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今夜、あなたの猫になる



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 金曜日、雨上がりの蒸し暑い夕刻。

 地下鉄の乗降ドアが開いた途端、帰宅を急ぐサラリーマンやOLが、怒濤のようになだれ込んできた。

 信号トラブルで遅延していた地下鉄には、普段以上の乗客が後続車に押し寄せ、朝の通勤ラッシュを思わせる惨状に陥っている。

 ラッシュアワーの狂騒に巻き込まれた秋永大貴(あきなが だいき)は、垂れ落ちそうな鼻水を慌ててすすり上げた。

(……ああ、もう。まいったな)

 赤くなった鼻をズビズビ鳴らしながら、大貴は溜息をつき、痒みを発する目元を擦った。

 顔を上げると、黒く沈んだ窓ガラスに自分の顔が映っていた。

 目を擦っていた手をそのまま頭に伸ばし、寝癖の取れないパサついた茶髪を整える。

 束の間でもアレルギー症状を忘れようと、大貴は窓ガラスに映った容姿に集中した。

 最近は屋内プールでばかり泳いでいるためか、日焼けして真っ黒だった肌は、健康的な小麦色に落ち着いている。

 高校時代より筋肉量が落ち、体脂肪率が上がっているせいで、以前よりも頬のラインが滑らかになっていた。

 だが、高校時代から「イケメン」ともてはやされ、自分でもそれなりに整っていると思っていた顔は、瞼と鼻が赤くなっているせいか、情けないほどブサイクに見える。

 友達から「猫目」とからかわれていた、大きなアーモンド型の両目は、瞼が腫れているせいで形が崩れ、ぼってりとした一重瞼に見えた。

 襟元がよれたTシャツに、履き古したジーンズ。

 どう見ても、かつての「イケメン」はそこにいない。

 寝起きのまま飛び出してきた、貧乏大学生二十一歳──それが大貴の現状だった。

(ああ……もう、たまんねぇ)

 降り続いていた雨が止んだばかりで、車内の湿度は息苦しいほど高い。

 さらには、汗や香水の匂いが入り混ざり、不快指数が急上昇していた。

 嗅覚はほとんど麻痺していたが、濃厚な女性用香水が大貴の鼻腔を刺激した。

 生理的な拒否が湧き上がるのと同時に、鼻粘膜が急にムズムズし始める。

(くそ……マスクしてくりゃ良かった)

 必死にくしゃみを堪えた大貴は、甘ったるい香りから少しでも逃れようと、密集した人の間を少しずつ移動した。

 周囲の乗客が迷惑そうな顔で睨んでいるが、座っている人たちの頭上で盛大なくしゃみを連発するよりはマシだろう。

 心の中で言い訳しながら、大貴は乗降ドアの近くにたどり着いた。


 ムズムズ感が治まり、ほっとした大貴は、思いっきり鼻に皺を寄せて顔をしかめた。

 体温が上がっているのか、瞼はさらに腫れぼったくなっている。

 ふと視線を感じ、大貴は何も考えずに顔を上げた。

 その瞬間、ドアと座席の角スペースに立っているスーツ姿の男と目が合い、大貴はそのままぽかんと放心してしまった。

 男の大貴でも見惚れずにはいられないほど、その男は群を抜く美形だった。

 地下鉄のドアよりも背が高く、仕立ての良いグレーのスーツを嫌味なほどスマートに着こなした姿は、満員の帰宅ラッシュに疲れた人々の中で異彩を放っている。

 狭く、暑苦しい不愉快な空間のただ中で、彼一人がひんやりとした別世界に佇んでいるようにさえ見えた。

 ガタンと車両が揺れた途端、はっと我に返った大貴は、自分の間抜け面を思い出して、慌てて顔を伏せていた。

(……お、俺は断じてゲイじゃないぞ)

 バイト先はアレだが、自分は間違いなくストレートなのだ。

 女性不信で、今やアレルギー気味だが、やっぱり自分は女の子が好き──なはずだ。

 一瞬でも夢見心地になっていた自分を心の中で叱りつけ、大貴は垂れ落ちそうな鼻水をすすり上げた。

 と、その時──。

 大貴の真後ろに密着していた誰かの吐息が、ふっと首筋にかかった。

 その生温かい感触にぞっとして、全身に鳥肌が立つ。

 気持ち悪くて逃げ出したかったが、過密状態の地下鉄車内では、思うように身動きが取れない。

 ところがそのうち、臀部にも違和感が走った。

 何者かの手が、ジーンズに包まれた尻を撫で回しているような気がする。

(──痴漢? 俺を女と間違えてんのか?)

 確かに女顔だと言われることはあるが、いくら何でも女性に間違えられた事はない。

 身長は175センチあるし、小学生の頃からずっと水泳をやっているため、肩幅や胸板もそこそこにあるのだ。

 自慢ではないが、腹筋だって割れている。

 最初は気のせいかと思ったが、尻の肉を揉むように動く手を感じた途端、大貴は本気でぎょっとした。

 慌てて身じろぐと、その手が離れる。

 だが、ほっとしたのも束の間、股間に手が差し込まれ、前方の膨らみに触れられた。

 手の主は、完全に大貴を男だと認識しているのか、卑猥な手つきで形を確かめるように蠢かしている。

(……くそっ……何しやがんだ……)

 無遠慮にペニスを刺激される恥ずかしさに、顔が急激に紅潮した。

 痴漢に襲われるのは女性だけだと思っていたが、まさか男の自分が被害に遭うとは想像もしていなかった。

 どうにか痴漢行為を止めさせたいが、男の自分が満員電車内で大声を上げるのもみっともない気がする。

 そうかと言って、このまま何もせず、我慢し続ければ、痴漢を調子づかせるだけだろう。

(──とっつかまえて、警察に突き出すか?)

 困惑しながら大貴がふと顔を上げると、またあの美形と目が合ってしまった。

 男の怜悧な双眸は、鼻水を垂らしながら激しく顔色を変える大貴の顔を、興味深そうに眺めているようだった。

 二人の視線が絡まった時、固く引き結ばれていた男の端整な唇が、薄く微笑を刻む。

 心が和む笑顔ではなかった。

 男のくせに痴漢のターゲットになってしまった大貴を、冷たく嘲笑っているような──。

(ちっくしょ……いい加減にしやがれ。どうせ男を狙うんだったら、あいつにしろよ)

 反感と屈辱を感じた大貴は、心の中で痴漢を罵ると、素早く背後に手を回そうとした。

「きゃあぁ! ちょっと、誰よっ! 今、あたしのお尻触ったの!」

 ところが突然、傍にいた女子高生が甲高い悲鳴を上げ、車内がにわかに騒然となった。

(──やばい!)

 すし詰め状態の車内で、大貴の手は肝心の痴漢には届かず、女子高生に当たってしまったらしい。

 慌てて手を引っ込めた大貴は、その時、治まっていた鼻のムズムズ感がぶり返してきたのを感じ、思わず青ざめてしまった。

(……し、しまった!)

 焦った大貴は、鼻水の飛散を抑えようと、顔を両手で覆った。

 意識しなければ十分にやり過ごせるはずだった。

 だが、女子高生の悲鳴と、手の甲に残る柔らかい感触が、アレルギーの引き金になったらしい。

 くしゃみが弾けるまさにその時、カーブに入ったのか、地下鉄が大きく揺れた。

 女子高生の訴えにざわめいていた乗客も、体勢を崩して大貴の背中に押し寄せてくる。

「──うわわっ!」

 よろめいた大貴はそのまま押し流され、前にいた人に正面からぶつかった。

 顔から離れた両手が、スーツの胸元を反射的に押し返した途端、大貴の躰を包み込むように腰に手が回された。

 一気に躰が移動し、それに驚く間も無く、次の瞬間、大貴のくしゃみが破裂した。

 詰まっていた鼻がすっと通り、大きく息を吸い込んだ途端、ほろ苦い、甘さを抑えた大人っぽい香りが胸の中にまで沁みてくる。

(この香りは……俺、好きかも)

 不意にそう思った大貴は、地下鉄の壁面に何故か自分の背中が当たっていることに気づくと、誰かに押しつけていた顔を慌てて離した。

「す、すみません!」

 だが、大貴の鼻から垂れた透明な粘液は、無情にもつうっと細い糸を引いて、いかにも高そうなシルクのネクタイに繋がっている。

 表情を引きつらせ、恐る恐る顔を上げると、先刻から気になっていた男の顔が、青ざめた大貴を見下ろしていた。

 冷然とした美貌に嵌め込まれた双眸は、オニキスのような漆黒。

 そして、きちんとセットされた髪もまた、艶のある黒髪だった。

 プールの塩素で脱色し、パサついている大貴の軽薄な髪型とは全然違う。

「あ、あの……」

 きちんと謝らなければと思いながらも、大貴の言葉は途切れ、訝しげに眉をつり上げた男の顔を茫然と見返した。

 その時、不意に男が壁に片手を付き、大貴の耳元に顔を寄せて囁いた。

「──君が痴漢だったのか?」

 声量を抑えた低い声が鼓膜に触れた瞬間、尾骨から脳天にまでぞくりとした妖しい痺れが走った。

 問いかけられたその言葉は、脳が理解を拒むように意味をなさない。

「……えっ?」

 何を言われたか判らないまま、大貴は呆気に取られて瞬きを繰り返した。