Rosariel.com
今夜、あなたの猫になる



<11>



 他のメンバーに『猫』の素顔を見られないよう、裏口に通じる階段を降りた大貴は、出口に目を向けた途端、その場に立ちすくんだ。

 裏口とは言え、実家の玄関よりも広くて立派なドアの前の石柱に、モデルのように完璧な容姿の男が、腕組みをして寄りかかっている。

 うつむいて眠っているようにも見えたが、庄領はすぐに顔を上げ、怜悧な眼差しを大貴に向けた。

 冷たく、素っ気なく対応しようと考えていたにも関わらず、見つめられた瞬間、大貴は不可解な雰囲気に呑み込まれてしまった。

「……すみません。遅くなりました」

 頭が真っ白になり、大貴の口からは、極めて平凡な言葉が飛び出していた。

「──いや。私も来たばかりだ」

 また嫌味や皮肉を言われるかと思ったが、庄領は大貴の顔をじっと見つめたまま、静かな声でそう告げた。

 ところが、居たたまれなくなるほど長々と凝視されると、大貴はまごついてそっぽ向いた。

 庄領の双眸に敵愾心でもあれば、遠慮無く睨み返せるのだが、今はそれが全く感じられない。

 観察されているわけでもない。だから、困った。

(……そんな目で、見るなよ)

 思いがけず、優しく柔らかな瞳で見つめられてしまい、大貴は面食らっていた。

 さほど人見知りをする方ではないが、会話の糸口さえ見つけられず、黙り込んでしまう。

 その時──。

「君の名前は?」

 そう訊ねられ、大貴は「え?」と顔を上げた。

 すると庄領は、ふっと口許に穏やかな微笑を刻み、茫然としている大貴に言った。

「私は、君の名前を知らない。そういうルールだからな。
 だから、君の名前を教えてほしい」

 瞬きをした大貴は、一歩前に踏み出してきた庄領を見上げた。

「……秋永……大貴です」

 口ごもりながら名乗った大貴は、黒瞳を細めた庄領の顔をぼんやりと見つめていた。

 何度か顔を合わせているが、この男は、こんなにも背が高かっただろうか──?

 急に自分が無力になったように感じ、大貴は視線をそらした。

 すると庄領は、いたって紳士的な態度で、大貴を出口の方へと促した。

「外に車を待たせてある。
 話は食事をしながらにしよう──おいで、大貴」

 名前を呼ばれた瞬間、背筋に奇妙な電流が走った。

 淡々と響く男の声は、どこか官能的な艶を帯びていて、鼓膜を心地良く震わせる。

 まるで魔法をかけられたように、ふらふらと運転手付きの高級車に乗り込んだ大貴は、行き先を告げる庄領の声で、ようやく我に返った。

「──あ、あの……どこへ?」

 いつの間にか隣に座っている庄領に驚きながら、大貴は緊張した声で問いかけた。

「私の馴染みの店だ。
 勝手に予約させてもらったが、君が気に入ってくれれば嬉しい」

 ゆったりとリラックスしている庄領の横で、大貴は全身をガチガチに強張らせていた。

(…や…やっぱり……調子が狂う)

 こうして会う前は、「喧嘩上等!」と意気込んでいたが、顔を合わせた途端、あっけなく男のペースに巻き込まれてしまった。

 こんな訳の判らない感覚を味わうのは、これで三度目だった。

 すると庄領は、余裕を失っている大貴に流し目を向け、からかうように言った。

「どうした? 君らしくもない。
 いつも私にじゃれついてきていたのに、今日は大人しいな」

 その言葉を聞き、大貴は、男からは見えない側の唇を引きつらせた。

(……『じゃれる』って、あれがそんなに可愛いものだったのかよ?)

 どんな嫌がらせをしても、庄領から見れば、取るに足らないものだったのかもしれない。

 そう思った途端、急に気が抜けた。

「──何か、落ち着かないんです」

 とりあえず、ここで意地を張っても仕方ないと思い直し、大貴は正直に答えた。

 その言葉を聞いて、庄領はひどく謎めいたアルカイックスマイルを浮かべた。

「借りてきた猫というわけか。
 いつもの『猫』の仮面が無いと、調子が出ないんだろう?」

「そういうわけじゃ……」

 指摘され、思わず顔に手を当てていた大貴は、ぎくりとした。

 ぼーっと放心している間に、庄領はじっくり観察することができただろう。

 地下鉄で出会った洟垂れ顔の痴漢が、『猫』の仮面を付けていた大貴だったと、確信しただろうか。

(……しまった。ボケ過ぎだろ、俺)

 自分自身のうかつさに頭を抱えたくなった大貴は、ちらりと庄領の顔をうかがい見た。

 だが、男はぎくしゃくとした会話をそれなりに楽しんでいるのか、倶楽部『ファロス』の中で会っていた時よりも、ずっと和やかな表情をしている。

 地下鉄構内で見せた冷たく嘲るような微笑は、どこにも見当たらない。

「──仮面というのは、時に、自分自身でも知らなかった本性を暴き出す。
 そして、多くの場合、攻撃的な一面が顔を出すそうだ。
 たとえ別人を演じているつもりでも、本人の中に同じ顔が無ければ、演じきれるものではないからな」

 揶揄されているのかと思ったが、庄領の声にやはり皮肉の棘は無かった。

 大貴は「なるほど」と気の無い相づちを打ったが、男は気を悪くした様子も無く、さらに言葉を続けた。

「私は、君の素顔が知りたいだけだ。
 私を翻弄した『猫』がどんな顔をしているのか、興味があった。
 だから、今夜は気を楽にして、肩の力を抜けばいい」

 どうやら庄領は、地下鉄での一件を覚えていないらしい。

 彼にとっては大した出来事ではなかったため、忘れてしまったのだろうか。

 ほっと安堵しつつも、わずかにもやもやした気分を抱え込んだ大貴は、棘のある声で言い返した。

「でも、それって……何が面白いんですか?
 俺の顔は、もう十分見たでしょう。
 庄領さんに比べれば、俺はつまらない平凡な人間です」

 すると、庄領はくくっと喉を鳴らし、淫靡な艶のある黒瞳で大貴を見つめた。

「つまらない人間にかまけているほど、私は暇ではないよ、大貴」

 また名前を呼ばれると、腰骨の裏を舐め上げられるようなぞくりとした刺激を感じた。

 その感覚に狼狽え、大貴はきつい眼差しで庄領を睨みつけた。

「俺には……あなた方の事はよく判りません。
 『猫』をやってるのだって、慎一さんからしつこく誘われたからだし。
 バイト代が良かったから続けてますけど、別に男が好きだからじゃない。
 はっきり言って、男同士っていうのは理解不能です」

 すると、庄領は口を噤んで首を傾げ、ふっと憂いを帯びた溜息をついた。

 ほんの少し傷ついているような表情にも見え、大貴は焦った。

 性的マイノリティを差別するつもりは無かったのだが、無神経な言葉だっただろうか?

「……『慎一さん』、か。
 では、私の事も名前で呼んでくれないか?
 庄領さんでは、あまりに他人行儀というものだ」

(──そっちかよ!)

 どうやら、自分の心配は杞憂だったらしい。

 庄領の言葉を聞いて、心の中でツッコミを入れた大貴は、思わず苦笑いした。

「他人行儀って……まだ、全然他人じゃないですか。
 さっき会ったばっかりですよ、俺たち」

 その途端、男は、誰もがうっとりしてしまいそうな艶やかな微笑を浮かべた。

「君に会うために、『ファロス』に七日間通った。
 すでに他人だとは思えない。それに──」

 臆面もなくそう言った男は、ぎょっとしている大貴の前で自身の中指に口づけし、笑みを刻んだ唇から赤い舌を伸ばした。

「……君の『味』は、よく覚えている。今度は君が、私を知る番だ」

 庄領はその中指を伸ばし、硬直したまま動けないでいる大貴の唇に触れた。

 倶楽部『ファロス』の中で交わされた、二人だけの秘密──。

 ミステリアスな微笑を浮かべる男を、瞬きもできずに見返していた大貴は、その指が唇のあわいに滑り込もうとした瞬間、顔を真っ赤にしてその場から飛び退いた。

「……なっ、なっ…なっ、何すんだ、このド変態!」

 運転手に聞こえていても構わなかった。

 庄領からできるだけ遠ざかろうと、車のドアに背中を貼りつかせた大貴は、くつくつとおかしげに笑っている男を睨みつけた。

「セっ……セクハラで、訴えるぞ!」

「それは無粋だな。今夜は心おきなく、君を口説こうと思っていたんだが」

 色魔のごとく妖しい微笑みを浮かべた庄領を見返し、大貴は冷や汗が流れるのを感じた。

 貞操の、危機かもしれない──自分は何も知らず、のこのことケダモノの檻の中に入ってしまったのではないだろうか?


 車が停まったのは、意外にも街路樹や庭木の多い、閑静な住宅街だった。

 車から降り立った大貴は、辺りの風景を見回して、やや拍子抜けした。

 貧乏学生には敷居の高すぎる、高級ホテルの星付きレストランなどに連れて行かれるのではないかと緊張していたのだ。

 ドレスコードの厳しいレストランを想定していたのは嶺村も同じで、だからこそ誰からも文句を付けられないよう、スーツやネクタイ、靴にいたるまでコーディネートしてくれた。

 とはいえ、一言で住宅街とは言っても、ここは間違いなく高級住宅街だった。

 どの家も、緑の生け垣に囲まれた立派なお屋敷ばかりで、大貴が住んでいるような古びたアパートは一つも見当たらない。

「おいで、大貴。ここから少し歩くんだ」

 当たり前のように名前を呼んだ庄領は、勝手知ったる町のように、路地裏の静かな道を歩き始めた。

 その颯爽とした姿は、堂々たる邸宅が連なる街の中でも、全く見劣りがしない。

 まるで自宅へ帰る道を歩いているかのようにリラックスしていた。