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舞の贄



<43>



 風が唸り、漆黒の夜空が紅蓮に燃え上がる。

 激しい突風に煽られた火炎は、寝殿を取り囲む鎮守の木々を焼き払い、ことごとくを灰燼に帰せしめようとしていた。

 轟々と燃え上がる大樹が根元から崩れ落ち、火の粉が驟雨のように降り注ぐ。

 朦々と吹き上がる黒煙の渦に巻き込まれ、方々で断末魔の悲鳴が上がっていた。

 そして、回遊池の上に建つ釣殿では──。

『──逃げよ。そなたは生きねばならぬ』

『……なにゆえでございますか!?
 貴方は、私を黄泉の底までも道連れになさるとおっしゃった。
 それなのに、なにゆえ私をお見捨てになり、お一人で逝かれようとなさるのか!』

 静かな別れの言葉に、悲痛な声が重なる。

 黄金の漣(さざなみ)のごとき豪奢な髪に縁取られた横顔の上で、禍々しい破壊の炎の影が揺れ、ほんの一瞬、深い寂寥を帯びた眼差しが向けられた。

『永遠の別離ではない──流転の果てに、我らは再び邂逅する。
 吾はそなたを追い求め、必ずそなたを見つけ出すであろう』

『どうか、我が君……私もお傍で逝かせてください。
 そうでなければ、なにゆえ、私を永遠の契(ちぎ)りでお縛りになったのか……」

 血濡れた太刀を握っていた力強い腕が、激しく咳き込み、床に頽れた祭祀(さいし)の身体を支える。

 その手は、慟哭する祭祀をなだめるように、涙に濡れた白い頬を包み、やがて額に別離の接吻が落とされた。

『泣くな──せめて最期は、そなたの笑顔を見せてくれ』

『笑うことなどできましょうか。
 全ての災いは、この私が招いたことであるのに。
 お供をさせていただけぬのなら、今ここで、その太刀で、罪人の胸を切り裂かれるがいい』

 鋭く言い放った声は涙で震える。

 差し伸べた細い指先が、決して離すまいとするように主君の顔を引き寄せ、その唇に己の唇を強く押しつけた。

『……我が身に流れる人の血を、お恨みでございましょう?
 私もまた、これほどの心の咎を抱えたまま、生きてなどいけませぬ』

『そなたを恨んだことなど、一度たりともない。
 そなたを愛すればこそ、生きていてほしいと願うのだ。
 我が祭祀よ、そなたに命じる──我が民を連れて、生きのびよ』

 その瞬間、轟音と共に、館の屋根が崩れ落ち始める。

 正殿に戻ろうとする主君に追いすがろうとした祭祀は、炎の及ばぬ池に突き飛ばされ、水の中に倒れ込んだ。

 はっと顔を上げ、双瞳に映ったのは、炎の海に消えゆく主君の姿──。

 庭に這い上がり、追いかけようとするその身を、不意に何者かが引き留める。

『──逝かせて! どうか、私を……あの御方と共に──!!』

 血の色に染まった闇の中に、貴きその御名を呼ぶ絶叫が響き渡った。


 


「……さん! 玲熙さん! しっかりしてください!!」

 手を握られ、肩を揺さぶられていることに気づいた瞬間、玲熙の意識は覚醒した。

 涙で霞んでいた目が、心配そうに覗き込んでいる要の姿を捉える。

「──あ……要?」

 要の腕に抱きかかえられるようにして上半身を起こした玲熙は、鈍く疼いている額を押さえながら瞼を閉じた。

「大丈夫ですか、玲熙さん? ひどくうなされていましたが……」

 気遣うような要の声を聞いているうちに、混乱していた頭と心が静まってゆく。

 安堵の溜息をゆっくりと吐き出した玲熙は、目を閉じたまま要の胸に寄りかかり、ぽつりぽつりと呟き始めた。

「……夢を見たんだ──どうしようもなく怖くて……胸が痛くなるほど悲しい夢を……」

 幼い頃と同じように、優しく髪を撫でてくれている要の手が温かく感じられ、強張っていた胸の緊張がゆるゆると解けていく。

 ほっと吐息をもらし、玲熙は甘えるように、要の胸に顔を埋めた。

「泣くほど怖い夢だったんですか?」

 包み込むように肩を抱かれ、静かな声で要にそう問われると、玲熙は素直にこくりと頷いていた。

 最近は意地を張って、守護者である要に反発ばかりしていたが、生まれた時からずっと傍にいてくれる彼の存在は、玲熙にとって大きな支えであり、安らぎだった。

 目に見えない隔たりを感じていた父や、怖れさえ感じていた兄よりも、もっと自分に近い。

 幼い頃から要の後をついて回っていたから、実の兄弟だと間違えられたこともあった。

「……どんな夢だったか、覚えていますか?」

 その問いに、玲熙は首を横に振る。

「あんまり覚えてないけど……屋敷が…燃えていたんだ」

 瞼の裏に焼き付いた禍々しい劫火を思い出し、玲熙がぶるりと身を震わせると、肩を抱く要の手に少し力がこもった。

「大丈夫ですよ、玲熙さん。
 この屋敷は燃えていませんし、あなたの身は安全です。
 たとえ何が起ころうと、私が玲熙さんをお守りします」

「ここじゃないんだ……でも、どこなのか判らない。
 山に囲まれた、とても立派なお屋敷だったのだけど……」

 もう一度深い溜息をついた玲熙の頭上で、要がくすくすと笑う。

「それでも、あなたは私が守ります──たとえ、この命に代えても」

「……それは大げさだよ。
 それに、僕だって本当は、自分の身くらい自分で守りたいんだ」

 ぱっと顔を上げ、憮然とした玲熙がそう呟くと、要は眼鏡の奥の双眸を細めて微笑んだ。

「ようやく元気が出てきましたね、玲熙さん。
 さあ、お顔を洗っていらっしゃい。
 そんな風に目を腫らした泣き顔で外に出ると、皆が心配してしまいます」

 要の顔を見返した玲熙は、少し唇を尖らせ、その言葉に従うように「うん」と頷いた。

「──でも、どうして要がここにいるの?
 東京に出張してたんじゃなかったっけ?」

 洗面所に向かいかけた玲熙は、ふと思い出したように振り返って、要に問いかけた。

 その途端、穏やかに微笑んでいた男の顔に緊張が走り、冷たさを感じるほど真剣な顔つきになった。

「竜泉閣ホテルで変死体が発見されたと聞き、急遽戻ってまいりました。
 志熙に事情を聞いておこうと思ったのですが、部屋の前を通りかかったら、玲熙さんの悲鳴が聞こえてきたので……」

 子供のように悪夢にうなされていた自分の泣き声を聞きつけて、要は足を止めたのだ。

 誰よりも多忙な要の邪魔をしてしまったことを、玲熙は申し訳なく思い、それと同時に急に気恥ずかしくなった。

「──も、もう、僕は大丈夫だから、志熙さんの所に行っていいよ」

 精一杯気丈な声を出した玲熙は、照れ臭そうに笑って見せ、その後逃げるように洗面所に飛び込んだ。

「では、失礼します」と礼儀正しく退室した要の足音が聞こえなくなると、玲熙はほっと長い溜息をつき、肩から力を抜いた。

「……ホントだ。瞼が腫れてる」

 鏡に映った自分の顔に気づき、玲熙は思わず苦笑をもらしていた。

 冷水で何度か顔を洗ってみたものの、何となく瞼が腫れぼったく見えたため、ぎゅっと力を入れて何度か瞬きを繰り返す。

(……でも……どうして、あんなに悲しい気持ちになったんだろう)

 夢の記憶は消えてしまっていたが、胸を抉られるような深い悲しみと喪失感だけは、余韻が今なお胸の奥に残っていた。

「あれは……誰だったのか……」

 燃えさかる炎の波に、輝かしい黄金の煌めきが呑み込まれてゆく──その光景は残像のように脳裏に刻み込まれている。

 そして、その幻影を思い起こすだけで、悲しみと切なさが募り、止まっていたはずの涙がこぼれ落ち始めるのだ。

 慌てて顔を洗い直し、パシパシと頬を叩いた玲熙は、思いを振り切るように頭を振った。

 寝室に戻り、布団の上で膝を抱えた玲熙は、目を閉じて膝頭に頬を載せた。

 志熙に頼まれ、鬼塚森神社の能楽殿で高砂を舞ってからの記憶が、何故かふつりと途切れてしまっている。

 いつの間にか自分の寝室で眠っていて、悪夢を見て、ようやく要に揺り起こされた。

「丞が傍にいたような気がしたけど……」

 神の舞を舞っていると、自我というものが消え失せ、周囲の気に溶け込んでしまう。

 それでも今回は、いつもよりもさらに自己と他の境界が無くなり、それと同時にどこか遠くへと追いやられてしまったような気がしていた。

 まるで、膨大なエネルギーが「玲熙」という器に注ぎ込まれ、その凄まじい力に魂が吹き飛ばされてしまったかのように。

 それを「神懸かり」だと沖月島の人々は言い、それゆえに敬ってくれてはいるが、彼らの瞳の中には明らかな畏怖が宿っている。

「丞は…僕の事……変だって思わなかったかな」

 丞の前で舞った事は何度かあるが、神懸かりの状態で舞ったのは、今回が始めてだった。

 丞もまた、神懸かった自分を見て、島民と同じように怖れを感じるのだろうか──。

 そんな不安に駆られていた玲熙は、丞の近くで感じた黒い影を思い出し、はっと両目を開いた。

 その禍々しいモノを、神聖な舞が払った時、一瞬、それの思念を感じたのだ。



 …………許さない。私たちを引き離そうとする者は……許さない。

 私のモノだ──血も…肉も……魂も……全て……。



 眉間に皺を寄せ、玲熙は険しい顔で考え込んだ。

「あれは……丞に害をなすものなんだろうか」

 自分の神舞であの影を払い切れたのなら良いが、そうでなければ、再び丞に近づくかもしれない。

 丞があの影に取り込まれてしまったら、と想像した途端、全身が恐怖で粟立った。

「志熙さんなら、もっといろんな事が判っているよね」

 自分自身を励ますようにそう呟いた玲熙は、すらりと立ち上がると、夕暮れの陽射しを浴びて赤く染まった廊下に足を踏み出した。