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舞の贄



<46>



 夕陽が落ち、藍が深まる薄明の空を見上げた玲熙は、竹箒を手にしたまま立ちつくしていた。

 鬼塚森神社の境内に建つ能楽殿は、周囲と切り離すように白洲が巡らされ、東西南北に桜の御神木が配された、一つの結界になっている。

 舞を舞う前に禊を行うように、聖なる舞台もまた清浄を保たねばならない。

 それゆえに、この聖域を清めるのは巫子である玲熙の役目であり、よほどの事が無い限り、朝夕の掃除を日課としていた。

 入母屋造りの能楽殿は、屋根から柱にいたるまで全て檜(ひのき)で造られており、沖月島の重要文化財にも指定されている。

 本舞台、橋掛(はしかが)り、鏡の間と、一人で掃除するにはいささか広く、大変な作業ではあったが、物心ついた時から日常に組み込まれている大切な務めであった。

 幼かった頃は、後見である要がいつも手伝ってくれていた。

 しかし、彼が東京の大学に進学するため沖月島を離れた時から、玲熙は一人でこの務めを果たすようになった。

 これも修行の一つだと父は言っていたが、始めの頃は迫り来る夜の闇が怖くて、あまりの心細さに泣いてしまった事もある。

 結界で守られているのだから大丈夫──そう自分に言い聞かせてみても、この鬼恊X神社そのものが、不気味な闇を抱え込んでいるように感じられた。

 同様の闇は沖月島全土にも感じられるのだが、神社がある竜海山に漂う闇はひときわ深く、冥い。

 そして、その暗闇の深淵にあるのが、鬼恊X神社が奉る神。

 巫子はその神への聖なる生贄だと、先刻、志熙が言っていた。

 それを聞いた直後だからなのか、慣れているはずの務めの最中に、誰かがじっと自分の事を凝視しているような錯覚を起こす。

 闇の中から獲物を見つめ、いつ喰ろうてやろうかと狙っているかのように。

(だめだ……集中しなきゃ)

 ところが気にすればするほど、肌がざわざわと粟立ち、恐怖で鼓動が速くなる。

 きつく眉を寄せた玲熙は、動かない身体を叱咤しながら、再び白洲に散らばる落ち葉を集め始めた。

 その時、正面の鳥居の方から、石の階段を駆け上がってくる軽やかな足音が響いた。

「あ、いたいた。玲熙──時間あったら、ちょっと付き合ってよ」

 融が姿を現した瞬間、重さを増す闇がすっと退き、再び太陽の光が差し込んできたかのような明るさを感じた。

 大きな声を上げて走り寄ってきた幼なじみの顔を見つめ、玲熙は思わずほっとして微笑んでいた。

「もう少しで掃除は終わるけど……どうかしたの、融?」

「バスケの練習したいんだけど、丞の所にはアルラウドがいるだろ。
 来るなって言っても、絶対丞についてくるんだろうし。
 あいつにごちゃごちゃ言われたら、メチャクチャ腹立つに決まってるからさ」

 アルラウドの美貌を思い出しているかのように、眉間と鼻に皺を寄せた融は、小脇に抱えたバスケットボールを軽く叩いた。

「玲熙が忙しいのは判ってるけど──ほら、ちょっとした気分転換ってことで」

 情に訴えかけるような上目遣いで小首を傾げた融を見返し、玲熙はくすりと笑った。

 隠岐宮家に連なる一族でありながら、他の人たちのように主従関係を気にせず、素のままで振る舞う融は、閉鎖的な沖月島の中では極めて貴重な存在だった。

 誰もが巫子に相応しい行動をするようにと玲熙に求めてくる中で、融だけが、年相応の少年として自分を見ていてくれる。

 だから余計に、期待をされると、融の気持ちに応えたくなった。

「じゃあ、これが終わったらね。
 少し待っててくれる? すぐに終わらせるから」

 その答えを聞いて融は素直に喜びを表し、玲熙が掃除をする横で、どこからか仕入れてきた情報を話し始めた。

「そういえば、竜泉閣ホテルの吸血鬼事件、殺された女の人と一緒に泊まっていた男を、警察が捜し回っているんだってさ。
 その人、田上聡一郎って名前らしいんだけど。
 島の中に潜んでいるんじゃないかっておふくろは心配してたけど、東京の人間なら、さっさと逃げ出すよなあ。
 こんな狭い島の中、どこかに隠れてたって、すぐに見つかるだろうし」

 それを聞いた途端、鬱々とした気分が蘇り、玲熙は溜息をついた。

「あ、ごめん──事件の話なんて、聞きたくなかったよな」

 慌てて融が謝ると、玲熙は小さく頭を振った。

「そうじゃなくて……早く事件が解決して欲しいと思っているんだ。
 じゃないと、学校に行かせてもらえなくなるかもしれないし」

 玲熙の言葉は意外だったらしく、融は大きな目を瞠って聞き返してきた。

「それって、どういうこと?」

「僕にまた悪影響があると困るって、志熙さんは思っているみたい。
 志熙さんが言えば、要だって反対しないだろうしね。
 最優先されるのは、僕の身の安全なんだって」

 詳しくは説明しなかったが、様々な事情を知っている融は納得したようにうなずいた。

「アルラウドが事件に関わっているかもしれないし、あいつはまた玲熙にちょっかい出してきそうだもんなあ。
 前の事件みたいな大騒ぎになるのは、要さんも嫌だろうし」

「──要や志熙さんが反対しても、僕は学校に行きたいって思ってるんだ。
 でも……我が儘を言える立場じゃないよね」

 自分の気持ちを打ち明けた玲熙は、困惑の表情を浮かべた融を見返して苦笑し、止まっていた竹箒を急いで動かした。

「ごめんね、融。喋ってたら、遅くなっちゃいそうだ」

「俺の事は気にすんな。
 どうせ帰っても、いろいろ手伝わされるだけなんだから」

 割烹旅館「滝桜」を営む滝沢家の夕食時は忙しい。

 一人ふらふらしている所を、母であり女将である清香に見つかってしまったら、問答無用で厨房に駆り出されるはめになるのだ。

 掃除の邪魔をしないようにと気を遣ったのか、境内に敷き詰められた石畳の上で、融は一人でドリブルの練習を始めた。

 空は暗くなっているが、境内は電灯で照らされており、ライトアップ用の灯りをつけるとさらに白々と明るくなる。

 神域でバスケの練習というのも少々不謹慎な気はするが、何となく不安を感じていた玲熙にとって、タンタンとリズミカルに弾むボールの音は心強く響いた。

 その後、手際よく掃除を終わらせ、社務所の収納庫に掃除用具を片付けた玲熙は、融が待っている場所まで足早に戻った。

 ゴールが無いためシュート練習はできなかったが、パス練習やドリブルに付き合っていると、身体が温まって汗ばんでくる。

「──丞の方が良かったんじゃないの、やっぱり?」

 チェストパスを受け止めた時、玲熙がそう訊ねると、融は明るい顔で笑った。

「地道な練習っていうのも必要だろ──丞とは、まだまだレベルが違うしさ」

 そう言って、融はふと顔色を曇らせた。

「でも……あいつ、このままバスケ止めちゃうのかなあ。
 バスケ部に入る気無さそうだし──まあ、うちは弱小だから、やる気にならないっていうのも判るんだけど……惜しいよなあ」

 高校バスケットボール界では有名な存在である丞は、融が以前から憧れていたヒーローだった。

 その丞が転校してきて、親しい友人になれたものの、華麗なプレーが見られなくなってしまったのは非常に残念なのだ。

 溜息をついた融にパスを返した玲熙は、その時、助けを求める小さな声を耳にして、風が吹き付けてくる方向を振り返った。

「──融。今、人の声が聞こえなかった?」

 その言葉に驚いたように、融も耳を澄ませる。

 しんと沈黙が満ち、木々のざわめきだけが辺りに響いていたが、ややあってから再び低い呻き声が風に混ざった。

 その声を聞きつけ、融がぎょっとしたように玲熙を見つめる。

「ホントだ。でも……どこから……?」

 怯えた様子で融が辺りをきょろきょろと見回していたが、玲熙は声のする方向を定め、風上に向かって歩き始めた。

「な、なあ、玲熙──要さんとかに、一言言っておいた方が良くない?」

 慌てて後を追ってきた融がそう忠告してきたが、志熙から言われた言葉を思い出し、玲熙は唇を引き結んだまま首を横に振った。

 危険があると判断すれば、要や志熙は、自分を家の中に閉じ込めようとするだろう。

 安全が確認できるまで、果たして何日かかるのか──。

 明日は月曜日、週の始まりから学校を休みたくはない。

 そんな思いを胸に秘め、玲熙は淡々とした声で融を説き伏せた。

「神社の敷地内だけでも、とりあえず確認してみよう。
 結界が張ってあるから、何かあれば志熙さんがすぐに気づくはずだし、何事もなければそれに越したことはないし。
 何も見つからなかったら、その時は僕から志熙さんに言っておくよ。
 要は今、いろいろと忙しいみたいだから……」

「ま、まあ、玲熙がそう言うなら。
 でも、やばいと思ったら、走って逃げろよ。
 俺だって、玲熙を守らなきゃいけないんだから、危ないと感じたら、お前を連れて逃げるからな」

 怖じ気づいている自分を励ますかのように、バスケットボールを脇にしっかりと抱え込んだ融は、歩みを早めて玲熙の前に立った。

 能楽殿の裏手を抜け、鬼恊X神社と竜神湖を結ぶ細い山道まで来ると、電灯の明かりが届かなくなり、一気に闇が深まる。

 神域の境界を示す鳥居が、黄昏の闇の中に黒く聳え立ち、その向こう側には竜海山の原生林が広がっているのだ。

 頭上に揺れる木々の影が、さらに夕闇を色濃く染め、足もとに道があるのかさえ判らなくなりそうだった。

 用心のために持ってきていた懐中電灯を融がつけると、頼りない明かりが二人の行く手を照らし出す。

 鳥居の下で立ち止まった融は、周辺をうかがうように、懐中電灯を動かした。

「……何も聞こえなくなったな」

 声をひそめて融が囁き、玲熙もうなずく。

 どんな音も聞き逃さないように耳をそばだてていると、木々の間を飛び回る鴉の鳴き声が突然大きく響いた。

 その声に驚き、とっさに融の肩にしがみついてしまった玲熙は、勇み立ってここまで来た自分自身をひどく恥ずかしく思った。

 結局、誰か傍にいなければ、隠岐宮家の敷地内ですらも自由に歩き回れない。

 それなのに意地を張って、融を巻き込んでしまったのだ。

「帰ろうか──もう何も聞こえないし。
 一応、屋敷の方まで送っていくよ」

 小刻みに震えている玲熙を励ますように、振り返った融は、顔を引きつらせながらも笑顔を浮かべていた。

 今度は素直に玲熙がうなずいて見せた時、しゃがれたその声が唐突に響いた。

「……けて。助けて──誰か……助けて……」

 顔を見合わせた二人は、どうしようかと迷い一度本殿の方を振り返ったが、助けを求める声の主を捜すため、懐中電灯を再び鳥居の外に向けた。