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舞の贄



<32>



「……丞のバカ……そんな事言われたら……僕は……」

 ぽとぽとと流れ落ちる涙を拭おうともせず、玲熙は丞に抱きついた。

 その細い身体をそっと抱いてやった丞は、玲熙の涙を指ですくった。

「顔を洗った方がいいぞ、玲熙──目も赤いし、唇も腫れてる。
 あんまり待たせると、融が騒ぎ出しそうだしな」

 恥ずかしそうにうつむいてしまった玲熙の耳元に、丞は唇を寄せ、誘うように低く囁いた。

「──この続きは、また今度な」

 玲熙を洗面所に残したまま丞が台所に戻ると、融がふくれっ面で椅子に座っていた。

「ったく、ナナシを洗うのに、どうしてこんなに時間がかかるんだ?
 だいたい、ナナシだけ先に戻ってくるっていうのは、どういうわけぇ?」

「ああ、悪かった」

「畳を拭き終わって、腹を空かせて待っていた俺に、言うことはそれだけ?
 ──それで、玲熙とは仲直りできたのかよ?」

 どっかりとテーブルに肘をついて融が訊ねると、丞はわずかの首を傾げた。

「……まあ、多分」

「すっげえビミョーな答え。多分って、どういう事なんだ?」

 冷蔵庫からいくつかの皿を取り出していた丞は、首だけで背後を見やった。

「うるさいぞ、おまえ。少しは黙ってろ」

「まあ、丞ちゃんってば、ひど〜い。
 せっかく心配してあげてるのにぃ〜」

「そいつはどうも」

 素っ気なく応じた丞は、テーブルセッティングを融に手伝わせ始め、昼食が整った頃に玲熙がようやく顔を出した。

「おい、玲熙、ここに座れよ」

 微かに瞼を腫らした玲熙は小さく微笑み、融が引いた椅子に腰を下ろした。

「そら、お望み通りに」

 丞が松阪牛のタタキを載せた大皿をテーブルの上に置くと、融が奇声を上げた。

「きゃあ〜あ! 昼間っから豪勢だわ! 冴夜子さんって、最高!!」

「食べ過ぎて腹壊すなよ、おまえ」

 サラダやご近所さんから貰った煮物と漬け物、味噌汁に白ご飯を用意してやると、融が至上の幸福といった顔をした。

「丞ってさ、絶対に良い主夫になれるって。この俺が保障してやるよ」

 うっとりとして言う融を見下ろし、丞はグラスに麦茶を注ぎながら苦笑した。

「おまえに保障されてもねえ──それに、貰い物も多いしな」

「……でも、一人でこれだけ準備できるのも、凄いと思うよ。
 僕は……何にもできないし──」

 感心したように目を瞠っていた玲熙が呟くと、丞は軽く片目を瞑って見せた。

「何事も練習だろ。独り暮らしでもすれば、嫌でも覚えるさ」

 その時、玄関のチャイムがうるさいほど鳴らされ、思わず三人が顔を見合わせると、不作法な大きな足音が聞こえてきた。

「なんだ、小猿、おまえもいたのか。
 誰も出てこないから、留守にしてるのかと思ったぞ」

 頭の先からびっしょりと濡れたアルラウドが少し驚いたように言い、玲熙に意味ありげなウィンクを送る。

「おい、水くれ」

 手近にあったグラスをアルラウドが差し出すと、丞は軽く肩をすくめてそれを受け取る。

「水でいいのか? 冷えてないぞ」

「──じゃあ、何でもいい」

 はいはいと呟きながら、丞はグラスに麦茶を注いでやり、その後一気飲みをしているアルラウドを呆れたように見つめた。

「おまえ、まさか走ってきたのか?」

 混じりけのない見事なプラチナブロンドが濡れて、常よりも強い巻き毛になっている。

 アルラウドはグラスからようやく口を離すと、ぽたぽたと水滴が落ちる前髪を掻き上げ、ほっとしたように椅子に座り込んだ。

「ああ、とてもじゃないが、騒々しくてあんなホテルにはいられん。
 車ではとても抜けられそうになかったから、ここまで走ってきたんだ」

 尊大な態度で椅子に寄りかかっているアルラウドを、丞は奇妙なモノでも見るようにマジマジと見つめた。

「……おまえが、この雨の中を?」

「そうだ。まあ、久しぶりに走ったから、ちょっと息切れしたがな」

 子供が自分の成功を自慢するように、アルラウドはふふんと鼻で笑い、胸を張る。

 にやりと笑ったアルラウドを見返し、丞は風呂場の方角を指差した。

「とにかく、シャワーを浴びて、着替えてこい。
 おまえも昼飯、食べるのか?」

 丞の言葉にアルラウドは片眉をつりあげ、テーブルにあるものを見てうなずいた。

「──もちろん。おい、小猿、全部喰うなよ」

 びしっと融に指を突きつけてそう言い残し、アルラウドはさっさと台所から出ていった。

 呆気にとられていた玲熙と融は思わず顔を見合わせる。

「何かあったの、丞?」

 玲熙がそう訊ねると、丞は少し躊躇った後でうなずいた。

「竜泉閣ホテルで人が死んだんだ──遊びに来ていた女子大生らしいんだが……。
 警察は、宿泊客に一通りの事情聴取をしているようだな」

 その言葉にはっと息を飲み、玲熙は唖然としている融と再び顔を見合わせてしまう。

 二人の様子を見ながら、丞は淡々とした口調で説明した。

「この事件を、警察は一応他殺と見て捜査するようだ。
 ただ、あまりに謎が多いんで、どう対処していいのか判らないって感じだったな」

「──謎って、どういうこと?」

 玲熙の問いに、丞は答える。

「被害者の死因は失血死らしいんだが、その血がどこにいったのか判らないらしい。
 外傷はほとんど無いにも関わらず、血液だけが消えている」

「げっ! それってさ、吸血鬼の仕業じゃねえの?」

 ようやく箸を置く余裕ができた融が、眉根を寄せて嫌そうな顔をした。

「そういう噂もこれから流れるだろうな、おそらく。
 あまりに不自然な死に方だから、自殺だとは考えにくい。
 ただ他殺にしても、誰が何のためにあんな殺し方をしたのか、それが謎だ」

「だから、吸血鬼ドラキュラが現れたんだって。
 美女の生き血を求めて、夜な夜な島の中を彷徨ってるんだよ。
 吸血鬼が嫌うもの──それは十字架とニンニクだ!」

 箸を持ったまま、融が拳を握って力説した。

 丞と玲熙は顔を見合わせ、どちらからともなく嘆息する。

「ねえ、融。どうしてドラキュラが沖月島みたいな小さな島に現れるんだよ。
 生き血を求めるんだったら、人の多い都会の方が良いに決まってるじゃないか」

「甘いね、玲熙。都会の空気は汚れてるから、血も汚れてるんだよ、きっと。
 だから、こんな田舎に現れたんだ」

 チッチと舌を鳴らしながら人差し指を振った融は、しかしふと真剣に考え込むような表情を浮かべた。

「──だけど、俺は吸血鬼の正体を知ってるぞ」

「誰なんだ、それは?」

 呆れ声で丞が問い返すと、融は低い声で笑い出した。

「ふっふっふ……それはだね、丞君。犯人は──あいつだ!」

 融が指を差した先には、シャワーを浴びて着替えてきたアルラウドが立っていた。

 アルラウドのこめかみがぴくっと引きつった事にも気づかず、融はにんまりと笑った。

「一番、あいつがドラキュラっぽいだろ?
 イギリスから来たっていうのも、いかにもそれっぽいし」

 融の言葉を聞いていたアルラウドのオーラが氷よりも冷ややかになり、その類い稀なる美貌から一切の表情が消えた。