Rosariel.com
今夜、あなたの猫になる



<2>



 表参道の並木道からほど近く。

 高い木々に囲まれた敷地の中に、地上三階建てのビルが建っていた。

 ガラスや鉄筋を多用したモダンな雰囲気と、古典的なアーチと列柱を用いた瀟洒なファサードが融合したデザイン。

 真っ黒な石材でアーチや柱が作られているため、その建物は、妖しく、近寄りがたい独特の空気を漂わせている。

 それでいて、不思議なほど街の中に溶け込んでいるのだ。

 この幻想的なビルこそが、会員制倶楽部『ファロス』のクラブハウス、大貴のアルバイト先だった。

 一階のロビーから中央階段で二階に駆け上がった大貴は、到着するなりバーカウンターに突っ伏し、頭を抱え込んだ。

「ああ、もう……超サイアク」

 いつもなら、豪華なクラブハウスのドアを踏み越えると、瞬時に頭のスイッチが切り替わるのだが、今日はハプニングの連続で、大貴の思考回路はいまだに混乱気味だった。

「風邪引いたの、大ちゃん? 顔が赤いよ。それとも、いつもの女子アレルギー?」

 この倶楽部の創設者であり理事長、さらにバーテンダーも務めている嶺村慎一(みねむら しんいち)が、水の入ったグラスを大貴の前に置いた。

「──ダブルパンチなんです。ってか、聞いてくださいよ、慎一さん!」

 静かな館内を見回し、周りにさほど人がいないことを確認した大貴は、テーブルの上に勢いよく身を乗り出した。

「地下鉄で痴漢に襲われたんですよ、俺。
 その後、俺が痴漢だって、逆に疑われたりして……」

 穏和な笑顔を絶やさない嶺村に、大貴はその不愉快極まりない出来事をまくし立てた。

 話を聞いた嶺村は途端に噴き出したが、むっつりとした大貴の仏頂面を見返すと、慌てて咳払いをして笑いを収めた。

「女子アレルギーの大ちゃんが、痴漢になるわけないんだけどねえ。
 でも、一般の人には、なかなか信じてもらえないか」

「俺を痴漢呼ばわりしたのが、それはもう、スカした嫌な野郎で。
 絶対に忘れませんよ、あいつの顔」

 ふてくされた大貴は一気にグラスをあおり、深々と溜息をついた。

「でも、警察沙汰にはならなかったんだろう? 不幸中の幸いじゃない?
 最近はいろいろ面倒くさいからね」

 そう言って、銀色のカクテルシェイカーを振り始めた嶺村は、悪戯っぽい眼差しを大貴に注いだ。

「大ちゃん、もう諦めて、こっちに来ちゃいなよ。
 猫アレルギーと同じで、大ちゃんの女子アレルギーも治らないだろうし。
 僕でよければ、いつでも付き合ってあげるよ。
 このまま一生セックスできないのも、寂しいだろ?」

 高価なマホガニー製のテーブルに片頬を押しつけたまま、大貴は頭上で右手を振って見せた。

「俺はノンケです。最初っから言ってるじゃないですか。
 慎一さんがいくら綺麗でも、男じゃ全然萌えません」

「やれやれ……つれないねえ、大ちゃん。
 最近はズリネタにも困ってるんだろう? 
 手持ちのAV見て、蕁麻疹が出たって言ってたじゃないか」

「……そ、そのお綺麗な顔で、下品な事言わないでくださいって!」

 顔を上げた大貴に、クラブメンバーから「観音様」と呼ばれている嶺村は、にっこりと慈愛に満ちた微笑みを向けた。

「元気が出たね、大ちゃん。じゃあ、これを飲んだら、今日もお仕事よろしく」

 大貴の前に、色鮮やかな赤いカクテルと、本日の衣裳が入った紙袋が置かれる。

溜息をつきながらカクテルグラスを取り上げた大貴は、先ほどまでより幾分か怒りが治まり、落ち込んでいた気分も上向きになっていることに気づいた。

「──すっ…酸っぱ!! 何ですか、これ?」

 酸味の強いカクテルにむせた大貴が騒ぐと、嶺村はくすくすと笑いながらウィンクをした。

「大ちゃん、風邪も引いてるんだろう? 
 だから、アセロラジュースとかお酢とか……まあ、いろいろね。
 今日はアルコール飲めないってみんなに言っておくから、ゆっくり眠っていけばいいよ」

「俺は楽できて、お金も貰えて嬉しいんですけど。
 本当に『猫』が必要なのか、時々疑問です」

 首を傾げた大貴に、嶺村は色素の薄い鳶色の双眸を細めて顔を寄せ、謎めいた微笑を浮かべた。

「大ちゃんの『猫』は人気あるんだよ。
 本人が思っているよりもずっとね。店は儲けさせてもらっているから、心配しなくてもいい」

 嶺村は囁くようにそう言い、白く長い指で大貴の顎の下をくすぐった。

 とっさに顔を引いた大貴は、スツールから落ちそうになりながら、嶺村の優しげな美貌を睨んだ。

「何度も言いますけど、俺はノンケですからね!」

「もちろん、判っているよ」

 入会の選考基準──「男性同性愛者であること」「みんなと仲良くできる人」という異色の倶楽部『ファロス』を創設した理事長は、本来は異性愛者であるはずの大貴ににっこりと微笑みかけた。


 周囲をガラスの壁に囲まれたダブルベッドの上で、大貴は仰向けに転がってうたた寝をしていた。

 浅い眠りから覚めて瞼を開けると、ガラスの檻を眩く照らし出すライトが、仮面越しの瞳を刺す。

 両目を細めて寝返りを打った大貴は、ガラスの向こうで談笑する沢山の男たちのシルエットを認め、ほっと溜息をついた。

(……ヤバい。本気で寝てた)

 たとえ眠っていたところで怒られることは無いが、こんな衆人環視の中で無防備な姿をさらすのは、警戒心が無さ過ぎるというものだろう。

 反省しながら欠伸を噛み殺し、大貴は目元から鼻までを覆い隠す仮面をわずかに押し上げた。

 ラインストーンが散りばめられた白い猫顔の仮面は、ヴェネチアの謝肉祭(カーニバル)で実際に使われている物と同じイタリア製らしいが、大貴の顔にぴったりとフィットしていた。

 このクラブの『猫』になった時、嶺村が特別注文したものらしい。

 衣裳に合わせた色違いの仮面がいくつもあるが、その形は全て猫顔になっている。

 倶楽部『ファロス』の独特の催事──嶺村に言わせるとインテリアの一つである『猫』は、館内のほぼ中央にある十角形のガラス部屋で、開館から閉館までの数時間、ただ猫のようにゴロゴロしているのが仕事だった。

「ペットショップのショーケースみたいなものだよ。見ているだけで和むだろう?」

 というのが、『猫』にスカウトされた時、嶺村が大貴に説明した言葉だった。

 何をするわけでもなく、ただベッドの上で過ごすだけで、一日一万円のバイト代が支払われる。

 その上、『猫』の飲み食い代は全てタダ。

 条件があるとすれば、店内の雰囲気を壊さない事、嶺村が用意する衣裳を文句言わずに着ていること、そして『猫』の仮面を絶対に外さない事。

 原因不明の女性アレルギー持ちの大貴にとって、男性限定のアルバイトは非常に魅力的だった。

 実家から一応仕送りをしてもらっているが、そのほとんどは家賃で消えてしまう。

 そのため、たとえ職場が怪しげなゲイの社交場だったとしても、一日一万円の収入はありがたく、極めて抗いがたい。

 ガラスの外側から行動を常に見られているとは言え、そんなものはとりあえず我慢すれば良い。

 顔は隠されている上、店内でメンバーが『猫』に手出しすることは禁止されているのだ。

 ところが、多少胡散臭くは思いつつも、奇妙なアルバイトに乗り気になっていた大貴に、嶺村は説明を付け足した。

「ただし、『猫』は一年間の期限付きだ。
 辞めたくなったら、いつでも辞められるけどね。
 それから、『猫』になったら、一つだけ参加しなければならないゲームがある」

「──ゲーム?」

 いかがわしく感じて警戒を強めた大貴に、嶺村はにっこりと微笑んだ。

「大した事じゃない。それに、ノンケの君なら、勝ちが保証されているようなものだよ」



 初めて嶺村に出会った時の事をつらつらと追想していた大貴は、口から大きく息を吸い込んだ。

 鼻水を止めるため、左右の鼻腔にはティッシュを詰め込んである。

 少々息苦しくはあるが、客と会話することもない『猫』であるから、仕事に支障は無い。

 といっても、ガラス部屋に入ってからずっと寝ているだけなのだが──。

(まあ、今日は大人しい白猫ちゃんってことで……)

 嶺村が用意した衣裳も、上から下まで真っ白だった。

 裸の上半身に身につけているのは、フワフワの羽根で縁取られたロングベストに、三連になったパールのネックレス。

 ボトムは膝丈のホワイトデニム。

 自分では絶対に選ばないコーディネートだが、『猫』である以上、嶺村には逆らえない。

 ペットの猫に洋服を着せる人が実際にいるのかどうかは知らないが、犬ではよく見かける光景だった。

 たとえどんなに悪趣味な服を着せられても、犬自身は文句を言わない。

 倶楽部『ファロス』の『猫』もまた、そういう存在だった。