

 オーデコロンのような香水ではなく、ゆっくりと焚きしめたような雅な薫香──。

 記憶を辿った丞は、ややあってからその残り香の正体を思い出した。

「──白檀……だったかな。確か、榊志熙からこの香りがしていたが……」

 独白するように低く呟いた丞は、そのまま観光客や地元民でごった返している竜泉閣ホテルを後にした。

 鬼ヶ浦に面して建っている竜泉閣ホテルから続く坂道を下った丞は、美しく舗装された道路をゆったりとした足どりで歩いた。

 耳を澄ましていると、道路の脇に並ぶ商店から、店主たちの低い噂話が聞こえてくる。

 彼らの声には、抑えきれない不安と恐怖が隠されていた。

「……また、死体が出たらしい」

「せっかく、落ち着いてきたと思ったがのう」

 この小さな沖月島では、過去に死者が何人も出るという陰惨な事件が発生している。

 呪われた島……面白可笑しく、メディアが先日の事件を書き立てたため、住人の平穏な暮らしは完全に乱されてしまった。

 その騒動がやっと鎮まったばかりというのに、今回の事件である。

 人々が狼狽えてしまうのも無理はないのだろう。

「早く解決すればいいが……」

 不気味な死に様の遺体を思い出した丞は、重いため息をついた。

 この奇怪な事件が長引くほど、玲熙を見る人々の眼がまた冷ややかになっていくかもしれない。

 彼の前で口に出して言うことはないだろうが、陰口は辛辣になって毒を含む。

 玲熙はきっと、その空気を敏感に感じるに違いない。

(せっかく明るく笑うようになったんだから……あいつの顔が曇るのは見たくはないな)

 雲が流れていく空を見上げて物思いにふけっていた丞は、ふと、風が白檀の香を運んできたことに気づいた。

 風上の方へ顔を向けると、神官が着る白い浄衣を纏った人物が、幻のように立っている事に気づいた。

 長い純白の髪が風と戯れ、あたかも蜘蛛の糸のように揺れる。

 白昼夢のような光景に声を失った丞は、榊志熙が静かに歩み寄ってくるのを待った。

「──先ほど、ホテルにいらっしゃいましたね?」

 丞が先に声をかけると、志熙はやや驚いたように黒瞳を瞠り、丞の顔を見上げた。

「どうして、私がいると判ったのかな?」

 問い返してくる志熙の端麗な顔を見下ろし、丞は人差し指を鼻に当てて薄く笑った。

「あそこに白檀の香りが残っていましたから。
 あなたの香と玲熙の香は別物でしょう?」

 丞が種明かしをすると、志熙は納得したようにうなずき、美しいが人形のように表情の乏しい美貌に淡い微笑を刻んだ。

「私があのホテルに出向いたのは、今朝方、この島の気が大きく震撼したからなんだよ。
 宮司という職業柄、私は気の動きには敏感でね。
 どうやら、とてつもなく禍々しい気の持ち主が、この島に入り込んでしまったようだ。
 今までは本当に微かにしか感じられなかったが、今朝の邪気は身震いするほど毒のあるものでね。
 そして……その邪気の中心は、あの竜泉閣ホテルだった」

 志熙は淡々とした口調で説明すると、白い指先ですいっとホテルを示した。

「……それに気づいたのは、何時頃だったんです?」

「かなり早朝だった──そう、午前5時よりも10分ぐらい前だ。
 その後だったよ、玲熙が、君の家に出かけていったのは」

 問いに答えた志熙は、冷たく硬質な輝きを帯びた瞳を丞に向けた。

「──もうご存知というわけですか」

 思わず丞が苦笑すると、志熙が微かに棘を含んだ視線を向けてきた。

「玲熙はまだ屋敷には戻っていないよ。
 どうやら、滝沢の家にいるようだがね。
 しかし私は立場上、玲熙の行動をずっと監視していなければならないのだ。
 今朝の出来事はとんだ不祥事だ──君は、あの男の外出に気づかなかったのか?」

「……全く気づかなかったですね、残念ながら。
 それより、問題なのは、警察の眼が玲熙に向けられることではないんですか?」

 志熙の皮肉を受け流すように微笑んだ丞は、頭の中で組み立てた推論を説明した。

「今、警察がアルラウドに事情聴取をしているところです。
 どうやら、死んだ女子大生が、あいつに声をかけていたという目撃証言があったらしいので。
 当然、あいつはアリバイを訊かれるでしょう。
 その時間帯、アルラウドは海で泳いでいたわけだし、そう答えざるを得ない。
 だが、それが事実だと証言できるのは、玲熙とリーファンだけです。
 リーファンはほとんど身内だから、証明にはならないでしょうけれどね。
 となれば、嫌でも玲熙は警察から事情を訊かれる──もしかすると、例の事件のせいで疑いをかけられるかもしれない」

 黙って丞の言葉を聞いていた志熙は、ふっと淡く微笑んだ。

「玲熙に疑いがかかることはない──それは、私が保証しよう。
 ただ、君の友人に関しては別だ。
 私が注意を払っていたのは、玲熙だけなのだから」

「俺の気がかりは玲熙だけですから、そう言っていただけると安心できます。
 アルラウドに関して言えば、たとえあいつが限りなく黒に近くても、警察は逮捕することはできませんよ。
 あいつの背後には、ローウェル財閥がいますから」

「──なるほど、ローウェルの権力をもってすれば可能だろうな」

 皮肉げな微笑を刻みながらも、志熙は納得したようにうなずいた。

「その通りです。
 それに、どんなに騒がれても、あいつは歯牙にもかけませんよ。
 本国でも散々騒がれていましたからね。
 アルラウドが事件に関わっていようとなかろうと、結局はあまり関係ない」

「君個人の意見としては、どう思うのだ?
 今回の事件に、君はアルラウドが関係していると思っているのかね?」

 志熙の質問に、丞は軽く肩をすくめて見せた。

「あいつの周囲に死者が多いのは事実だし、その真相はどれも謎に包まれている。
 だが、今回に限っては、あいつの仕業というには奇怪すぎる事件だし、あいつらしくもない。
 俺は友人として、アルラウドが関わっていないことを祈るだけです」

 そう言って、丞は空を仰いだ。

 いつの間にか、西の方に黒い雲が沸き起こり、強く生暖かい風が吹き付けてきていた。

 その風と戯れるように、志熙の長い髪がふわり、ふわりと宙に舞う。

 色素の無い純白の髪、白絹の狩衣、そして優麗な白い美貌──その非現実的な美しさに魅了されていた丞は、額にかかった金褐色の前髪をかきあげた。

 しばらくしてから、志熙がぽつりと呟いた。

「<死>を呼ぶ者か……」

 抑揚の無い冷淡な声で、志熙はゆっくりとした口調で言った。

「陰は陰を呼び寄せるのだ。
 知らぬうちに、あの美しい青年は闇に取り込まれていったのかもしれない。
 太陽のように輝いて見えるが、その実は暗い闇を抱え込んでいる。
 もっとも、本人はそれに気づきもしないだろうがな」

 謎めいた志熙の言葉が、丞には何となく理解できるような気がした。

 アルラウドの鮮烈な二面性──明朗で快活でありながら、時には残酷で頽廃的な表情を見せる。

 太陽神アポロンと呼ばれながら、同時に魔物と呼ばれていたように、アルラウドに対する批評は常に両極端だった。