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舞の贄



<47>



「……何だかよく判らないけど、困ってるみたいだな」

 夕闇に包まれた竜海山は、さらに丈高い木々や下生えの薮で視界を遮られているため、離れていてはその声の主を探し出すことができない。

 途方に暮れて融が呟き、「どうする?」と問いたげな眼差しを向けてくる。

「観光客かな──怪我をして動けなくなっているのかも」

 竜海山は遭難するほど峻険な山ではなかったが、鬼恊X神社に来た観光客が、その裏手に広がる鎮守の森に迷い込んでしまうことはよくあった。

 舗装されていない山道が麓の方まで続いており、地元民はここを通って参拝しに来ることもある。

 ところがこの山に慣れていない者たちは、あたかも何かに誘い込まれるように、木々が密集した山奥へと入り込んでしまうのだ。

「俺、ちょっとその辺まで見てくるから、玲熙はここにいろよ」

 そう言って、融はバスケットボールを玲熙に手渡し、足早に鳥居を出た。

 土が踏み固められた緩やか斜面を下りながら、融は懐中電灯で薮の中を照らし、「おーい、誰かいますか〜?」と声を上げて呼びかける。

 その様子を見守っていた玲熙は、強い不安を感じ、落ち着かなくなった。

 急に風が止まり、声もまた途絶える。

 異様な陰気が足もとを蝕むようにじわりと広がり、それを感じ取った途端、融の悲鳴が上がった。

「うわああぁっ!」

 枯れ枝がバリバリと折れる音、そして重い物がどさりと地面に倒れる。

「──融っ!!」

 その場から飛び出した玲熙は、幼なじみの姿を捜して山道を駆け下りた。

 程なく、山道に転がった懐中電灯を見つけ、玲熙は慌てて周囲を見渡した。

「融、大丈夫!?」

 山道から少し外れた草むら間に、融が転倒した痕跡を見つけ、玲熙は声をかけた。

「……いってぇ。草か何かが足にからまった」

 崩れた斜面を這い上がってきた融が、茂みを掻き分けて顔を出す。

 その顔を見てほっと安堵した玲熙は、ボールを地面に置いて、融に手を差し伸べた。

「悪い。すぐ傍で声が聞こえたような気がしたから、ちょっと近寄ってみたんだけど……」

 玲熙に助けられながら立ち上がった融は、痛そうに顔を顰め、膝や尻に付いた枯れ葉や泥をパタパタとはたき落とした。

「やっぱり、誰か人を呼ぼう。
 暗くなってきたから、僕たちだけじゃ危ないよ」

 もし怪我人がいるのなら、余計に人手は多い方が良いと判断し、玲熙はそう提案した。

 同意するように頷いた融は、自分が転げ落ちた薮の方を指差し、ふうっと溜息をついた。

「……ちょうどその辺で声がしたんだけどな」

 と、その時、異臭の混ざった生ぬるい微風がそよぎ、低くしゃがれた唸り声が草藪の中から響いた。

「──助けて……助けてくれぇ……」

 喉の奥から振り絞るようなその叫びに、二人はぎくりと立ちすくむ。

 先ほどよりも遙かに大きなその声は、二人のすぐ傍、二人が立つ地面の下から発せられているのだ。

「──逃げろ、玲熙!」

 本能的に危険を察知した融が、玲熙を鳥居の方へと押しやる。

 その瞬間、土の中から細長い木の根のようなものが飛び出し、走り出そうとした玲熙の足首に絡みついた。

「ああっ!」

 足を取られて地面に転倒した玲熙は、抗う間も無く、暗い薮の中に強い力で引きずり込まれた。

 地面に浮き出た木の根に必死でしがみつこうとしたが、千切れそうな凄まじい力で足首を引っぱられ、ずるずると斜面を落ちていく。

 助けを求めたくとも、衝撃と恐怖で息が止まり、声が出ない。

 やがて、足首をつかんでいたものが、身体の上にずしりとのしかかり、冷たく生臭い息を吹きかけてきた。

「──ああ……やっと助けに来てくれた。
 腹が減ってなぁ……ずっと餌が来るのを待っていたんだよ」

 顎から長く突き出た牙をカチカチと鳴らし、それがしゃがれた声で嘲笑う。

 喉元にかかったそれの手は、氷のように冷たい。

 大きく目を瞠ったまま、金縛りに遭ったように動けなくなっていた玲熙の耳に、融の叫び声が聞こえた。

「……こいつ……玲熙を放せ!!」

 懐中電灯を拾って追いかけてきた融が、玲熙の上にのしかかっていたそれに向かって、力一杯バスケットボールを投げつける。

 どんな作用が働いたのか、ただのボールが砲弾のように変化して激突し、それは一気に吹き飛んだ。

「玲熙、大丈夫か!?」

 自分が投げたボールの威力に驚きつつも、融は地面に倒れていた玲熙をすばやく助け起こした。

「逃げるぞ。走れ!」

 融に手を引かれ、山道へ逃げ戻ろうとした玲熙は、ざざっと木の枝を揺らして頭上を過ぎった黒い影に気づき、思わず悲鳴を上げていた。

「──融っ! 上っ!!」

 融がはっと顔を上げた時、木の上から飛び降りてきた影が、ぶんと長い腕を振った。

 振り子のような腕に側頭部を一撃され、融の身体が跳ね飛ばされる。

 木の幹に身体を打ち付けられた融は、声にならない悲鳴を上げ、そのままずるずると地面に崩れ落ちた。

「食事の邪魔しようとするからだ。
 ようやく旨そうな餌にありつけるところだったのになぁ」

 地面に降り立ったその化け物は、長い牙をギシギシときしらせ、耳障りな声で笑った。

 暗闇の中に、化け物の双眸が血を含んだように赤く光る。

 融に呼びかけようとしても、目に見えない縄で喉を締め上げられ、玲熙は声一つ発することができなかった。

 呼吸ができなくなり、頭から血の気が引いていく。

 全身から力が抜け、玲熙が地面に倒れ込むと、首を絞めていた力がふっと緩んだ。

 黒い影が近づき、うつ伏せに倒れた玲熙を無造作にひっくり返す。

 闇の中に濁った二つの赤光が瞬くのを、玲熙は朦朧とした意識で認めた。

「お前、良い匂いがするなぁ。
 この先にはどうしても入り込むことができなかったが、良い拾いものをしたよ」

 化け物は犬のようにくんくんと鼻を鳴らしながら顔を近づけ、土がこびりついた長い爪を、玲熙の白い喉に這わせた。 

 さらに肌の匂いを味わうように、洋服を引き裂き、胸元まで露わにする。

 新雪のように染み一つない肌が剥き出しになると、その化け物の口がぱくりと開き、鋭い牙の間で長い舌が舌なめずりをするように何度も蠢いた。

 口角から生臭い白い泡と涎が滴り、肌の上に落ちる。

 異様な臭気をはらむ冷たい粘液を感じた途端、凄まじい恐怖と悪寒を襲われ、玲熙は顔を仰け反らせて悲鳴を上げた。

 だが声は出ず、ひいっと掠れた笛のような音しか流れない。

 化け物の舌が、温かな獲物の肉を味わうように皮膚を辿り、その柔らかさを楽しむように牙の先が軽く食い込む。

 その瞬間、全身が青ざめ、総毛立つ──眦から涙が溢れ出し、喉と胸元が凍り付いたような冷たい痛みを発していた。

(……助けて……誰か、助けて!)

 助けを求める心の悲鳴が、頭の中でガンガンと響き渡り、渦を巻く。

──と、その時。

 玲熙にのし掛かっている化け物の向こうに、さらに黒々とした影が揺らめいた。

「おやおや……お前は相変わらず……」

 くすくすと楽しげな笑い声が響き、聞き覚えのあるその声に、玲熙は驚愕した。

 その存在に気づいた化け物が振り返るよりも速く、闇の中から白い腕が伸びる。

 死にもの狂いで暴れる化け物の喉輪を難無く掴みあげたまま、彼は闇の中からゆっくりと姿を現し、地面に倒れている玲熙を見下ろした。

「何度も助けてやったのに、お前は何も学ばないようだね……玲熙」

 その姿は暗い影で隠され、ほどんど黒い輪郭しか判らなかったが、優しげに囁く声で、玲熙は彼が何者なのかを悟った。

「──は、晴熙…兄さん」

 すると彼は身を屈めて、玲熙の傍らに跪き、片手で戒めていた化け物を引き寄せた。

「邪鬼に血を吸われれば、お前とて無事ではいられないだろう。
 大事な大事な聖なる巫子が、このような穢れたモノに成り下がったら、果たして要はどう思うだろうね?」

 くつくつと笑った晴熙は、空いている方の手で玲熙の頬を優しく撫でた。

 苦悶の形相で、邪鬼は己の喉を絞る手を振りほどこうと藻掻いていたが、どれほど爪を立てようとも、晴熙の手は鋼の枷のように動かない。

 侮蔑するようにそれを一瞥した晴熙は、己の腕にかかった邪鬼の手を掴むと、柔らかな粘土を捻るような無造作さで引き千切った。

 耳を塞ぎたくなるような絶叫は、晴熙の手が一瞬で握りつぶす。

 だが、それでもなお邪鬼は生きており、どす黒い血をまき散らしながら暴れ続けた。

 玲熙の上にも、邪鬼の血が雨のように降り注ぐ。

 そのおぞましさ、恐ろしさに身を凍らせ、痙攣するように震え始めた玲熙を恍惚とした眼差しで見つめ、晴熙はにたりと口の端をつり上げた。

「これは所詮奴隷でしかないが、忌々しい結界を崩す役には立つだろう」

 晴熙はむしり取った邪鬼の腕に口をつけ、その肉を引き裂いた。

 肉の不味さに一瞬顔をしかめるが、それを口に含んだまま、正気を失いかけている玲熙の唇を塞ぐ。

「──お食べ、玲熙。
 邪鬼の毒からお前を救えるかどうか、見ていてやろう」

 口移しで肉を食べさせ、さらに血を注ごうとする晴熙の目は、狂気を帯びた陶酔で爛々と輝き始めていた。

「……いや……いやあっ!」

 むせて吐き出そうとする玲熙の頬を、血まみれの手がつかみ、再び深く口づける。

 兄のどす黒い欲望に怯え、息を詰まらせた玲熙は、おぞましい毒気に満ちたその肉と血を飲みこんでしまっていた。

 その途端、臓腑が焼けつくように痛み始め、玲熙の身体が跳ね上がる。

「可哀想に……苦しいのなら、どれ、眠らせてやろうか」

 拒絶反応に苦しむ弟の姿を見つめ、かつて兄であった魔妖はくつくつと残酷に笑った。

 ビクビクと痙攣する玲熙の額に手を翳し、微かな魔力を送り込む。

 気を失った玲熙を見下ろした晴熙は、すでに逆らう気力を喪失している邪鬼を解放してやると、冷ややかな声で命じた。

「逃げるがいい──行って、存分にこの島を穢せ」

 その声に促されるように、邪鬼はよろめくように立ち上がる。

 恐るべき魔妖から這々の体で逃げようとする邪鬼の背中を眺めていた晴熙は、すいと手を上げて魔力を放った。

 それは一瞬で邪鬼の心臓を貫き、地面に打ち倒す。

 しかし邪鬼は再び立ち上がり、ふらふらになりながらも薮の中に消え失せていった。