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舞の贄



<44>



 沖守要がその部屋の障子を開けた途端、独特の芳香がふわりと流れ出た。

 その部屋の主人である榊志熙は、約1間(1.8m)ほどの檜(ひのき)の原木を前にして正座し、何を思うのか静かに瞑想している。

「──面(おもて)を打つのか?」

 大樹の切り株そのままの作業台近くに、鑿(のみ)や木槌、彫りに使う刀(とう)などの道具が整然と並べられている。

 道具類は多く、十二畳ほどの広い部屋でありながら、畳が見えている部分の方が少ないくらいだった。

 空いた場所に腰を下ろした要をちらりと一瞥し、志熙は微かな笑みを浮かべた。

「檜の良材が手に入ったのでな。
 今はまだ、この檜の魂と語らい、思いを巡らせているだけだが……」

 愛おしむように木肌を撫でた志熙は、独白するように淡々と呟いた。

「『蛇』も『女神』も失せてしまった──主上も祭祀である雪姫もおられぬ今、もう一度、新たな面を打ち出すしかあるまい。
 今の私の力では、この島を覆う結界を維持しつづける事は難しい。
 本人は無自覚だが、玲熙の舞には力がある。
 力ある面が生まれ、新たなる命が吹き込まれれば、大きな力となろう」

「……もしかして、あの二つの古面は、君が打ったものなのか?」

 志熙の言葉に驚愕した要は、疑惑を覚えながらもそう問うた。

 すると志熙は要に謎めいた流し目を送り、漆黒の双眸を細めて微笑んだ。

 けれど言葉にしては何も答えず、要と向き合うために座り直した志熙は、穏やかな口調で用向きを訊ねた。

「無論、竜泉閣ホテルで起こった事件の事だ。 
 戻ってくる途中でおおよその事は聞いているが、君が何を考えているかを知りたい。
 玲熙さんに影響があるなら、すぐに対処しなければならないからな」

 すると、その言葉を聞いた志熙は皮肉げに笑った。

「影響なら十分過ぎるほどにあるだろう。
 邪鬼がこの島に入り込んでしまったのだからな。
 とは言え……そう易々と排除できるモノではないのかもしれない」

「君一人で難しいというのなら、僕も手伝おう。
 早々に始末しなければ、後々どんな災いとなるか判らないんだ」

 訝しげな表情を浮かべている要を見返し、志熙は深い嘆息をもらした。

「消滅させるのはたやすいが、邪鬼に魅入られたものも死んでしまう。
 ローウェルの御曹司が深く関わっているのだ──その友である丞もな。
 玲熙に何も気づかせぬよう事を運ぶのは、今さら無理であろうよ」

 愕然として、要は大きく双眸を瞠った。

「──アルラウド・ローウェルが……まさか、邪鬼なのか!?」

 志熙は否定するように頭を振ったが、困惑したように首を傾げた。

「完全に堕ちたわけではないが、強い支配を受けてしまっている。
 封印は施しておいたが、さて、それもいつまで保つか。
 あの若者を消してしまうのはたやすい事だが、ローウェルの御曹司がこの島で消えたとなれば、騒ぎは大きくなるばかりだろう。
 どうすべきなのか悩むところなのだよ、私としてもな。
 アルラウドを助けたいと、丞は息巻いていたが……」

 さらりと流れた純白の髪を背中に払った志熙を、要は挑むような強い眼差しで見つめた。

「……峰月丞に会ったのか?」

 声を低めた要を見返し、志熙はくすりと笑った。

「ああ、もちろん会った。
 いずれにしても知り合わねばならぬ者ゆえ」

 そう答え、志熙はふと面影を思い起こすように、遠い目を宙に向けた。

「あの者に、玲熙が惹かれるのもよく判る。
 大らかで強い気の持ち主ゆえ、玲熙も安心するのだろう。
 傍にいれば、あれの存在そのものが結界となり、雑多な気を弾いてくれる」

「あれは、人の善さそうな見た目より遙かに強かだぞ。
 ただの高校生だと甘く見ていると、後で痛い目を見る」

 その途端、志熙はおかしげにくすくすと笑い出し、怪訝な表情を浮かべた要をじっと見返した。

「その言葉、そっくりお前に返してやろう。
 私は丞を侮る気はない……むしろ、誰よりも警戒している。
 我ら一族の行く末に、あれが大きく関わっているような気がするゆえ。
 玲熙と関わっていくことによって何が起こるのかは、まだ判らぬが」

 ふうっと長い吐息をもらした志熙は、やや憮然としている要の目元からついと眼鏡を取り上げ、悪戯っぽい微笑を浮かべた。

「それよりも、要──この件は私に任せてもらいたいのだ。
 お前は何かと忙しいのであろうし、宮司となった私の力も試したいだろう?」

 志熙の手から眼鏡を取り戻そうとした要は、その言葉を聞いて首を傾げた。

「君の力を疑ったことなどないが……。
 僕に気を遣っているんだったら、遠慮はいらないぞ」

「たかが邪鬼一匹払えぬようでは困るのだよ、私自身がな」

 くつくつと笑った志熙は、ややあってから「判った」と応じた要に眼鏡を返してやる。

 そして次の瞬間、眼鏡をかけ直そうとしている要の肩を押し、そのままのし掛かるようにして畳の上に押し倒した。

「──お、おい!」

 危うく後ろにあった和箪笥で頭を打ちそうになった要は、艶然と微笑んだ志熙の顔を見上げた。

「ここに来る前に、私と約束しただろう、要?
 私には糧が必要だと。
 お前は自ら私の糧になると言ったではないか」

 口づけんばかりに顔を近づける志熙を拒むことはなかったが、要はやや当惑したように問い返した。

「今、ここで? この後、桜坂の方で打ち合わせがあるんだが」

 すると志熙は機嫌を悪くしたようにふんと鼻を鳴らし、要の上から退いた。

「私は腹が減っておるというのに、つれぬ奴よ。
 まあ、良い──今夜はこちらに泊まっていくのか?」

 身を起こした要は「ああ」と応じ、観念したように苦笑をもらした。

「判った──君さえ良ければ、ここに泊まらせてもらおう」

「では、ゆっくりと寝物語など聞かせてあげよう」

 神官とは思えぬほど妖艶な笑みを浮かべた志熙は、不意に何かの気配に気づいたように音もなく立ち上がり、さっと障子を開け放った。

 そこには戸惑ったような表情で玲熙が立ちつくしており、障子が開けられた途端、驚いたように大きく目を瞠った。

「──玲熙さん!」

 玲熙に気づき、要が慌てたように立ち上がる。

 それを揶揄するように一瞥した志熙は、にこりと微笑んで玲熙に問いかけた。

「玲熙さん、要に何かご用でしたか?」

 玲熙は、志熙と要の顔を交互に見比べ、叱られた子供のような小声で応じた。

「ごめんなさい……立ち聞きするつもりは無かったんですけど、少しだけ聞こえてしまって」

 要はぎょっとして、言い訳するように口早に告げた。

「何でもないんですよ、玲熙さん──ただ、久しぶりに志熙と飲み交わそうという約束をしただけで」

 そんな要を呆れたように見やった志熙は、動揺などおくびにも出さず、申し訳なさそうに頭を下げた玲熙に言った。

「私との話は終わってますから、要はお返ししますよ」

「あ、いえ──実は志熙さんにお話があって来たんです」

「おや」と言うように首を傾げた志熙は、まだ微かに顔が強張っている要に向かって、追い払うようにひらひらと片手を振った。

「……だそうですよ。
 打ち合わせとやらがあるんでしょうから、あなたはさっさとお行きなさい」

 困惑した面持ちで二人の姿を見下ろしていた要は、深い嘆息をもらした。

「判りました、退散しますよ。
 玲熙さん、何かありましたら、遠慮なく連絡してくださいね」

 立ち去っていく要の後ろ姿を眺めていた志熙は、くつくつと笑いながら両腕を組み、傍に立っている玲熙に声をかけた。

「あんなに焦っている要を、私は初めて見ましたよ。
 ちなみに、私たちの話をどこまで聞いてしまわれたんです?」

 玲熙は困ったように首を傾げ、視線を床に落とした。

「本当にちょっとだけなんです──志熙さんが要に『寝物語をしてあげよう』って。
 盗み聞きしようなんて思ってなかったんですけど、声をかける前に聞こえてしまって」

 その言葉を聞いた志熙は面白そうに双眸を細め、意地の悪い微笑を浮かべた。

「そうですか……そのくらいでは盗み聞きとは言えませんね。
 気になさることはありませんよ、玲熙さん。
 さあ、少々手狭になっていますが、中にお入りください」




 志熙の部屋に招き入れられた玲熙は、床に置かれた様々な道具を興味深く眺め、感心したように呟いた。

「……志熙さんは面を打たれるんですね」

 志熙は刀が一列に並べられた木箱を別の場所に運び、座れるスペースを広げている最中だったが、振り返ってそれに応じた。

「今はまだ準備段階です。
 榊家に置いてあった道具を全て運び入れてもらったので、確認をしていたところだったんですよ。
 ただ、あの檜を眺めていたら、肝心の仕事の方を忘れてしまいましたが」

 四分の一の扇形に伐られている檜の傍に近づいた玲熙は、その香りに誘われるように、そっと手を差し伸べようとした。

 しかし寸前で思いとどまり、道具を片付けている志熙に訊ねた。

「あの……この木に触れてもいいですか?」

「もちろん良いですよ。
 玲熙さんの面を打つのですから、触れていただければ、木も喜ぶでしょう」

「──僕の面を?」

 驚いて声を上げると、座布団を持って戻ってきた志熙が微笑みながら問い返した。

「あなた以外に、誰がいるというんですか?」

 志熙の深い漆黒の瞳を見返した玲熙は、不意に嬉しくなって檜の前に跪き、崇めるような気持ちでその硬い樹皮に触れた。

「何だか不思議な気がします……この木の中から、新しい面が生まれてくるなんて」

 感動して目を潤ませている玲熙を見やり、志熙はくすくすと笑った。

「すぐには完成しませんよ。
 納得できるものが出来上がるまでには時間がかかりますからね」

「それでも楽しみです……どんな面が出来上がるんだろうって。
 何の面を打つのか、考えていらっしゃるんですか?」

 無邪気に喜ぶ玲熙の顔を見つめていた志熙は、何か悲しい出来事を思い出したかのような寂しげな表情を浮かべ、ゆっくりと頭を横に振った。

「──いいえ、まだ。
 ですが、あなたのために良い面を打つことができればいいと思っています」