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魔術師の聖夜


<5>



 宝飾のようにさえ見える青い大蛇を腕に絡ませたベリアルは、その時、どこの言葉とも知れない不可思議な言葉を呟いた。

 その謎めいた言葉が響くと、大人しくしていた青蛇が突如として苦悶しはじめ、ベリアルに絡みついたまま長い身体をのたうたせた。

 その気味の悪い舞踏を見てしまい、私は背中にぞおっと寒気を感じ、身体中が総毛だった。

 露樹もまた驚愕したのか、さらに一歩後ずさり、私のベッドの縁に腰を落とす。

 くねくねと動く青蛇の胴体をつかんでいたベリアルは、憎らしいほどに表情を崩さず、邪悪な冷笑を唇に刻んでいた。

 その端整な唇が、また一つ単語を刻む。

 その瞬間、身悶えていた大蛇の一部が、まるで風船のようにみるみるうちに膨張しはじめた。

 内部が妖光を孕んだように輝き始め、掌に収まるほどの大きさの球状物が、胴体から頭部の方へと移動してゆく。

 大きな卵を丸呑みする蛇を見たことがあるだろうか?

 そのシーンを巻き戻した映像が、ちょうどこの時の光景に似ていた。

 サファイアブルーの鱗が逆立ち、ミシミシと軋むような音を立てながら、青蛇は不気味な球体を吐き出そうとしている。

 恐怖とおぞましさに猛烈な吐き気を感じ、硬直していた私は必死で口を押さえていた。

 先ほど露樹に呑まされた苦いハーブティーが、喉の奥からせり上がってくるような気さえする。

 これ以上見ていられないと思った瞬間、大蛇は毒液の滴る口から鈍い銀色に輝く球体を吐き戻していた。

 その球体はベリアルの片手に落ちると、禍々しい七色の輝きに満たされた。

 油膜が張ったようなその物体を吐き出した青蛇は、力尽きたように動かなくなり、私はそこでようやく安堵のため息をついた。

「……ベリアル──それは一体…何だ?」

 傲岸不遜に見えるほど堂々としている露樹が、いつもの余裕を失い、青ざめた唇を震わせながら問いかける。

 ベリアルはしばらく掌の中に収まった円球を見下ろしていたが、露樹にエメラルドの視線を向けると、憐れむように淡い微笑を浮かべた。

「私に宛てた私信だ──あれは洒落たつもりのようだがな」

 そう答えたベリアルの掌から、突然黒々とした黒煙が立ち上り、鈍銀色の珠球はあっという間に消えてしまった。

 何が起こったのか判らずに呆気にとられている私とは異なり、露樹はすぐにいつもの鋭敏かつ明晰な頭脳を働かせたようだった。

「洒落だと? 悪趣味にもほどがある。
 ──その蛇は、おまえの眷属からの使者ということなのか?」

 問い返した露樹にうなずいて見せたベリアルは、蛇を腕に絡めたまま窓辺に近づいた。

 テラスに面した高いフランス窓を開けたベリアルは、ずるりと身をくねらせた蛇の喉元を撫で上げると、その腕を空に向けて差し伸べた。

 その姿は、あたかも神話の男神が降臨したかのように神々しく見え、その幻想的な完成された美しさに私は思わず見惚れてしまった。

 ベリアルの唇が何事かを囁くと、大蛇の身体から再び黒煙が上がり、やがてもう一度その姿が変化を起こす。

 美しいサファイアブルーの鳥に変じた蛇は、銀色のすじが入った大きな翼を一度はためかせると、晴れ渡った冬空に向かって舞い上がった。

 優雅に空に飛び立った鳥は、茨の館の上空を一度旋回すると、そのままどこかへと飛んでいってしまった。

 薔薇の花束から蛇へ、蛇から鳥へ──。

 ベリアルの事を何も知らなければ、この異様な出来事は、何かトリックのある見事な出来映えのマジックだと思えてしまっただろう。

 だが、種も仕掛けも無い変身を見てしまっても、私の神経は鈍麻してしまっていたのか、パニックには陥らず、しばらく茫然自失の状態になっていた。

「……あの使者は──何と言ってきた?」

 ベリアルが窓辺から戻ってくると、露樹が厳しい口調でそう問うた。

「おまえに会いたいと言ってきている。
 何事か私に手伝わせたいようだが、まずはおまえの機嫌を取っておこうと考えているのだろう」

「私の機嫌を取る方法が──毒蛇を潜ませる事なのか?」

 露樹の声がひときわ冷たくなり、その漆黒の瞳が燃え立つような怒りを宿した。

 ベリアルは唇の端を小さくつり上げると、瞬きも忘れて2人を見つめていた私に冷酷極まりない一瞥をくれた。

「もしおまえに毒が回ったなら、当然私が動くことをあれは知っている。
 だが、その前におまえを制するということも判っていたのだ。
 どちらにしても、あれにとっては些細な事でしかない。
 私の興味を引けるだけで十分だったのだからな」

「──それで、おまえは何と答えたんだ?」

 露樹の機嫌がこの上ないほど悪くなったことに私は気づいたが、ベリアルはとりたてて気にした風もなく、一度だけ優雅に首を傾げた。

「特に何も告げはしなかったが、こちらの意思に関係なく、あれは現れるだろう。
 拒絶しても現れるのなら、相手の出方を待った方が無駄がない。
 どれほど遅くなろうと、今年中には顔を見せるはずだ」

 淡々としたベリアルの言葉を聞くうちに、怒りのボルテージが頂点に達したのか、露樹は勢いよくベッドから立ち上がっていた。

「どうして私が、そんなやつと顔を合わせなければならないんだ?
 おまえの思惑も、相手の目的も、私には何も関係無いはずだろう。
 勝手に押しかけて来ても、私は絶対に会わないからな!」

 きつく叱責するような声音で言い放ち、露樹はベリアルの傍を通り過ぎて、私の部屋から出ていこうとした。

 すっかり忘れ去られているようだが、あくまでここは私の部屋である。

 喧嘩するなら他でやってほしいものだと、そんな思いが頭を過ぎった時、ベリアルの腕がすり抜けようとした露樹の細いウェストを捕らえた。

「関係はある──おまえは私の主であるゆえな。
 おまえが承諾しなければ、あれは私を動かすことなどできぬ。
 そして私は、最愛なる者を守らなければならない。
 誰であろうと、私の赦しなくおまえに触れる事など絶対に赦さぬ」

 感情の漣さえ感じられない、極めて冷淡な声。

 しかし非情な声音を裏切るように、ベリアルの双眸は情熱的でさえあり、食い入るように露樹を見つめていた。

 ベリアルの禍々しいエメラルドの双眸が不意に暗く光り、それを見返していた露樹の喉が怯えるように小さくこくりと鳴った。

 大きく見開かれた黒曜石の瞳を縁取る長い睫毛が、微かに震えているような気がする。

 押し返そうとする手首を掴まれ、片腕で巻き込まれるように身体を捕らえられている露樹の姿は、どこか神に捧げられた哀れな生贄のように見えた。

 露樹とベリアルの間にある複雑な絆を見せつけられたような気がして、私はいたたまれなくなってしまった。

「ベリアル……『あれ』とは何者だ?
 何故、私に……おまえに会いたがっている?」

 戦慄くように震える唇からその問いがこぼれ落ちると、ベリアルは捕らえていた露樹の手の甲を引き寄せて接吻し、美しくしなやかな身体を解放した。

「その名を知りたいか、ロキ?
 知れば恐れ、不安になるだけであろうに」

 問い返したベリアルは、どこか人の不安を煽るような、凶兆めいた微笑を唇に湛えた。

 恐ろしいほどに美しい、凍える悪魔の微笑。

 決して開けてはならないパンドラの箱を、開いてみろとそそのかすように、ベリアルの微笑は誘惑的で謎めき、どこまでも妖麗だった。