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舞の贄



<34>



 五つ星のホテルのように洗練された広い部屋の中で、ただその一角だけが異様だった。

 まるで無菌室のようなビニールシートに囲まれたベッドの上に、全身を白い包帯で巻かれた人間が横たわっていた。

 人工呼吸器などの生命維持装置がつけられ、身体からは何本ものチューブが伸びている。

 ポトン…ポトン……と等間隔で点滴の雫が落ち、心電計には規則正しい波形が描き出されていた。

 機械の作動音以外に静寂を見出す音は無く、静まり返った病室内には、生命の明るく美しい輝きは全く無い。

 彼は目覚めない──ただ機械的に身体機能を長らえさせられているだけだった。

 それは真実、生きているとは言えない状態だった。

 這い上がる事のできない深い闇に落ちた意識の中で、ある時、彼はただ一つの微かな希望を持った。

(──……もう一度、会いたい)

 その希望は、彼にとっては唯一の光だった。

 しかし一方で、闇の中で光を見いだした彼に魅了された、さらなる暗黒をも呼び寄せてしまった。

 ──そして、禍々しい闇は、彼の意識をそっと揺り動かし、一時的な覚醒を促した。

 目覚めた彼は、身体を動かそうとしたが、叫び出しそうなほどの激痛に襲われた。

 何故かミイラ男のように全身に包帯が巻き付けられ、身体の自由を奪われている。

 そして、身体のあちこちから出ている透明なチューブ。

 規則正しかった心電図の波形が、身動きした拍子に大きく乱れ始めた。

(──何だ、これは?)

 訝しく思いながらチューブを引き抜こうとすると、頭の中で厳かで静かな声が響いた。

(それを抜くのはまだ早すぎる。おまえの身体はボロボロなのだから……)

(どうしてこんな事になった?)

(おまえを愛し、そして恨む者の仕業だ。
 ──見せてあげようか、今のおまえの姿を……)

 頭の中の声がそう言うと、身体中を覆っていた包帯がするするとと解け出す。

 そして頭から首までが露わになった時、目の前に巨大な鏡が現れた。

(──見るがいい……これが、おまえ自身の姿だ)

 鏡に映っているのは、ふためと見られぬ醜く、おぞましい怪物だった。

 赤黒く焼け爛れた顔、髪の毛は一本も残っておらず、皮膚は溶けて垂れ下がったまま固まっている。

 悲鳴を上げたが、喉からは空気が漏れる音しか出なかった。

(……そんな姿で、人前に立てるのか?)

 頭の中に響く不気味な声が、嘲弄するように笑った。

 汚らわしい怪物に成り果てた彼は、くすんだガラス玉のような瞳から涙を流した。

 自分自身の涙が、顔の皮膚を痛めつけるように焼いた。

(──……おまえは何者だ? 何故、俺に話しかける)

(おまえの声に呼ばれて来たのだ。
 望むのなら、元の姿に戻してやろうか?
 かつて、おまえが持っていたもの全てを、おまえの手に返してやろう。
 私ならば、それができる)

 すがりつきたくなるほど魅惑的な言葉に、彼は、本能的に警戒心を抱いた。

 そんな都合の良い話があるわけが無い──あるとするなら、それは、悪魔の囁きに違いなかった。

 だが、ふと思う。

 たとえこれが悪魔の誘惑でも、このような姿で生き長らえるのならば、魂や良心を引き渡した方がマシだと。

(──その代償は?)

 神の愛は試練を与え、悪魔の愛は代償を求めると、誰かが言っていたような気がする。

 案の定、その声はおかしげに笑った。

(──そう、その代償は……)

 くすくすと笑いながら、その悪魔は耳元に囁きかけてきた。

 彼は大きく双眸を瞠ると、不意にその醜い顔に不気味な薄笑いを浮かべた。

(いいだろう、契約は成立した──おまえが欲しがるものをくれてやる)

 そう宣言した瞬間、彼の意識は再び闇の奥へと吸い込まれた。

 泥沼のようにねっとりとした闇が絡みつき、深い暗黒の淵へと引きずり込んでいく。

 その中で、彼は勝ち誇ったように高らかに笑う声を聞いていた。




 ──誰かの生暖かい舌が唇に触れ、そしてペロペロと顔中を舐め回している。

 心地よく深い眠りに落ちていた丞は、突然襲ったその感触に気づき、目を覚ました。

 ふっと眼を見開くと、暗闇の中に子犬の白い顔が見えた。

「……最悪。おい、ナナシ──どうして起こすんだ?」

 あからさまに不機嫌な声を上げた丞は、体勢を変えて目覚まし時計を見た。

 時計の針は午前2時を指し示している──つまり、眠ってからまだ二時間弱しか経っていないのだ。

 思わず低く呻き、丞は片手で顔を覆った。

 そして、何気なくアルラウドの方に顔を向けた時、その寝床がもぬけの殻になっている事に気がついた。

 驚愕して上半身を起こした丞は、探るように周囲の気配をうかがった。

 時に家の中には物音など聞こえず、外からは微かに波が打ち寄せる音が響いてくるだけであった。

「アルラウド……どこに言ったんだ?」

 低く独白した丞は、ナナシが尻尾を激しく振っていることに気づいた。

「まさか、おまえ……アルの居場所を知ってるのか?」

 丞が問うと、ナナシはくるりと頭を巡らせ、まるで「ついて来い」とでも言いたげな様子でトコトコと歩き出す。

 疑惑を覚えつつ、仕方なく子犬の後について行った丞は、玄関を出ると、そのまま海岸の方へと連れて行かれた。

 昼間でさえ人通りの少ない沖月島であったから、真夜中になると、車など一台も通らないような状態になる。

 所々に設置された街灯も、物寂しげな淡い光を放っているだけだった。

 ナナシに導かれるまま砂浜に降り立った丞は、街灯の光が届かない闇の中に、何者かの気配を感じた。

 獣が低く呻いているような声が、微かに夜気を震わせる。

 暗闇の中で琥珀の双眸を凝らした丞は、砂浜の上で、二人の人間が重なり合っているのを辛うじて認識した。

 何者かの上にのし掛かっている方が動いた拍子に、その髪が淡くきらめいた。

 はっと息を詰めた丞は、確認するように眼を眇めた。

 白っぽく光っている髪はプラチナブロンドで、そんな髪を持つ人間の心当たりは、この辺りでは一人しか思い当たらない。

 その時、丞の足下にいたナナシが、威嚇するように低い唸り声を上げた。

 その声に反応したように、餌を貪っている獣のような存在がぴたりと動きを止め、そして不気味なほどゆっくりとした動作で振り向く。

 ゆらりと立ち上がったその時、海岸線を走る車のライトが一瞬、辺りを明るく輝かせた。

 光を弾く曇りの無いプラチナブロンド、そして誰もが賛美する白皙の美貌──。

 地上に舞い降りた大天使のようにその姿は気高く見えたが、アルラウドから放たれる禍々しい雰囲気は、神の領域に住む者のモノでは無かった。

『タスク……』

 吐息を漏らし、そして歌うように名を呼んだ唇は、まるで血を塗ったように紅い。

 異様な雰囲気に驚愕していると、アルラウドの双眸が、闇の中で深紅に輝いた。

『……ずっと、会いたかった──タスク……また、前みたいに抱いてくれよ……』

 誘惑するように艶やかに微笑み、アルラウドがしなやかな腕で丞を抱き締め、キスをせがむように秀麗な顔を近づけてくる。

『裏切らなかったのは、おまえだけだ……だから、傍にいてくれ──』

 赤光を放つ双眸、そして異常なほど紅い唇、そして……唇からわずかにのぞく白い牙。

 その全てを視界に捉え、アルラウドの変貌に愕然としていた丞は、吹きかけられた吐息が血生臭いことに気づき眉根を寄せた。

「アル……おまえ──」

 にたりと妖艶な微笑を浮かべたアルラウドは、不意に丞のうなじを強く引き寄せ、唇を重ね合わせてきた。