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舞の贄



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 玲熙に座るようにと促した志熙は、「さて」と言葉を置いてから、穏やかに問いかけた。

「私にお話ということですが……何か気にかかっている事でもあるのですか?」

 志熙の口調は丁寧だったが、その声の芯には玲熙には無い強さのようなものがある。

 見かけは女性と見紛うほどにたおやかで、優美でありながら、その気性はもしかしたら要よりも剛毅なのかもしれない。

 ふとそんな風に思った玲熙は、正座した膝に視線を落として話し始めた。

「今朝、高砂を舞っていた時、傍に丞がいるのを感じたんです。
 不思議なんですけれど、その時の事はあまり覚えていなくて──まるで夢の中の出来事のようでした。
 でも、気になっているのはその事ではなくて、丞の傍に何か悪い黒い影のようなものが感じ取れた事なんです。
 あれが何だったのか、志熙さんなら判るんじゃないかと思って……」

 玲熙の言葉を聞いた志熙は、表情を変えずに首を傾げた。

「黒い影──そうですか……あなたにも感じ取れたのなら、話は早い」

 口を噤んだ志熙は、束の間逡巡するように沈黙していたが、不思議そうに顔を上げた玲熙の瞳をじっと見返した。

 吸い込まれそうなほどに深い漆黒の瞳に見つめられ、目がそらせなくなる。

 玲熙が思わず瞬きをすると、志熙は淡々とした声で話し始めた。

「あなたが感じ取った黒い影というのは、アルラウド・ローウェルから発せられた邪気です。
 あれは今、禍々しきモノに囚われてしまっている。
 あなたはこの地の強い気で守られていますが、それでもあの男に近づくのは非常に危険です。
 ですから、アルラウド・ローウェルには絶対に近づかないでください。
 そして、彼の友人である丞の傍にも──」

「……嫌です!」

 志熙の言葉に驚き、大きく目を瞠っていた玲熙は、考える間もなく声を上げていた。

 話を途中で遮ってしまった事に軽い罪悪感を覚えながらも、玲熙はさらに言いつのらずにはいられなかった。

「丞に近づくななんて、そんなの無理です。学校だってあるのに……」

 感情を露わにした玲熙を見返し、志熙は冷静な声音で告げた。

「学校に行くなとはいいません──今はまだ。
 しかしながら、今回の事件が大きくなった場合、学校をまた休んでいただくことになるかもしれません。
 あなたの身の安全を考えれば、この屋敷から出ない事が一番望ましいのですから」

 愕然とした玲熙は、納得できないというように問いかけた。

「僕は何も悪い事をしていないのに、また逃げるように隠れなくてはいけないんですか?
 そもそも、アルラウドの邪気ってどういう事なんですか?
 その事で傍にいる丞にまで悪い影響があるというなら、何とか二人を助けなければならないでしょう?」

 玲熙はすがるように志熙を見つめ、興奮して上ずっていた声のトーンを落とした。

 そして黙っている志熙を説得するように、真剣な声音で話しかけた。

「舞えと言うのなら、いくらでも舞います──僕の舞が少しでも助けになるのなら。
 丞も、アルラウドも大事な友達だから、悪い事が起きているなら助けたい。
 僕一人だけが安全な場所に隠れているなんて、もう嫌なんです」

 すると志熙はふうっと長い溜息をつき、「やれやれ」というように軽く頭を振った。

「玲熙さんのお気持ちはよく判りました。
 けれど、あなたは隠岐宮家に残されたただ一人の巫子。
 あなたを失えば、この島が守っている全てのものに影響が出る。
 それゆえに私は、どんなにあなたから恨まれようと、たとえ丞たちが死んでしまったとしても、あなただけは守らなければならないのです。
 それが我ら血族の掟──人の道に外れていようとも、それだけは変えられません」

 志熙の言葉にショックを受けた玲熙は、息を止めたまま呆然となった。

「丞たちが死んでも……僕さえ生きていれば……他はどうなってもいいと?」

 冷たいほどに澄み渡った目で玲熙を見返し、志熙は残酷な事実を突きつけた。

「正確に言えば、あなたの存在と、あなたの舞が必要なのです。
 巫子の舞は、この島を守るためになくてはならない。
 学校などに行かなくとも、舞は舞えます。
 そのための教育を、一族の者たちはあなたに行ってきたはずです。
 必要なものは、この屋敷の中に全てそろっている。
 わざわざ危険を冒してまで、巫子が外の世界に出向いていく必要などないのですから」

 息を引きつらせた玲熙は唇を震わせ、無表情で端然と座っている志熙を見つめた。

「僕から……全ての自由を奪うおつもりですか?」

 玲熙の白い頬に大粒の涙が伝い落ちるのを、志熙は非情の眼差しで見返し、恭しく頭を垂れた。

「必要であれば、そういたします。
 今朝もそう申し上げたはずです。
 巫子は我らが神への聖なる生贄──神の祭祀に自由などありません。
 我らが神に御身の全てを捧げるために、あなたは生まれてきたのです。
 神がそう望むならば、あなたは全てを奪われるでしょう」

 揺るぎも無く、迷いも無い志熙の言葉に、玲熙は打ちのめされたように身を震わせ、叫び出しそうな声を抑えるように口を覆った。

 そんな玲熙に、志熙はさらなる追い打ちをかけるように告げた。

「要が、我が身よりも大切にあなたを守ってきたのは、どうしてだと思うのですか?
 守護家である沖守家の長子として生まれた彼の前に、巫子であるあなたが生まれたからです。
 あれは己の宿命をわきまえ、その責務を果たそうとしている。
 あなたは隠岐宮家に巫子として生まれた──それゆえに、あなたもまたその宿命から逃れることはできません。
 まだ若いあなたには酷でしょうが、巫子としての務めは果たしていただきます」

 それは研ぎ澄まされた刃のような言葉だった。

 明るい未来へのほのかな希望を切り裂かれ、玲熙は反論する声や言葉さえも奪われていた。

(結局、僕には、舞うことしか許されていないのか……)

 重い絶望に心が押し潰されそうになり、玲熙の双眸から再び涙がこぼれ落ちる。

 膝の上に置いた両手を握りしめた玲熙は、心の痛みを必死に押し殺し、どうするべきなのかを考えた。

 おそらく、自分に告げた言葉以上の事を、志熙は知っている。

 そして彼には間違いなく力がある──あの要が、鬼塚森神社の宮司としてわざわざ迎え入れたくらいなのだから、相当の信頼を置いているのだろう。

 今の自分は、舞うことはできても、他に何の力も持たない。

 守護者である要が不在である以上、丞たちを救えるのは……志熙しかいないのだ。

「お願いします、志熙さん──どうか……丞とアルラウドを助けてください。
 彼らに近づくのが危険だと言うなら、あなたが良いと仰るまで距離を置きます。
 学校を休まなければいけないと仰るなら、そうします。
 巫子としての務めは果たしますから……お願いです、二人を助けてください」

 志熙に深く頭を下げた玲熙は、震える声を抑えながらそう懇願した。

 その姿を見下ろした志熙は、深い嘆息をもらし、口調を和らげて話しかけた。

「頭をお上げなさい、玲熙さん。
 あなたに頼まれるまでもなく、この島にあのようなモノを、いつまでものさばらせておくつもりはありません。
 あなたのためにも、できうる限りの手は尽くしましょう」

 その言葉を聞いてほっと安堵した途端、畳の上にぱたぱたと涙がこぼれ落ち、玲熙は慌てて瞬きを繰り返した。

「ありがとうございます……志熙さん」

 無力な自分を痛感しつつも、志熙が丞たちの事を気にかけてくれているなら安心だと思えた。

 少なくとも、自分が巫子としての務めをきちんと果たしている限り、志熙は力になってくれるだろう。

 そして、守護者である要もまた──。

(この地の神に全てを捧げるために、僕は生まれてきた。
 いったい、ここに奉られている神様は……僕に何を望んでいるのだろう?)

 幼い頃から感じていた疑念が、ふと心の中に浮かび上がる。

 そんな玲熙の心を見透かすように双眸を細めた志熙は、すいと音もなく立ち上がって障子を開け、涼しい夕風を部屋の中に通した。

 そして、どこか物憂げな表情で庭を見つめ、独り言のように語り始めた。

「この隠岐宮家の始祖である雪姫も、神の巫子であられた。
 なりたくてそうなったわけではないが、見出されてしまった……我らが神に。
 虜囚のように自由を奪われた雪姫もまた、長きに渡って嘆いておられたが、それでもその舞は素晴らしく、荒ぶる神の心を慰めていたのです。
 そして神は……雪姫の事を誰よりも愛しておられた」

 引き込まれるように志熙の言葉に耳を傾けていた玲熙は、声が途絶えた事に気づき、涙していた事も忘れて顔を上げた。

 志熙は両腕を組んだまま、屋敷の壁に囲まれた庭を見つめている。

 その白皙の横顔は美しく、凜とした眼差しはどこか遠くを見ているようだったが、その瞳の中には誰にも感じたことがないほどの悲しみと悔恨が宿っているようにも見えた。

「志熙さんは……まるで見てきたように話されるんですね」

 深く考えることなく口から転がり出てしまった言葉に、玲熙が慌てていると、振り返った志熙は静かな微笑みを浮かべた。

「全て一族の言い伝えですよ。
 それゆえに、隠岐宮家に生まれた子供は、幼い頃から舞うことを強いられる。
 他の者たちもまた、何らかの形で舞に関わることになります。
 我が榊家は、能面を打ち、修繕する事を代々の務めとしてきました」

 檜の原木に視線を投げかけた志熙につられるように、玲熙もまたそちらに顔を向けた。

「優れた面には力が宿るのです──それは、巫子を助ける力となる。
 それゆえ、私もあなたのために面を打とうと思いました。
 けれど、どれほど優れた面であっても、舞台で活かさなければ役に立ちません。
 蔵の中に収めているだけでは意味がない。
 そして面の力を活かしきるには、能楽師としての高い技量が必要になってきます」

 淡々とした志熙の説明を、玲熙は思わず背筋を正して聞き入っていた。

 その様子を眺めていた志熙は口の端に謎めいた微笑を浮かべ、玲熙の前に歩み寄って片手を差し伸べた。

 驚いて顔を上げた玲熙の頬に触れた志熙は、微笑んだまま首を傾げ、腰を屈めて顔を近づけてきた。

「あなたも……舞台で面を活かすのと同じように、早く私を使えるようになりなさい。
 あなた次第で、私は神にも鬼にもなるのですから」

 長い純白の髪がさらさらと鳴り、澄んだ白檀の香りがほのかに流れてくる。

 間近に迫った志熙の美貌を、息を呑んだまま見惚れていた玲熙は、幻のような白い影が離れるのと同時にようやく息をつくことができた。

「──志熙さんは、不思議な人です」

 今まで出会った誰よりも神秘的で、不可解な存在だと思えた。

 玲熙がぽつりと呟くと、志熙は「そうですか」と応じてくすくすと笑う。

 軽やかな笑い声を立てる笑顔は、まるで月天に住まう天女のように美しい。

 しかし先ほど見た冷厳な表情もまた志熙の顔であり、果たしてどちらが彼の本性なのかと、玲熙は心底困惑してしまった。

 笑いを収めた志熙は、少し考え込むように宙を仰ぎ、玲熙にも聞かせるように呟いた。

「それはそうと……私も少し気にかかっていることがあるのですよ。
 なにゆえ邪鬼がこの島に入り込むことができたのか。
 いくら結界に綻びができていたからとは言え、あのようなモノが入り込めば私だけでなく要も気がついたはずです。
 何者かが手引きし、招き入れたとしか考えられない」

 驚いた玲熙に、志熙は苦笑して見せた。

「だからこそ、十分に用心していただきたいのですよ。
 私としても、あなたに辛い思いをさせたくはないが、何が起こるか判らないのです。
 どうしても学校に行きたいというのなら止めませんが、私の警告は守ってください」