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舞の贄



<35>



 ぬるりと口の中に入り込んできた舌は、ひどく苦い鉄錆のような味がした。

 それを認識した途端、ふっと目眩を起こし、意識が霞がかっていくような感覚を味わう。

 唐突に沸き上がり、感情を支配したのは──アルラウドへの愛おしさだった。

 まるで引き離されていた恋人に巡り会ったような恋慕の情に、丞はアルラウドを強く抱き締め、血に濡れた唇を貪ろうと舌を絡める。

(──丞ッ! そやつから離れよ!!)

 混ざり合った唾液を飲み下そうとした瞬間、頭の芯を打つような厳しい声が響き、丞は強引に引き戻されるように我に返った。

 ほとんど同時に、幼いながらも獰猛な唸り声を上げ、ナナシがアルラウドの足首に噛みついた。

 その痛みに驚いたアルラウドは、鋭く舌打ちをして、足下の子犬を蹴り上げようとする。

 ギラギラと輝く赤紅の双眸は、無慈悲で残忍な色に染まっていた。

 血の混ざった唾液を砂浜に吐き捨てた丞は、邪悪な鬼気を放つアルラウドの肩を掴んで振り向かせると、そのまま右の拳を鳩尾に打ち込んだ。

「……ぐう──ッ!」

 不意を突かれたアルラウドは、容赦無いパンチに呻き、そのまま地面に昏倒する。

 大きく息を吐き出した丞は、苦々しい表情で手の甲で唇を拭い、地面に座っているナナシを見下ろした。

「──ナナシ、大丈夫か?」

(あのまま、口づけを受けていたら、そなたまで取り込まれてしまっていたのだぞ)

 ピンク色の舌を出し、笑っているような表情のナナシから、まるでそぐわない重々しい厳格な声が聞こえた。

 思わず呆気に取られ、丞は琥珀の双眸を眇めた。

「──おまえ、まさか……楚良か?」

(然り……獣は我と近いゆえ、取り憑きやすい。
 そなたの内で力を振るうと、敵に感づかれ易いゆえな)

 どうやらナナシに憑依しているらしい式神は、後肢で耳を掻いた。

 本来の形に近い四足獣の体型はやはり落ち着くのか、響いてくる声なき声は非常に満足そうだった。

 苦笑をした丞は、風に運ばれてきた血臭に気づき、思わず鼻に皺を寄せた。

 視線を巡らせると、アルラウドに襲われていた人物が、少し離れた場所に倒れている。

 砂の上に仰向けに倒れていたのは、アルラウドに仕えている美少年リーファンだった。

 黒く長い髪が扇のように散らばり、白磁のような首からは、二本の鮮やかな血筋が流れ出していた。

 薄い胸がゆっくりと上下しており、まだ息があることに丞は安堵する。

 片膝をついてその身体を抱き起こしたが、どうやら深い昏睡に陥っているようで、青ざめた顔を軽く叩いても眼を覚まさない。

「おい、リーファン──しっかりしろ」

 胸に耳を当て、心臓が確実に拍動していることを確かめた丞は、リーファンが着ている長袖のワンピースの袖を引きちぎり、出血している首筋に押し当てた。

 もう一度顔を叩くと、リーファンがうっすらと瞼を上げた。

「……誰? アルラウド様?」

 リーファンの肩を抱き上げていた丞は、少年の意識が戻ったことに安心し、小さくため息をついた。

「いったい何があったんだ? どうしてアルラウドはおまえを襲った?」

 丞の言葉を聞いたリーファンははっと大きく目を瞠り、丞の腕の中で身を捩った。

 そして、砂浜に倒れているアルラウドの傍へ、這うようにして近づいていった。

『──アルラウド様……どうか…どうか、眼を覚まして……」

 主の顔を両手で包み込み、嘆くようにはらはらと涙を流す少年を見て、丞は困惑した。

「心配するな、アルラウドは生きてる。
 心配なのは、おまえの方だぞ、リーファン」

 リーファンはアルラウドの胸にすがりつき、嗚咽を殺すようにすすり泣いていたが、やがてきっと顔を上げた。

 まるで睨むような強い眼差しを丞に向け、彼は奇妙なほど平淡な声で告げた。

「──丞様、お願いでございます。どうぞ、この事はご内密に。
 そうでなければ、私は、あなた様を殺さねばならなくなります」

「内密にだと? こんな事を黙っていられると思うのか?
 何か知っているなら、これがどういう事なのか、説明ぐらいしたらどうだ」

 思いも寄らないリーファンの言葉に、丞は双眸を厳しく眇め、低い声音で言った。

 するとリーファンは何か逡巡するような素振りを見せたが、すぐに小さく首を振った。

「申し訳ありません──いずれ、詳しくご説明いたします。
 ですが、どうか今日のところはご容赦くださいませ」

 そう言って立ち上がろうとしたリーファンの身体が、風に吹かれたように、微かに揺らめいた。

 思わず丞が腕を伸ばしかけると、美しい少年はよろめきながらも体勢を立て直し、悲しげな微笑を浮かべた。

「丞様……アルラウド様は、あなた様の事を誰よりも信頼しておられます。
 私では、力になって差し上げられない。
 ──どうか、アルラウド様をよろしくお願いいたします」

 漆黒の涙を湛えたリーファンは礼儀正しくお辞儀をすると、そのまま踵を返し、逃げるように走り去っていった。

 リーファンの行動を怪訝に思った丞は、その理由を考え込みながら、打ち寄せる海波を見つめていた。

(……楚良、これはどういう事だ?)

 丞が無言で問いかけると、式神に憑依されたナナシが大きく欠伸をした。

(言ったであろう、アルラウドは闇に冒されたモノだと。
 禍つ魔物は血を求める……その呪われた宿業ゆえにな)

 楚良の言葉は、丞の気分をさらに憂鬱にさせただけだった。

 嘆息をもらした丞は、倒れ伏しているアルラウドの横に跪いた。

 ここで意識を取り戻し、もう一度襲われるような事になれば厄介な事になるが、かと言ってこのまま放置しておくわけにもいかない。

(心配ない──朝になれば、闇の血は再び抑えられる。それまでは眠らせておこう)

 臭いを嗅ぐように近づいてきたナナシが、ぺろりとアルラウドの鼻先を舐めた。

「眠ったままと言うことは……俺が担いで行くしかないってことか?」

(我はこんなに小さいのだぞ。このようなモノを背負ったら、潰れてしまう)

 当然だと言うように見上げてくるナナシを、丞は呆れたように見下ろした。

 丞はアルラウドより長身で体格も良かったが、それでも玲熙や融に比べれば、圧倒的にアルラウドは重い。

 やっとの思いでアルラウドの身体を布団の上に横たえた時、丞の全身からは汗が噴き出し、額からはひっきりなしに汗の滴が落ちてきた。

 そのまま眠るわけにもいかず、丞は台所で盛大なため息をついた。

「それにしても、何故──」

 丞が見た異常な光景──リーファンにのしかかり、彼の細い首からアルラウドは血を吸っていた。

 闇の中で眼が光り、人間の血肉を貪る異形の者を見たのは、これが初めてではない。

 玲熙の実兄である晴熙は、弟に執着するあまり鬼と化した。

 隠岐宮一族は鬼の末裔であり、ときおり一族の中から鬼形に変じる者が現れるのだと言う。

 だからこそ直系の名前には「熙」という文字が当てられ、その事を忘れないよう名を縛めにするらしいのだ。

 玲熙、晴熙、そして──志熙。

 思考を巡らせていた時、丞の脳裡にふっと志熙の白い姿が過ぎった。

 その姿だけでも鬼と間違えられそうな志熙──直系でない彼もまた、その名が示す通り鬼と化す者なのだろうか。

「……そう言えば、思わせぶりな事を言っていたな」

 丞が気づきもしない時から、志熙はアルラウドに疑惑を抱いていた。

 アルラウドの華やかな外見に惑わされず、その正体を見破ったのなら、やはり志熙は何らかの力を持っているのかもしれない。

「おまえはどう思う、楚良?」

 足下に寄ってきたナナシを抱き上げ、丞が訊ねると、子犬はきょとんと首を傾げた。

 無邪気に尻尾を振り、ジタバタと暴れるその姿には、先ほどまでのような尊大な態度は見られない。

「出ていったのか……仕方ないな」

 諦めたように呟いた丞は、ふっと吐息をもらした。

「要さんは出張でいないし──志熙さんに相談してみる価値はあるか。
 鬼だろうが何だろうが、一応彼は宮司なわけだしな」

 リーファンに他言無用と言われていたが、それを正直に守るほど、丞は素直な性格ではなかった。

「──アルラウド……おまえに何が起こった?」

 低く独白した丞は、今は静かに眠っているアルラウドを思い、深く嘆息した。