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魔術師の聖夜


<10>



 翌朝、私は猛烈な空腹感で目覚めた。

 完全回復とまではいかないが、それでも身体は動かせるし、熱も下がったようである。

 桜王子学園の制服を身につけ、私は朝食をとるためにダイニングルームへと向かった。

「おはようございます、アキラさん。
 体調は大丈夫ですか?
 香野先生が、今日も安静にと言って帰られましたが……」

 制服姿の私を見つめ、レニング氏が少し驚いたような口調で挨拶をしてきた。

「大丈夫です、もう熱も下がったみたいだし。
 きっと、昨日、レニングさんが作ってくれたハーブティーが効いたんですよ」

 正直なところ、香野医師の座薬が効いたのだとは思いたくなかった。

 精一杯、明るく朗らかに笑う私を見返し、レニング氏は穏和に微笑んだ。

「あのハーブティーを処方されたのは、ロキ様ですよ。
 わたしはレシピ通りに作っただけですからね」

 今日の朝食は、私の体調を気遣ってか、中華の薬膳粥だった。

 もう少しエネルギーになるものが欲しいと思っていると、大好きな甘い卵焼きと、コーンスープが出てくる。

 呆れられるほどの速さで朝食を片づけた私は、最後にミルクをたっぷり入れたカフェオレをレニング氏に頼んだ。

 お腹が一杯になり、カフェオレを飲みながら安堵のため息をついた私は、露樹の朝食を用意しはじめたレニング氏に声を掛けた。

「──あの〜、レニングさん。
 もう、風邪も治っちゃったみたいなので、今日の往診は断ってもらえませんか?
 お薬も貰ってるから、大丈夫だと思うんですよね」

「それは構いませんが、もう一度診察してもらった方が安心ではないですか?」

 何も知らないレニング氏の言葉に、私はぶんぶんと大きく頭を振りながら「いいえ、大丈夫です」と告げた。

「露樹のハーブティーと、お薬を毎日飲んでいれば、すぐに治っちゃいますよ。
 『医者いらず』だって、露樹も言っていたし。
 お忙しそうな先生だし、わざわざ元気になった患者のところに往診に来させるなんて、申し訳ないですよね」

 私の言葉を聞き、レニング氏は少し考え込んだ。

「確かに、あの香野先生は聖堂総合病院の副院長みたいですからねえ。
 往診もしてくれると電話帳に書いてあったので、電話を掛けてみたのですが、まさか副院長がやってくるとは思いもしませんでしたし」

「──副院長!?」

 レニング氏の説明に、私は思わず声を上げていた。

「ええ、名刺にそう書かれてありましたよ」

 レニング氏は、香野医師から受け取った名刺を、私に見せてくれた。

 聖堂総合病院・副院長──香野聖明(コウノ マサアキ) 

 レニング氏によれば、聖堂総合病院の院長の名前は、香野忠良(コウノ タダヨシ)というらしい。
 つまり、昨日往診に来た若い医師は、院長の息子か血縁なのだろう。

 そうでもなければ、いくら優秀な医師であっても、あの若さで大病院の副院長になるのは難しいことに違いない。

 名刺に視線を落とした私は、そこにも地球儀と十字架、そして蛇が組み合わさったマークが描かれていることに気づいた。

 香野医師が来る少し前に、恐ろしい蛇を見たばかりであったから、それが神聖な医師の象徴であるにしても、何故か禍々しいものに思えてしまう。

 キリスト教では、蛇は忌まわしいものだと考えられていたはずだ。

 最初の女であるイブを誘惑し、堕落させ、エデンの園から人間が追放される原因を作ったサタンの化身──。

 もっとも、神聖な十字架と、悪の象徴である蛇をミックスしてしまったところが、非常に日本的なのかもしれないが。

 カフェオレの入ったカップをテーブルに置いた私は、ふと、露樹が異常なほど蛇を恐れていた事を思い出した。

 だが、あの蛇はベリアルの眷属──つまり<悪魔>の使者で、どうせ良からぬ事を伝えてきたのだろうから、恐れるのは当たり前なのかもしれない。

 そう言えば、ベリアルが言っていた『あれ』とは、結局、何者だったのだろう。

 非常に気にはなるのだが、さすがにもう一度聞きに行く勇気は無かった。

 つらつらと考えを巡らせていると、ダイニングルームのドアが静かに開き、ふわりと優雅な香りが流れ込んできた。

 その芳香に引き寄せられるように私が顔を上げると、気怠げな表情でテーブルに近づいてくる露樹の姿が見えた。

 深いロイヤルブルーの化粧着を纏った露樹は、私の顔を見下ろすと、わずかに美しい柳眉をひそめて首を傾げた。

「──晃、おまえ、学校に行くのか?」

「え? え、ええ……もう全然元気でぴんぴんしてますから!」

 世にも麗しき我が保護者の妖艶な寝起き姿にどぎまぎしながら、私は馬鹿馬鹿しいほどの空元気を出してそう言った。

「昨日まであんなに熱があったんだから、もう1日ぐらい休んで、ゆっくり寝ていた方がいいと思うんだがな」

 昨日は「さっさと治せ」と言っていたくせに、私が本当に元気になると心配しはじめる。

 露樹の心境はよく判らなかったが、心配してもらえるだけありがたいのかもしれない。

 不意に、露樹が白い手を伸ばし、私の額に当てるように触れた。

 ひんやりとした手の感触は相変わらず心地よく、私は思わずうっとりと目を閉じそうになってしまった。

「……熱は下がったみたいだが──アルバート、医者は何と言っていた?」

 銀製のティーポットを持って現れたレニング氏を振り返り、露樹が訊ねた。

「今日は1日は安静にしているようにと。
 また往診に来て下さると仰られていたのですが、アキラさんが大丈夫だと言われて。
 今日の往診はどういたしましょうか、ロキ様」

 この「茨の館」の決定権は、全て露樹が握っていると言ってもいい。

 露樹が「往診に来てもらえ」と言えば、レニング氏はあの香野医師にまた往診を頼んでしまうだろう。

 いっそ、全ての真実を話してしまおうかと私が迷っていると、露樹がその類い稀な絶世の美貌を近づけ、私の顔を覗き込んできた。

「安静にはしていた方がいいが、往診まではいらないだろう。
 熱も下がっているようだし……。
 ただ、学校はもう1日ぐらい休んだ方がいいぞ、晃」

 何とありがたいお言葉!

 しかし極上の美を有する露樹の顔を見ていられなくなり、私は顔をわずかに赤らめながら視線を落とした。

 深青のドレープが重なった襟元からアラバスターのように白い肌が見えていたが、幸か不幸か、私は薄い影になった白い胸元に、赤い刻印が散らばっているのを見つけてしまったのである。

 淫靡な花びらのようにさえ見える所有の刻印──あのベリアルが露樹の肌に残した口づけの痕は、ひどく生々しく淫猥なものに感じられた。

 かっと顔に血が上った時、露樹が怪訝そうに美貌をしかめた。

「おい、晃──また、熱が上がってきたんじゃないのか?」

「だ、大丈夫ですよ! あ、もう行かなきゃ……電車に乗り遅れて、遅刻しちゃう!」

 露樹の手を振りほどくように立ち上がった私は、制止の声を聞くよりも早く「ごちそうさま」と叫び、ダイニングルームを飛び出していた。

 自室に戻って通学鞄を取り上げた私は、ほとんど逃げ出すような足どりで玄関ホールを抜け、前庭を突っ切って屋敷の門を出た。

 駅へと向かう通学路を歩き出した私は、しばらくするとやっと荒立っていた呼吸を落ち着かせることができた。

 往診さえ無ければ休んでいても問題ないが、いつ露樹の気分が変わるとも限らない。

 それに、昨日の出来事を思い出しながら、露樹の傍にいるというのは非常に苦しかった。

 露樹が感じる快楽の一端を知ってしまった私は、きっと今までよりも一層過敏な反応を示してしまうだろう。

 露樹に対する私の汚れた欲望を知られるぐらいなら、少しでも離れている方が安全かもしれない。

 それに、頼まれもしないのに、香野先生がまた訪れる可能性だってあるのだ。

 またあのような無体な真似をされたら……一体、私はどうなってしまうのだろう。

 正直、それが恐ろしくて、私は二度とあのハンサムな医師に会いたくなかった。