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舞の贄



<48>



 地面に横たわった弟の顔を見下ろしていた晴熙は、背後に強い気が渦巻くのを察し、早々にその場から退こうとした。

 しかし空間そのものが凍りついたかのように動きを封じられ、身動きができない。

 かろうじて首をねじり、背後をうかがうと、少し離れた場所に雪の精かと見紛う白い鬼が立っていた。

「……榊の異形か──久しぶりだな」

 唇を歪め、晴熙が嘲りの言葉を投げかけると、白色無紋の浄衣をまとった白鬼は、滑るような足取りで近づいてきた。

「晴熙──なにゆえ、穢れた邪鬼をこの場に縛った?」

 その冷ややかな尋問に、晴熙は「何の事やら」と嘲笑った。

「邪鬼に襲われた可愛い弟を、わざわざ助けに来てやったのに、身に覚えの無い事で責められるとは心外だ。
 出遅れたのは、お前の方だろう、志熙?
 そもそも、あの程度の邪鬼を祓えないようでは、これから先が思いやられるな」

 ところが、その痛烈な皮肉にも激昂することなく、志熙は冷静な声音で淡々と告げた。

「一族の血を引きながら、魔妖と化した愚か者。
 お前ごとき、私が屠(ほふ)るまでもないが、聖地を穢すモノを祓うのが、今の私の役目であるからな」

 侮蔑というより、むしろ自嘲的にそう言った志熙を、晴熙は忌々しげに睨み付けた。

「聖地?──忌み地の間違いであろうが。
 お前のその姿こそが、呪われた血の証だろうに」

 晴熙の前に立った白衣の鬼は、優艶な微笑を浮かべ、すいと両手を差し伸べた。

「左様であろうとも。よく判っておるではないか」

 晴熙の頬を左右から包み込んだ志熙は、険しく歪んだその顔を引き寄せ、くすくすと笑いながら囁きかけた。

「けれど、聖なるものと崇めていた方が救われる……人の心というものはな。
 それゆえに、一族の真を暴くお前は死なねばならぬのだよ。
 一族の者たちが、心安らかに生き続けるために」

 そこだけぽつんと色づいた唇が艶めかしく動き、ひどく冷酷な言葉をつむぐ。

 蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のように、志熙の手から逃れることができなくなっていた晴熙は、美しき白鬼を睨みつけた。

 純白の髪が夜風に舞い上げられ、ふわりふわりと闇の中を漂う。

 夜の闇に白々と浮かぶその姿は、黄泉から現れた幽霊を思わせ、鬼形でなくとも人々に恐怖を感じさせるものだった。

「……そう言うお前も、異形として殺されかけた者の一人だろう」

 抗うように晴熙が語気を強めると、志熙はおかしげに赤い唇をつり上げた。

「死の間際で、私は己の本性を知った。
 ゆえに一族の者たちは、二度と私を殺めることなどできぬよ」

 晴熙の鋭い眼差しを穏やかに受け止めた志熙は、不意に謎めいた微笑を浮かべた。

「さて──最後に一つ訊ねる。
 お前は、主上の御首級(みしるし)の在処を知っておるか?」

 眉をひそめた晴熙の顔を見つめていた志熙は、頬に添えていた両手に力を込めた。

「……知らぬなら良い」

 微笑みと共にそう告げ、驚愕に歪んだ晴熙の首を、志熙は膂力でねじ切っていた。

 それは一瞬の出来事──断末魔の声は無く、血飛沫も上がらない。

 首切られた身体はどうと地面に倒れ、やがて力を失った身体からゆらゆらと黒い靄(もや)が立ち上り、夜闇の中に霧散した。

 残ったのはひとひらの人形(ひとかた)だけとなり、身を屈めてそれを拾い上げた志熙は、手の中で握りつぶし灰と化した。

 その後、地面に横たわる玲熙の傍に立った志熙は、邪鬼の血に穢された全身を見下ろし、深い嘆息をもらした。

「やれやれ……手間をかけさせる子だ」

 近くにはもぎ取られた邪鬼の片腕が落ちており、その傷口からはまだたらたらと血が滴り落ちている。

 点々と地面に垂れる血からは、耐え難い臭気と毒気が漂い、志熙は不快げに眉をひそめた。

 邪気を祓うために手を翳すと、その片腕は萎びたように縮み始め、最後には跡形も無く砕け散った。

 それでも辺りに飛び散った血糊(ちのり)から、おぞましい毒気が噴き出し、蠢いている。

 それは贄を求めるように触手を伸ばし、黒い靄と化して、玲熙の身体を包み込もうとしていた。

 失神していても蝕まれる苦痛を感じるのか、白い額に冷や汗が浮かび上がっている。

 地面にひざまずいた志熙は、鳩尾の上に掌をかかげ、口の中で短い呪言を唱えた。

 すると、淡く輝く光の粒子が集まり、滑らかな流線形の楔が生まれる。

 軽く掌を押し、志熙が楔を肉体に打ち込むと、玲熙の背が弓なりに反り返り、苦痛の悲鳴が迸った。

 やがて黒い靄が楔の中に吸い込まれてゆき、入れ替わるように現れた白い光の繭に全身が包み込まれると、玲熙の身体から力が抜ける。

 と、その時、木の根元で倒れていた融の身体がわずかに動き、突然、くすくすと楽しげに笑い始めた。

「──妾(わらわ)の手助けはいりませんでしたなぁ。
 どうなることやらと、心配しておりましたが。
 さすがは、四鬼帝がお一人、雪綺殿」

 むくりと上半身を起こした融は、大きな瞳をきらめかせながら、にっこりと微笑む。

 志熙はそれを一瞥すると、冷淡な声で言った。

「目覚めていたなら、お前が手を貸してやれば良かったのだ。
 主上の贄を穢されるのは、お前とて本意ではなかろう」

「主上であれば、さほどの穢れは気になさらぬ。
 そなたが恐れておるのは、この島の結界が崩れ、主上が目覚めてしまわれる事ではないのか?」

 媚態を含んだ眼差しで見つめ、融は四つん這いのまま志熙の足もとにすり寄った。

「玲熙は雪姫にそっくりじゃ……それゆえ、再び主上に奪われるのは辛いであろう。
 雪姫がどれほど苦しんだか、知っておるゆえ尚更な。
 誰よりも慈しんでおった姫を救えなかった──その事を、そなたは今だに悔いておるのかえ?」

 志熙はその問いには答えず、両腕に玲熙を抱いて立ち上がった。

「それだけ動けるのなら、私が運ぶまでも無いようだ。
 ついてくるがいい、綺羅(きら)。
 お前はともかく、融の身は清めておかねばならぬ」

 そう言い残し、すたすたと神社に向かって歩き始めた志熙に、綺羅と呼ばれた妖は融の口を使って叫んだ。

「妾が助けたおかげで、この子狐は傷一つ負わずに済んだのじゃぞ。
 礼の一つくらい言ったらどうじゃ!」

 しかしその言葉は完全に無視されてしまい、ぱっと立ち上がった綺羅は、腹立ちまぎれに地団駄を踏んだ。

 その拍子に本性が現れてしまい、三角形に尖った狐の耳と、九本に分かれた尻尾がふさりと飛び出す。

 振り返りざまにそれを目にした志熙は、嘆かわしげに溜息をついた。

「みっともないものはしまえ──人目に触れたら、笑われる」

「あなや、あさまし……なかなかこの器に慣れぬでなぁ」

 しなを作って「ほほほ」と笑った綺羅は、埃を払うような仕草で耳と尻尾を急いで隠すと、先を行く志熙を追って、しゃなりしゃなりと歩き始めた。




 静謐な禊場には相応しからぬ慌ただしい足音が響き、切迫した表情の要が姿を現すと、祓詞(はらえことば)を奏上し終えた志熙は、淡々とした声で彼を諫めた。

「──気を鎮めよ、要。
 玲熙の身に巣くう穢れを祓わねばならぬのに、お前がその様に猛っていては、落とせるものも落とせぬ」

「晴熙さんに襲われたと聞いたが……無事なのか?」

 清らかな湧水がこんこんと流れ落ちる泉盤の前に寝かせられた玲熙を見つめ、要はきつく眉根を寄せた。

 身体の四方に竹柱が立てられ、注連縄で囲われた結界の中で、血で汚れた玲熙がぴくりとも動かず横たわっている。

 その鳩尾には流線形の楔が打ち込まれており、呼吸をしていないようにも見えた。

「今のところ命に別状は無いが、邪鬼の肉を食らってしまった。
 放っておけば身の内から毒気に蝕まれ、死に至ることになる」

 一瞬、面食らったように双眸を瞠った要は、詰問する声に動揺を滲ませた。

「どうしてそんな事に?
 邪鬼が己の肉を、自ら玲熙さんに食わせたとでも言うのか?」

「晴熙の仕業だ──どうやら、神域の結界を内側から崩そうと図ったらしい。
 腹立たしい事だが、巫子である玲熙が蝕まれては、いずれ結界に歪みが生じよう」

 嘆息をもらした志熙は、要に向き直り、両手を突いて頭を下げた。

「すまない……私も油断していたのだ。
 アルラウドに気を取られて、足許にもう一匹潜んでいる事に気づけなかった」

 戸惑いに瞳を揺らした要は、板張りの床の上にあぐらをかいて座った。

「神社の神域に、好んで近づく邪鬼などいないはずだ。
 ここには、島のどこよりも強い結界が張り巡らせてある。
 半端な魔物が近づけば、結界に弾かれて消滅するだけ。
 だとすれば……晴熙さんがその邪鬼を縛り付けておいたのだろうな」

「おそらく、玲熙の務めを知った上での罠だったのだろう。
 邪鬼がこの島に入り込んだのも、晴熙が手引きしたとすれば納得がゆく」

 長い嘆息をもらした志熙は、軽く頭を振って立ち上がった。

「いずれにせよ、話は後だ。
 今は一刻も早く、玲熙から穢れを祓わねば……。
 だが、私が穢れを負うわけにもゆかぬゆえ、後はお前に頼む。
 私は今一度、結界を張り直さねば」

 同意して頷いた要は、もう一つの懸念を訊ねた。

「融も一緒だったらしいが、彼も無事なのか?」

「綺羅に助けられたようだ──どういう気まぐれでか、あれも目覚めたらしい」

 その答えに要は驚愕し、思わず聞き返していた。

「……綺羅姫が?」

 志熙は頷き、簡潔に事情を説明した。

「幸い、融の方は邪鬼の血を浴びていなかった。
 一通りの禊をさせて、先に家に帰しておいたよ。
 おそらく、明朝目覚めた時は、邪鬼に襲われた事以外、何も覚えておらぬだろう。
 ──口止めをしておいた方が良かったか?」

「いや……玲熙さんが関わっている以上、無闇に吹聴する事はないだろう。
 君はまだよく知らないだろうが、融はなかなか聡い子だ。
 彼なりに、玲熙さんの事を思いやってくれている」

 要がそう答えると、志熙は満足したように微笑み、禊場の戸口へと向かった。

 その時不意に、要はわずかにやつれた志熙の美貌に気づき、心配になって問うた。

「君は大丈夫なのか、志熙?
 随分、疲れているように見えるが……」

 驚いたように振り返った志熙は、妖艶な微笑を浮かべ、軽く片手を上げて応じた。

「断食には慣れておるよ──さすがに今日は慌ただしくて、目が回りそうだがな。
 ともあれ、動けぬほどではない。
 むしろ私より、お前の方が心配なくらいだ。
 己の恋情をしっかり戒めておかねば、祓いどころではなくなるぞ」

 最後に皮肉げな眼差しを要に投げかけた志熙は、静かな足取りで禊場から出て行った。