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舞の贄



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 自分自身の禊(みそぎ)を終えた要は、麻の白衣に着替えて禊場に戻った。

 すでに禊の準備が万全に整えられた部屋は、他に人の気配も無く、しんと静まりかえっている。

 祭壇には、穢れを祓うために使う麻の衣、麻苧(あさお)の束、麻縄、麻布などが供えられ、その横には檜の神木をくり抜いて作られた湯舟が置かれていた。

 湯舟の外側には、麻の注連縄が巻かれ、内は清めの塩湯で満たされている。

 古来より、麻は罪や穢れを祓う神聖な植物であると考えられ、穢れを移す祓具として利用されており、塩もまた穢れを祓い清める力を持つ。

 神事で使われているこれらの麻や塩、さらに絹などは、全て沖月島に住む人々が丹誠を込めて作り上げ、供物として鬼恊X神社に捧げられていた。

 祭壇の前で、禊祓祝詞(みそぎはらいのりと)を奏上した要は、檜の湯桶に湯舟から塩湯を汲み上げ、さらに別の大きな盥(たらい)に移していった。

 淡々と作業を進めていた要は、死んだように横たわる玲熙に視線を向けた。

 玲熙を囲う結界の外側は、禊に使った湯がそのまま排水溝に流れ落ちるように、四方の床板が取り外されている。

 清涼な神気に満たされた禊場の中で、切り離された結界の中だけが暗く濁り、澱んでいるように見えた。

 志熙が作り上げた結界で封じ込められているが、邪鬼の血の毒気から生じた瘴気が立ちこめているのだろう。

 禊場を清浄に保つために、この禊が終わった後は、玲熙が横たわっている床や、邪鬼の血が付着した全ての物が処分されることになる。

 祭壇に拝礼して麻苧の束を取り上げた要は、盥の中にそれを浸し、麻で編まれた円座を玲熙の横に置いた。

 塩湯を汲んだ湯桶を持って円座にひざまずき、邪鬼の血が付着した顔や髪、首、手などに注ぎかけていく。

 それを二度、三度と繰り返すと、赤黒く濁った塩湯が床から溝へ流れ落ちた。

 要は盥の中から麻苧の束を取り上げると、固まって肌にこびり付いている血糊を丁寧に拭い始めた。

 細い繊維にほぐされる前の麻束である麻苧は固く、滑らかな肌を傷つけてしまいそうであったが、玲熙に付いた穢れを清めてくれるものであり、生命力の象徴でもある。

 そのため、皮膚の負担がかからないよう、できるだけ優しく拭き清めていくしかないのだが、目元を拭った時、玲熙の瞼が震えた。

 できることなら、直にその肌に触れて、玲熙の穢れを清めてしまいたい──。

 ふっと沸き上がった己の欲求を抑え込み、要は血を吸った麻苧を捨てると、湯桶を傾けて穢れを洗い流した。

 その後、要は自分の手を一度清め、盥に新たな塩湯を移すために立ち上がった。

 地道な往復で盥に塩湯を満たすと、祭壇に供えられていた麻の着物と麻縄を持って、元の座に戻る。

 塩湯を何度も浴びせられ、玲熙が着ている服はぐっしょりと濡れていた。

 深い呼吸をして気を落ち着けた後、要は腕を伸ばし、玲熙の着衣を脱がせていった。

 気を失っていなければ、これから行われる行為は、玲熙にとって凄まじい苦行だろう。

 今だかつて、これほど過酷な禊を受けた事は無いはずであった。

 殺人現場に居合わせ、被害者の血を浴びた時すら、ここまで徹底的な禊を強いた事は一度も無い。

 邪鬼の肉を口にさえしていなければ──玲熙の本意では無かったとしても──このような拷問にも似た責め苦を受ける必要など無かったのだ。

 命を守り、身の内の穢れを清めるためとはいえ、正気に戻った時、どれほど玲熙は苦悩するだろう。

 そして、この禊を行った要を、忌避するようになるのは間違い無かった。

 玲熙がまとう全ての着衣を脱がせた要は、それを先ほどの麻苧と共に処分し、裸体の上に塩湯を振りかけた。

 巫子の裸体は、本来人目に触れてはならぬものであったが、守護者であり後見役である要は別格とされ、幼い頃から何度も禊を手伝ってきた。

 だが、成長と共に、異形である己を自覚し、恥じるようになった玲熙は、要にさえその肌を見せなくなった。

 そのため、久しぶりに目の当たりにする玲熙の裸体は、眩いほどに白く、美しく見える。

 伸びやかに育った白い身体は、少年のしなやかさと少女の優雅さを併せ持ち、繊細ではあったが、舞を舞うために必要な筋肉が備わり、綺麗に引き締まっていた。

 半陰陽の巫子──生まれながらに男性と女性を併せ持つがゆえに、玲熙は一族の中では誰よりも神聖であると崇められ、神の贄に選ばれた。

 しかし、選ばれたがゆえに、誰よりも孤独な道を歩むことを強いられる。

 一族が崇める神に、一生仕え、その身を捧げるために──。

 塩湯に濡れ、絖(ぬめ)のように淡く輝く裸体を抱き起こした要は、真新しい麻の単衣を慎重に着せていった。

 ぐったりともたれかかってくる身体を支えながら、着物の袖を通し、襟や裾を合わせ、帯を締める。

 志熙が鳩尾に打ち込んだ楔は、霊力で作り上げられているためなのか、衣服を脱がせる時も着物を着せる時も妨げにならず、かといって消え失せることもなかった。

 この楔が消滅するのは、玲熙を蝕む毒気が全て抜けきった時だと、志熙が伝言を残している。

 そのため、この楔が残っている限り、禊を終わらせることはできないのだった。

 頭の中に沸き上がる雑念を払い、心の平静を保ちながら、要は玲熙の手首に麻縄を巻いた。

 その麻縄の反対側の端を、天井の太い梁の上に通し、力を込めて引き下ろす。

 ギシギシと麻縄が軋みを上げていたが、何度か手繰り寄せると、玲熙の身体がゆっくりと持ち上がり、梁から吊り下がる形となった。

 柱に麻縄を巻き付けて固定した要は、がくりと頭を垂れた玲熙の頭上から塩湯を浴びせてゆく。

 髪や裾からはぽたぽたと雫が落ち、その姿はあたかも水責めを科される罪人のようにも見えた。

 仕方がないと己に言い聞かせつつ溜息をついていた要は、麻衣の下に透けた裸体に気づき、心臓の鼓動が速まるのを感じた。

 乾いていた麻の衣は水を吸い、玲熙の肌にぴったりと貼り付いている。

 形の良い臀部や力を失って乱れた大腿に、麻の布地が吸い付き、ひどく危うげで艶めかしく見えた。

 だが、本当に苦しいのは、まさにここからだった。

 身体の外側は清めたが、問題なのは身体の中にあるモノの方なのだ。

 湯桶に塩湯を満たした要は、非情に徹し、玲熙の顎を片手で持ち上げた。

 指先で顎の噛み合わせを緩め、薄く口を開かせる。

「──玲熙さん、さあ、ゆっくり飲んでください」

 少しずつ、少しずつ、玲熙の口に塩湯を注ぎこんでゆくと、ごくりと喉が鳴り、嚥下する。

 少しでも量が多いと反射的にむせてしまうため、要は細心の注意を払って、清めの塩湯を玲熙に飲ませていった。

 最低でも2リットル──そう思った時、玲熙が苦しげに咳き込み始めた。

 ぜいぜいと喘ぐ顔が青ざめ、瞼が小刻みに震える。

 湯桶を床に下ろし、いたわるように細い背中をさすっていた要は、玲熙の瞼がうっすらと開かれた瞬間、激しい動揺を感じていた。

 目覚めてしまえば、お互いの苦悩が深まる。

 だから、最後まで目覚めないでいて欲しい──責め苦を与えたのが守護者の要であると、後から知る事になっても。

 だが、そんな祈りも虚しく、玲熙は朦朧とした瞳を要に向け、掠れた小声で名前を呼んだのだった。



「玲熙さん……あなたをお守りするためです。
 お辛いでしょうが、どうか辛抱なさってください」

 なだめるように囁きかけた要は、玲熙の口許に再度塩湯を運んだ。

 しかし意識が定まっていない玲熙は、涙の溜まった目を瞬き、嫌々をするように首を横に振る。

 よろめいた足を踏みしめた時、両手を戒める麻縄がギシリと鳴り、玲熙は驚いたように顔を上げた。

「……かな…め──どう…して……?」

「あなたは、邪鬼の肉を食べてしまったのです。
 吐き出して、身の内を清めなければ、あなたの命が失われます」

 憐憫に揺れる心を殺し、淡々とした事務的な声音でそう告げた要は、驚愕に目を瞠る玲熙に塩湯を飲むよう促した。

「……邪鬼?」

 意識がはっきりしてきた途端、玲熙はおぞましい光景を思い出した。

 えづくように腹の奥がぐうと鳴り、要に促されるまま、玲熙は塩湯を飲み干した。

 ところがすぐに猛烈な吐き気に襲われ、眦から涙が溢れ出す。

「──全部吐いてしまいなさい。それで楽になる」

 身体をつり上げていた麻縄をゆるめた要は、歯を噛みしめて床にうずくまっている玲熙の背中をさすった。

 玲熙は抗うように頭を振っていたが、目の前に手桶を置かれると、耐えきれなくなって嘔吐した。

 何度も吐き、胃の中が空になったかと思われた時、強い悪寒に身体が震えた。

 喉をせり上がってきたものをそのまま吐き出すと、どろりとした黒いヘドロのようなものが飛び散る。

 あまりの苦しさに涙が流れ、玲熙が激しく咳き込んでいると、泉盤から清水を汲んだ要がグラスを差し出した。

 両手を拘束されたままだったが、玲熙はグラスを受け取り、ゴクゴクと清水を飲み干す。

 それはまるで甘露のように美味しく感じられたが、続けざまに吐き気が起こり、再び吐いてしまっていた。

 力尽きたように玲熙が倒れ込むと、要は湯桶の中を排水溝に空け、新しい別の湯桶に塩湯を汲んで戻った。

「……まだ吐きそうですか?」

 要の問いに、玲熙はわずかに首を横に振って応じた。

 嘔吐感は治まっていたが、身体の中がどうしようもなく苦しく、気持ち悪い。

 ふと鳩尾に目をやった時、流線形の楔が身体に突き立っていることに気づき、玲熙は愕然とした。

「……な、何、これ?」

「志熙が施した封印です。
 邪鬼の毒が身体に回らないようにするための。
 どうやら……まだ完全には毒が抜けていないようですね」

 嘆息をもらし、要が塩湯が湛えられた湯舟を見やると、玲熙は怯えて身を震わせた。

「また、あれを飲まなきゃだめなの?
 苦しくて、これ以上は吐けないよ」

 醜態をさらす恥辱より、今は無理に引き起こされた嘔吐の苦痛に打ちのめされてしまい、玲熙は許しを請うように訴えた。

 要は何事かを思案しているようだったが、ひどく硬い眼差しを玲熙に注いだ。

「判りました──とりあえず、口をすすいでください」

 こくりと頷いた玲熙は、しっかりと麻縄で縛られた両手首を差し出した。

「それはまだ解けません」

 要はそう素っ気なく拒絶し、驚く玲熙に頭を振って見せる。

「何故?」と訊ねたかったが、要が視線を逸らしたためにタイミングを逃し、玲熙は仕方なく縛られたまま両手に塩湯をすくった。