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舞の贄



<31>



 丞が過去を思い起こしていると、風に運ばれてきたほのかな白檀の薫香が届いた。

 ふと顔を上げれば、志熙はゆったりとした優雅な足取りで歩いてゆく。

「そろそろ雨が降ってくる。今のうちに家へ戻りなさい」

 丞から見れば時代錯誤な衣裳が、不思議なほど志熙には似合っており、彼が洋服を着た姿など返って想像できなかった。

「──玲熙の血族か……まったくだな」

 能を舞う玲熙の姿を始めて見た時、まるで時代が遡ったかのような錯覚に陥った。

 幽艶な舞姿はあたかも一時の夢。

 夜の闇に浮かび上がる幻想的な夢を玲熙が舞うなら、志熙の存在は、真昼の陽炎の中に見る朧気な蜃気楼のようだった。

 白昼夢に出会った気分で丞が家に戻ると、志熙の言葉通りに雨が降り始めた。

 開け放してあった家中の窓を閉め終わった頃には、バケツの水をひっくり返したかのような土砂降りになっている。

「──……ナナシ、おまえ、泥だらけになってるじゃないか」

 庭に出来上がった水溜まりで散々転げ回ったのか、ナナシの白い毛皮が真っ黒になっている。

 ナナシは嬉しそうに尻尾を振りながら、丞の顔をじっと見上げていた。

「おい、その足で畳の上を歩くなよ。今、風呂場に連れて行ってやるから」

 尻尾を振りながらワンと吠えたナナシは、そのまま畳の上をぐるぐると走り回った。

 その途端、畳に点々と足跡がついていく。

「ナナシ! そこに座れ!」

 丞が厳しい声で叱ると、はしゃぎ回っていたナナシもうなだれて座った。

 その時、玄関でチャイムが鳴り出し、丞はしょげ返っているナナシを見下ろすと、厳しい口調のまま命令した。

「ナナシ、動くなよ。ここで待ってろ」

 きゅう〜んと鼻を鳴らしたナナシをその場に待たせたまま、丞は玄関に出る。

 扉を開けると、そこに傘をさした融と玲熙が立っていた。

「お〜っす。いきなり雨に降られちゃったよ」

 明るく笑いながら融が片手を上げ、そしてうつむいている玲熙の背中を押し、そのまま前に押し出した。

「──ほら、玲熙」

 促されても顔を上げない玲熙を見つめ、丞は軽く息を吐いて言った。

「今、ナナシのお仕置き中だったんだが、二人とも上がってくれ。
 融、悪いんだが畳の上、拭いておいてくれないか。
 俺はナナシを洗ってくる。
 ──玲熙、おまえも洗うのを手伝ってくれ」

「……ナナシが、何かしたの?」

 少し驚いたように顔を上げた玲熙に、丞は肩をすくめて見せた。

「泥らだけの足で、畳の上を転げ回ったんだ」

「え〜っ、その後始末、俺がやんのぉ?」

 融が不満そうに唇を尖らせると、丞はにやっと唇をつり上げた。

「終わったら、特別に昼飯を食わせてやろう。
 冴夜子が松阪牛を送ってきたんだ──タタキになってるやつ。どうする?」

 その瞬間、融の目が大きく見開かれ、きらきらと輝いた。

「やるっ! 喜んでやらせていただきます、丞様!!」

「そうか、じゃあ頼む」

 おかしげに笑った丞は、その後、二人を手招きして家に上がらせた。

「──よし、ナナシ。ちゃんと良い子で待ってたな」

 しょんぼりとした様子で丞を待っていたナナシは、玲熙と融の顔を見た途端、ヒュンヒュンと鼻声で鳴きながら勢いよく尻尾を振り始めた。

 泥まみれのナナシを抱き上げた丞は、そのまま風呂場へと連れて行った。

「玲熙は、こいつを乾かしてやってくれ」

 躊躇いながらも後についてきた玲熙に、丞はバスタオルを渡し、ナナシにシャワーを浴びせかけた。

 溺れたトラウマなのか、水を怖れてジタバタと暴れるナナシを抑え、丞はシャンプーで泥を全て洗い流した。

 ようやく元の白い毛皮が戻ってきた時には、丞もまた散々湯を被っていた。

 濡れそぼってブルブルと震えているナナシを玲熙に渡すと、ようやく子犬は安心したようにピスピスと鼻を鳴らす。

 玲熙がバスタオルでナナシを拭いている間、丞は濡れたTシャツを脱ぎ、洗濯機の中に放り込んだ。

 玲熙はずっと黙り込んだままナナシを拭いていたが、ふと丞の方に視線を移した。

 ずっとバスケットボールをやっていただけあって、上半身は引き締まった筋肉に覆われている。

 日に焼けて褐色になった体躯は、まるで野生の獣のように美しく見えた。

 ふと、アルラウドの上半身に走るケロイドを思い出した玲熙は、自分をじっと見上げているナナシの頭を撫でた。

 真っ黒な大きな目が、深い愛情と限りない信頼を込めて見つめている。

 何の打算もない無邪気な瞳は、強張っていた玲熙の心を励ましているようだった。

「丞……ごめんね、八つ当たりしちゃって……」

 ぽつんと玲熙が謝ると、洗濯機の蓋を閉めてスタートさせていた丞は、向き直って穏やかな微笑を浮かべた。

「気にするな──おまえに八つ当たりされたぐらいじゃ、痛くも痒くもないんだから。
 八つ当たりだったら、アルの方が相当年季入ってるぞ。
 玲熙、俺の方こそ悪かった。
 俺の言葉が、おまえを傷つけてしまったかもしれない」

 飽きてしまったのか、じたじたと暴れているナナシを放してやった玲熙は、傍にあった洗濯カゴにバスタオルを入れると、ふっと小さくため息をついた。

「……アルラウドと僕って、結構似てるのかもしれないね。
 もちろん、外見は全然違うんだけど……丞に甘えて、つい寄りかかっちゃうもの」

 丞の方を振り返った玲熙は、少し寂しげに微笑んだ。

「丞は、僕にいつも気を遣ってるでしょう?
 でも、もう大丈夫だからさ──そんなに気を遣わないでよ。
 丞がいつも優しくしてくれるから、僕も甘えたくなっちゃう。
 そんなに優しくされたら、丞はずっと僕のものだって誤解してしまいそうになる。
 僕は我が儘だから……丞のこと、独占したくなる。
 それじゃあ、困るでしょ?」

 最後は呟くように小さくなった玲熙の言葉を、丞は黙って聞いていた。

 まるで彫像のように身動きしない丞の様子を、玲熙は怖れるように見つめた。

 しばらく沈黙していた丞は、おもむろに玲熙を引き寄せると、胸の中に抱き締めた。

 驚愕のあまり動けないでいる玲熙の顔を仰向かせ、その唇を覆うようにゆっくりと塞いでゆく。

 がくがくと震え出した玲熙の背中をなだめるように撫で上げ、丞はその柔らかな唇に舌先を這わせ、甘く噛む。

 その途端、玲熙の身体がぶるっと震え、頽れそうな身体を支えようとして丞の肩をつかんだ。

「──あっ」

 優しく噛まれた唇から小さく悲鳴が上がった瞬間、丞は玲熙のうなじを捉えて、さらに深く唇を重ね合わせた。

 温かく濡れた舌が口の中に入り込み、玲熙の舌を絡め取る。

「……あっ…う…ふっ……」

 逃れようとする玲熙を抑え込んだまま、丞は柔らかな粘膜や敏感な上顎の奥を探るように舐め上げた。

 チュッ……と濡れた音を立てて唇が離れると、突然玲熙の膝がガクリと崩れた。

 腰を抱くようにして身体を支えてやると、玲熙が息切れをさせながら、何が起こったか判らないというように丞を見つめていた。

「玲熙──アルラウドのキスは忘れられそうか?」

「……えっ?」

 ふっと苦笑した丞の顔を、瞳を潤ませたまま玲熙は思わず瞬きをして見返していた。

「あいつがおまえにキスしたって聞いた時、本当はすぐにでも殴りたかったんだがな」

「た……丞──?」

「俺にキスされた事を、怒るなら好きなだけ怒っていい。
 だが、アルとの事は全部忘れろ。
 おまえにキスをしたのは俺だけだ──忘れられなければ、何度でもしてやる」

 丞の言葉を聞いた途端、玲熙の瞳から涙がこぼれ落ちた。