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舞の贄



<38>



 鬼塚森神社の境内へと続く長い石の階段を上っていた丞は、透き通った笛の音を聞きつけ、足を止めて耳を澄ませた。

 喨々(りょうりょう)と流れる澄んだ音が、風と戯れるように木々の間を抜けていく。

 その美しい音色は波紋のように広がり、意識が吸い込まれていきそうな錯覚を覚えた。

「何の音だ?」

 アルラウドが怪訝そうに訊ねてくる。

「誰かが能の練習でもしてるんじゃないか?
 この島では神事能が盛んだそうだからな」

 丞が適当に答えると、アルラウドは「ふーん」と上の空で呟き、音源を突き止めようとするかのように周辺を見回した。

 ところが鬼塚森神社の鳥居をくぐり、境内に足を踏み入れた途端、後ろからついてきていたアルラウドが突然低くうめいた。

「──おい、タスク」

 名前を呼ばれ、丞が背後を振り向くと、苦しげに顔をしかめたアルラウドが額にびっしりと冷や汗を浮かべ、近くの松の木に寄りかかっていた。

「アル、どうした?」

「……眩暈がする。世界がモノクロに見えてきた」

 不明瞭な掠れ声でそう呟いたアルラウドは、力尽きてしまったのか、ずるずると松の根元に座り込んでしまった。

「日射病か? そこで休んでろ。今、水を持ってきてやるから」

 慌てて辺りを見回した丞は、鳥居の傍に建っている手水舎を見つけると、アルラウドにそう言い残して、足早に向かった。

 その時、再び甲高い笛の音が聞こえ、丞ははっと首を巡らせた。

 見れば、白い浄衣を着た志熙が、能楽殿に座って横笛を吹いている。

 そして彼の前には、白い着物と袴を身につけた玲熙が、まるで瞑想をしているかのように目を閉じたまま端然と正座していた。

 丞の姿を認めた志熙は、横笛を下ろしてすらりと立ち上がると、能楽殿から滑るような足取りで近づいてきた。

「そろそろ君が来る頃だと思っていたよ」

 最初から自分の行動を見通していたかのような志熙の口ぶりに、丞は思わず片眉をつり上げたが、アルラウドの様子が気になってすぐに視線を逸らした。

 すると、志熙もまた木の根元に座り込んでいるアルラウドに視線を向け、淡く微笑んだ。

「ああ……彼には少し辛い思いをさせてしまったようだ」

「日射病にかかったみたいです」

 丞がそう告げると、志熙は軽く首を横に振って、ひたりと漆黒の瞳を向けてきた。

「そうではない。彼の中の邪気が、この神域の霊力に耐えかねているのだ」

「……アルラウドの中の邪気?」

 眉根を寄せ、訝しげに問い返した丞を見つめ、志熙は涼しげな切れ長の双眸を細めた。

「君も気づいているのだろう? それゆえ、私に会いに来た。違うかな?」

「邪気と言われても、俺にはよく判らない。
 ただ、アルラウドの事であなたに相談しようと思ったのは事実です」

 丞が正直に答えると、志熙はくすりと微笑み、ゆったりとした足取りでアルラウドの方へと歩き出した。

 だが、志熙が近づくにつれて、アルラウドの苦悶はさらに深まるようだった。

 白い額からは汗が流れ落ち、きつく瞼を閉ざしたまま、苦しげに歯を食いしばっている。

 その様子を見下ろした志熙はぴたりと足を止め、己の長い髪を1本抜き取った。

「──我が髪は神の鎖……錆びることなく、離することなし。
 我が息は意気なれば、意に従い、命持つ鎖となれ」

 そう呟いた志熙は、ふっと純白の髪に息を吹きかけた。

 すると、志熙の手を離れた髪の毛は、風に乗りながらうねうねと長くなり、アルラウドを絡め取るように幾重にも巻き付いた。

 その瞬間、アルラウドが獣のような咆吼を上げ、苦しみ始める。

「……お、おい。こいつに何をした!?」

 驚愕した丞は、慌ててアルラウドの傍に駆け寄った。

 見れば、蜘蛛の糸のように細く白い髪が、アルラウドの身体を縛っている。

 丞が思わず志熙を睨み付けると、白い影のような宮司は冷淡な面持ちで傍に立った。

「これで逃げられる心配はない。
 この者を助けたいのであれば、黙って私についてきなさい」

 意味不明なその言葉を聞き、丞の眉間の皺が深くなった。

「──俺に、どうしろと?」

「とりあえず、彼をつれて能楽殿の方へ。玲熙を待たせてあるゆえな」

 理由も教えずにそう告げ、志熙は踵を返すと、さっさと歩いて行ってしまう。

 綺麗に背筋が伸びたその白い背中に、丞は聞こえないように低く悪態をつくと、地面の上でもがいているアルラウドを担ぎ上げた。

 気力を振り絞って何とかアルラウドを運び、能楽殿の床に横たえた丞は、友人の顔を見下ろした途端驚愕した。

 秀麗なアウラウドの顔が、まるで地獄の悪鬼のような形相に変わっていたのだ。

 鼻に皺を刻んだアルラウドは、長い牙を剥き出しにして、威嚇するような低い唸り声を上げている。

 志熙はそれを見ても動揺した様子はなく、静かな面持ちでアルラウドを見つめていたが、やがて、目を閉じて無表情のままで座している玲熙の前に歩み寄った。

 腰を屈めた志熙は、玲熙の白い手を取ると、舞台の上に導いた。

「──玲熙、高砂を舞いなさい」

 アルラウドの傍に戻って、床に座った志熙が、そう命じ、一拍手を打ち鳴らす。

 拍手が響くのと同時に、ゆっくりと瞼を開いた玲熙を見つめ、丞ははっと息を呑んだ。

 犯しがたい気品に満ちた白い美貌は表情を変えず、その漆黒の双眸もまた静まりかえった夜を思わせる。

 そこには、いつもはにかみながら微笑む、内気な友人の姿はどこにもなく、あたかも人ならざる神秘の存在が降り立ったかのようだった。

 やがて、海から吹き上げてきた一陣の風に乗るように、玲熙は舞い始める。

 動きの速い、極限まで抑制された舞。

 白い袖が翻るごとに、風が生まれて渦を巻き、天空に駆け上がっていくような鮮烈な印象があった。

 玲熙の舞に目を奪われていた丞は、志熙が静かな声で祝詞を唱え始めたことにも、しばらくの間気づかなかった。

 だが突然、静寂を突き破るように、アルラウドが凄まじい絶叫を上げた。

 その声にぎょっとして我に返った丞は、身体を大きく仰け反らせて悲鳴を上げ始めたアルラウドを見下ろした。

 白い額には青い血管が浮き立ち、常に美しい輝きを放つ蒼瞳が血の色に濁っている。

 アルラウドは痙攣するように何度も跳ね上がり、床を掻きむしって硬直した。

 ところが玲熙が舞をおさめると、アルラウドの身体から急に力が抜けた。

 その顔は憔悴しきって面やつれしていたが、先ほどまでの恐ろしい形相は消えている。

 微かに憐れむような表情を浮かべた志熙は、アルラウドの額に手を差し伸べ、そっと触れて嘆息をもらした。

 疑問を山ほど抱えながらも沈黙を守っている丞に、志熙は静かに告げた。

「これ以上続ければ、この者の命が消えてしまうだろう。
 命そのものに邪気が入り込んでしまっているのだ」

「このまま放っておくとどうなるんだ?」

「邪鬼になる──鬼になってしまうのだよ、この者は」

 その答えに驚愕し、丞はきつく睨むような眼差しで志熙を見返した。

「それは……隠岐宮晴熙のような鬼になるということか?

 すると志熙は頭を横に振った。

「いや、我らとは似て異なるモノだ。
 何故なら、我らは神を崇め、守護する一族。
 しかしながら邪鬼は、神を呪うモノゆえ、いわば宿敵に近い。
 邪鬼は人の血を啜る──血を啜ることは、すなわち命そのものを吸い取るということ。
 邪鬼はそうして長い時を生き続けるのだ」

 志熙の言葉を聞いても納得できず、丞は訝しげに首をひねった。

「……俺には似たもの同士のようにしか思えないがな。
 そもそも、鬼が崇める神って何だ? それこそ邪神じゃないのか?」

 丞の言葉を聞いた途端、志熙はすっと双眸を細め、その漆黒の瞳に冷厳な光が宿った。

「──よかろう。そなたは吾らの真の姿を見た者。
 峰月の子孫であることは許し難いが、玲熙を守護する者なれば、吾の正体もまた知るがいい」

 そう告げ終えた時、突如として発生した白い霞が、志熙の身体を覆い尽くした。

 そして再び霧の中から志熙が姿を現した時、その容貌は変化していたのだった。

「吾の字(あざな)は雪綺──金気を司るゆえに鋼鬼帝(ごうきてい)と称していた者」

 志熙の純白の髪は地を這うように長く伸び、その額には二本の白銀の角が生えていた。

 端麗な顔立ちは、さらに冷ややかな宝石と化したかのごとく輝いて見え、その唇は血を啜ったかのように赤い。

 一瞬の変貌に驚愕し、その荘厳な姿に気圧されていた丞に、志熙は静かに語りかけた。

「我らが崇める神は森羅万象──すなわち、この世界そのものが神なのじゃ。
 我らは世界の摂理に沿って生きている。
 じゃが邪鬼は、世界を呪い、摂理を曲げようとする魔物。
 この者が邪気に囚われ、邪鬼となるなら、吾はこの者を滅ぼさねばならなくなる。
 それが、我らに定められた宿命ゆえに」

 深紅の唇をつり上げ、長い牙を剥き出した志熙は、それでもなお神秘的で幽艶だった。