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舞の贄



<36>



 日曜日の朝、玲熙がいつもより遅く起き出していくと、朝食の席で志熙が待っていた。

 すでに身支度を整えている志熙は、朝日の射し込む部屋の中でさらに清浄な存在に見え、淡く輝く純白の髪に、玲熙はしばし見惚れた。

 玲熙の気配に気づいたのか、志熙がふっと視線を上げる。

「あ……おはようございます、志熙さん」

 何故か後ろめたい気分になり、玲熙が躊躇いがちに挨拶をすると、志熙は静かな微笑みを浮かべた。

「おはようございます、玲熙さん。今日はお顔色がよろしいようですね」

 頬に赤みが差し、憂いが晴れたように明るい玲熙の顔を見つめ、志熙が言う。

「そうでしょうか? 確かに、昨日の夜はよく眠れましたが……」

 テーブルについた玲熙の前に朝食が運ばれて来ると、志熙は彼女が立ち去るのを待ってから、淡々と告げた。

「実は、玲熙さんにお願いがあるのです。
 朝食が終わったら、神社の能楽堂で舞を舞っていただきたいのですが──高砂を」

 卵焼きに箸をつけようとしていた玲熙は、志熙の申し出に驚いたように顔を上げ、漆黒の瞳を大きく瞠った。

「……高砂、ですか?」

「はい、もちろん直面(ひためん)で結構ですから」

 あっさりとした調子で志熙は言ったが、玲熙は訝しむように微かに眉根を寄せた。

 直面というのは、能面をつけず素顔で役柄を演じることだが、だからこそ難しいのだ。

 面で隠せない表情をつくろおうとしてしまい、肝心の舞の方に意識が向かなくなる。

 己の表情を気に掛けるより、役柄に応じた自然な立ち振る舞いを心がけなければならなかったが、「高砂」で演じるのは老いた松の精霊と若い男神。

 力の無い者が素顔で舞うと技量の未熟さがはっきりと出てしまうが、志熙は、素顔のままで「精霊」と「神」を演じろと言っているのだ。

 もちろん稽古時に面をつける事は無いが、志熙の口振りからすれば、ただ玲熙の舞が見たいという訳ではなさそうである。

 志熙の前で初めて舞う舞──それが何故、高砂で直面なのか。

 玲熙は、志熙の真意を探るように見つめていたが、ややあってからうなずいた。

「──判りました。でも、どうして高砂なのかお聞きしてもよろしいですか?」

 もともと「高砂」は祝福の舞であり、結婚式の時に謡われるほど有名であった。

 前シテは老松の精霊であり、後シテは住吉明神という神である。

 玲熙の疑問を聞き、志熙は穏やかにうなずいた。

「今朝は、沖月島の気が乱れてしまっています。
 今一度、結界を張り直す必要があるのですよ。
 高砂は神の祝福が体現された舞ですから、邪気を遠ざけることができるでしょう」

「気が乱れている? 私は何も感じないのですが……」

 不思議そうに首をひねった玲熙を見返し、志熙はふっと微笑を浮かべた。

「あなたは強い気で守護されていますからね、玲熙さん。
 温室に咲いた花が、風を感じないのと同じです」

「……強い気、ですか?」

「はい、この竜海山は沖月島の中で最も力に満ちた場であり、鬼塚森神社はその中でも聖域なのです。
 代々の宮司──つまり隠岐宮家の当主が、この神社に結界を張り、穢れを祓ってまいりましたので、そう易々とは邪気の侵入を許しません。
 しかし、この聖域で人の血が流された時から、結界に大きな歪みが生じました。
 それゆえに、時々修繕が必要になるのです」

 心地よい音程の声で志熙は説明すると、音もなく椅子から立ち上がった。

 テーブルを回って玲熙の隣に立った志熙は、驚いたように見上げてくる端麗な顔を見下ろし、物憂げにため息をついた。

「それに、あなた自身も穢れを祓わねばならないのですよ、玲熙さん。
 昨日、誰かに口づけを許しましたね──それも、汚れた者に」

 志熙の言葉を聞いた途端、玲熙は愕然としたように瞳を瞠り、そして顔に朱を走らせた。

 否定しようと首を振りかけると、志熙の人差し指が、つっと唇を封じるように触れた。

「否定なさっても、見える者には判ってしまいますよ。
 あなたの吐息の中に、微かに邪な影が漂っていますから。
 要が見たら何というか──彼に知られて、叱られたいですか?」

 羞恥のあまりうつむいてしまった玲熙は、その名前を聞いた途端弾かれたように顔を上げ、必死で首を横に振った。

「言わないで……要には言わないでください、志熙さん」

「どうして? 要はあなたの守護者でしょう──彼が不在の今、私は、あなたの事を報告する義務があるのですよ」

 純白の睫毛に縁取られた双眸を細め、志熙が残酷に問う。

 瞳に涙を湛え、玲熙はすがりつくように志熙を見つめ返すと、もう一度首を振った。

「そうだけど──要にばれたら……学校にも行くなって言われてしまいます。
 僕は一族の巫子だから、そういう風に振る舞わなきゃけいないのは判ってるけど──でも、やっと……友達になれたんです。
 もう、絶対に何もしません……傍にいるだけでいい──だから、僕から全てを奪わないでください」

 痛切な響きのある訴えを聞いていた志熙は、小さくため息をつき、玲熙の眦から流れ落ちた涙をそっと指先ですくった。

「言いませんよ、要には──ですが、これが最初で最後ですよ、玲熙さん。
 あなたは巫子です、他の若者のように気軽な恋愛はできないのだと自戒してください。
 学校に通うことで、それが疎かになるようなら、要に言うまでもなく、私の権限で退学させます。
 屋敷の中にずっと閉じこめられたいのですか?」

 胸を締めつける悲嘆を怺えるように唇を噛んだ玲熙は、涙を流しながら、何度も繰りかえしかぶりを振った。

 嗚咽を封じるように片手で口を塞いだ玲熙に憐憫を感じながら、それでも志熙は冷厳な口調を崩さなかった。

「──では、私は衣裳を用意してきます。
 能楽殿でお待ちしておりますので、気持ちが落ち着いたらいらっしゃってください」

 玲熙に一礼した志熙は、典雅な白檀の薫りをふわりと残して出ていった。

 その場に残された玲熙は、瞬きすることも忘れたように、闇色の瞳を見開いていた。

(……僕は……誰とも触れ合ってはいけないんだ──)

 透明な雫が生まれてこぼれ落ち、すべらかな頬を伝い落ちてゆく。

 一族にとって「生まれながら巫子」は特別な存在であったから、当主以上に尊ばれ、敬われてきた。

 自分が、本当に大切に育てられてきたのだという自覚は、玲熙にもある。

 けれどその一方でいつも厳格な掟に縛られ、普通の子供が経験するような事ができなかった。

 恋をしたり、大学に進学したり、就職をして働いたり、そしていつか結婚して、新しい家族を作る──隠岐宮家に半陰陽として生まれた落ちた瞬間から、そんな当たり前のような事が禁じられ、自分自身で未来を選ぶことは許されない。

 一族に守られていなければ、生きてこられなかったのかもしれない。

 だが、一族の存在そのものが、玲熙を縛り付ける鎖であり、足枷だった。

(丞……僕は、君の事が好き──だけど、好きになってもらう資格なんてないんだ……。
 君はまだ、僕の事を知らないものね。
 僕の身体の事を知ったら、きっとびっくりして、気持ち悪いって思うだろう。
 でも、僕は……丞の傍にいたい──もう何も望まないから、せめて、傍にいさせて……)

 己の恋心を自覚した瞬間、玲熙の双眸から大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。

「……ふっ…ううっ……ふっく…っ──」

 声を押し殺そうとしても、小さな嗚咽が喉をつく。

 気持ちを落ち着けろと志熙は言ったが、こんな荒波立った精神状態では、とても「高砂」など舞えはしない。

 だが、沖月島を守るために舞うことが巫子の使命であるなら、どうあっても逃げるわけにはいかなかった。

 玲熙は瞼を腫らしたまま、身を清めるために禊部屋へと向かった。

 総檜造りの禊場は常に清浄が保たれており、その場に足を踏み入れた途端、わずかに胸が軽くなったような気がした。

 御影石の泉盤からは竜海山から引いた湧き水が溢れ出し、水路を通って庭へと流れ出していく。

 夏の盛りでさえ氷のように冷たい清水をその身に浴び、心の中から全ての雑念や邪念を祓うように、玲熙は静かに瞑想した。

 ゆっくりと呼吸を繰りかえしていくと、禊場を流れる風の動きが感じられるようになる。

 遠くから響いてく小鳥の囀り、木々のざわめき、大地を潤す水流の囁き──。

 精神に静謐を取り戻した玲熙は、用意されていた白衣白袴という姿で、鬼塚森神社の能楽殿へと向かった。

 そこにはすでに、烏帽子をつけ、純白の浄衣をまとった志熙が鎮座していた。

 能面のように平静な表情になっている玲熙に、志熙は迷うことなく高砂の装束を着付けさせる。

 面はつけず、長い黒髪は唐絹の帯で押さえられた。

 やがて、志熙が静かに後ろに下がると、玲熙はすらりと立ち上がった。