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舞の贄



<39>



 しばらくの間呆然と志熙を見つめていた丞は、一度視覚を疑うように瞼を閉じると、改めて目の前の異形を見直した。

 だが、それは消える事も、形を変えることもなく、丞の前に存在している。

 鬼形と化した晴熙を目撃していたにも関わらず、彼と同じ鬼を目の当たりにして、現実だと認められないでいる自分は、もしかしたら思っていた以上に往生際が悪いのだろうか?

 そんな事を考えて苦笑した丞は、胸の中から大きく息を吐き出した。

「……あんたたちは、晴熙のように、人を襲って喰らうことはないのか?」

 ショックを受けていたせいか、年長者に対する礼儀も頭から吹っ飛び、丞は警戒するように訊ねていた。

 その問いを聞いて志熙は苦笑を浮かべ、ゆっくりと首を横に振った。

「我らは神ではない……人とは異なるが、生命あるものだ。
 我らとて生きねばならぬゆえ、餌として人を殺めることはある。
 そなたの言う通り、人の血肉を餌にするという点では、確かに邪鬼と変わりはないのやもしれぬ。
 もっとも、力ある者は、あまり人肉を貪るような事はせぬのじゃが」

 自嘲するように純白の睫毛を伏せて微笑んだ志熙は、すらりと立ち上がると、無表情のまま目を閉ざして座っている玲熙の前に近づいた。

 志熙がぱんと拍手を打つと、玲熙の身体がバランスを崩したかのようにぐらりと傾く。

 片膝を突いた志熙は、ほっそりとしたその身体を腕の中に抱き留めると、ゆっくりと床に横たえてやった。

 まだ幼さの残る玲熙の美貌を見下ろし、志熙は深い悲しみと愛おしむ気持ちが入り混ざったような表情を浮かべた。

「……玲熙は、神を宿す身体に生まれついた。
 我らの中でも選ばれた存在なのじゃ。
 吾は玲熙を何者からも守らねばならぬゆえ、これを害そうとする者は許さぬ。
 好んで人を殺めるつもりはないが、その気になれば、いくらでも残酷になれるのだよ」

 そう言ってアルラウドに視線を向けた志熙は、恐ろしいほど美しく、冷たい微笑を浮かべた。

「さて、この者をどうする?
 真の邪鬼となるのならば、いずれ吾はこの者を殺めねばならぬ。
 そのための手段は選ばぬよ──たとえ、大財閥の御曹司とはいえど、我が手から逃れることはできぬだろう」

 琥珀の双眸をすがめた丞は、純白の鬼を見返した。

「……アルラウドが、邪鬼にならずにすむ方法はあるのか?」

「今ここで息の根を止めれば、まだ人として死ねるだろう」

 感情を混じえず淡々と答えた志熙を、丞はじっと見つめていたが、嘆息しながら肩をすくめて見せた。

「それじゃ困るんだ──結局、アルが死ななきゃならない。
 だいたい、さっきから聞いていれば、あんたと邪鬼の間にそんなに違いなんてないぞ。
 あんたが信じる神様を、邪鬼の方が信仰してないってだけだろう?
 そんなのは、鬼じゃなくても、この地上にごまんとあるさ。
 もしアルが改宗したら、あんたと同じただの鬼になるだけじゃないのか?」

 ただの鬼と、そうでない鬼というものの区別はやはり判らなかったが、この際、そんな些細な疑問はどうでもいいと思えた。

 丞の挑発的な言葉を聞いた志熙は、訝しげな表情を浮かべて見返してきた。

「そなた、友を邪鬼として生かそうというのか?」

「俺はアルラウドを死なせたくないだけだ。
 玲熙も鬼の血を引いているんだろう?
 だからといって、俺は玲熙を見捨てられないし、見殺しにもできない──アルもそうだ。
 あんたがここにいるように、この世界に鬼が存在しているなら、邪鬼が一人いたところで問題はないはずだろう?
 邪鬼だという理由だけで、俺はアルの存在を否定はできない」

「邪鬼は人の血を啜るぞ──放っておけば、人の世は大騒ぎとなる」

 冷ややかな声で志熙が告げると、丞は皮肉っぽく唇の片端をつり上げた。

「人間としては、鬼も邪鬼も両方とも、人間を襲わないでくださいとお願いしたいところだ。
 あんたはさっき、生きるために鬼は人を殺めることがあると言っただろう?
 晴熙が人を喰っているのを俺は見たし、実際、この町は大騒ぎになった。
 鬼が人を襲っていいという理屈が通るなら、邪鬼だってそうなんだろう。
 そもそも、そう言うあんたはどうやって生きてるんだ、志熙さん?
 晴熙のように、やはり人を喰らって生きているのか?」

 丞の琥珀色の瞳を睨んだ志熙は、苦々しげな表情を浮かべた。

「吾は人を喰らったりなどせぬ。
 言ったであろう──力ある者は、人の血肉を必要とせぬと。
 吾は直接人の精気を貰う。
 その点で、隠岐宮一族は連帯しておるゆえ、外部の者は必要無いのじゃ」

 不遜な人間を嘲るように唇をつり上げた志熙を見返し、丞は首をひねって訊ねた。

「だったら、アルラウドにもあんたと同じことができるんじゃないのか?」

 すると志熙は一瞬驚いたように丞を見つめ、嘆かわしげに溜息をついた。

「小賢しい口をききおるわ、小童(こわっぱ)の分際で。
 じゃが、それは無理じゃな──アルラウドを闇に引きずり込んだ者がおるゆえ。
 もともと人であった者が邪鬼となるには、邪鬼の血を与える者が必要となる。
 血を与えられた者は、それを与えた者には決して逆らうことはできぬ。
 不老不死を与えられる代償として、絶対的な奴隷にならねばならぬのじゃ。
 主が存在する限り、奴隷は永遠に自由にはなりえない。
 そして、支配者が滅びれば、奴隷もまた滅びる宿命を負うこととなる」

 志熙は憐れむように丞を見つめ、諭すように語りかけた。

「……判ったか?
 邪鬼として生き続けることは、彼にとっては生き地獄に近い。
 このまま人として葬ってやった方が幸せであろうよ」

 志熙の言葉はもっともらしく聞こえ、丞は拳を強く握りしめていた。

 誰よりもプライドの高いアルラウドが、誰かの奴隷となって生き長らえることを望むとは思えない。

 そうなるぐらいなら、むしろ死を望むだろう──丞の知る、かつてのアルラウドならば。

「……だが、俺はそれでも諦めたくない。
 こいつが完全に邪鬼と化す前に、何とか方法を探し出してみせる」

 強い決意を滲ませた丞の瞳を見返し、志熙はほっと嘆息した。

「ご苦労な事じゃな。まあよい」

 そして、志熙はどこからともなく小さな水晶玉を取り出すと、丞にもよく見えるように、それを指に挟んだ。

「そちは玲熙の恩人でもあるゆえ、少しばかり時間をやろう。
 この珠の中には、吾の気が封じてある。
 これをアルラウドに埋め込めば、今しばらくは支配者の手中から逃れられるだろう。
 その間は人の血を啜ることもなくなるが、いずれこれの効果は無くなる。
 そして邪鬼と化した瞬間、この珠はこの者を滅ぼす──それでも良いか?」

 丞は翳された水晶玉をしばらく見つめていたが、決心したようにうなずいた。

 志熙はうっすらと微笑を浮かべると、その水晶玉をアルラウドの額の上に置いた。

 そして人差し指で玉を押さえると、それを埋め込もうとするように軽く力を込める。

 次の瞬間、小さな水晶玉は、まるで柔らかな泥の中に沈んでいくかのように、アルラウドの白い額の中に消えた。

 半ば呆然としてその様子を見守っていた丞は、謎めいた微笑を浮かべる志熙の秀麗な顔を見つめた。

「……タイムリミットは?」

「この者次第であろうな。
 この者の主は、己の支配力が及ばぬことを察し、慌てるであろう。
 そして支配力を増そうと、さらなる闇の血を注ごうとするはず。
 その誘惑に負けた時が、この者が滅びる時となろうよ」

 己の作品を愛でるような所作で、志熙はアルラウドの額をそっと撫でる。

 そして、異形と化しつつある友人を前にして考え込んでしまった丞を見つめ、深紅の唇をつり上げて妖艶に微笑んだ。

「最後に一つ、そなたに忠告してやろう。
 邪鬼に魅入られたからには、何かきっかけがあったはずじゃ。
 それを探ることができれば、あるいは何か方法が見つかるやもしれぬ。
 そして、この者の主を捜し出すこと──それが何よりも先決であろうな」

「ご忠告に感謝するよ、志熙さん──あんたに会えて良かった」

 にやりと笑って見せた丞は、立ち上がって、意識の無いアルラウドを抱き起こそうとした。

 ぐったりとしたアルラウドは相変わらず重く、昨日今日同じように担ぎ上げていた丞の肉体は、まるで反発するようになかなか力が入らなかった。

「……待て。この者は吾が送ってやろう」

 丞の無様な姿を見るに見かねたのか、志熙は溜息混じりにそう言い、軽く拍手を打った。

 するとアルラウドの身体が、空気の中に溶け込んでしまったかのように、その場から消え失せてしまう。

 突然身体が軽くなって驚いた丞は、思わず周囲を見渡して友人の姿を捜していた。

「──どこにやったんだ?」

「心配するでない。そなたの家に転位させただけじゃ」

 志熙はくすりと微笑むと、その細身の身体からは考えられないぐらい軽々と、眠るように横たわった玲熙を抱き上げた。

 玲熙の長い黒髪が流れ落ち、丞はその艶やかさに一瞬、目を奪われた。

 純白の鬼の腕に抱かれた玲熙は、あたかも悪鬼に攫われてゆく古の姫君のようにも見え、なんとなく面白くない気分に陥る。

 そんな不可解な気持ちを振り払うように、丞が溜息をつくと、志熙はくつくつと笑った。

「せいぜい頑張ることじゃ──吾は高見の見物をさせてもらうとしよう」

「そりゃどうも。まあ、時間をくれただけ、感謝するよ」

 肩をすくめてそう言った丞は、能楽殿から飛び降りると、振り返って志熙に軽く片手を上げて見せた。

「じゃあな──それと、人に見られないうちに、さっさと角は引っ込めた方がいいぞ」

 鬼塚森神社から立ち去っていく丞の背中を眺めていた志熙は、鳥居の向こうにその姿が消えると、深い溜息をついた。

「……吾としたことが喋りすぎたな。
 じゃが、我らを恐れぬ人間に出会うのは、随分と久しい事。
 ましてや、鬼に出会って感謝する者など、かつて一人としていなかったというのにな。
 滅ぼそうとする者は多いが、我らの存在を認める者は少ない。
 あれは、世にも稀な人間なのだよ、玲熙。
 あれと出会った事が、そなたの運命を大きく変えるやもしれぬ」

 深い眠りの底にいる玲熙に語りかけるように、低く独白した志熙は、腕の中にかつて愛した者の面影を見出し、もう一度溜息をついたのだった。