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今夜、あなたの猫になる



<22>



 ぐっすりと眠り込んでいた大貴は、軽く肩を揺すられると、ぼんやりしたまま瞼を開けた。

「──大貴。家に着いたぞ」

 静かな声が耳元に落ちる。

 それでもまだ眠気の中を漂っていると、不意に口を塞がれ、優しく唇を啄まれた。

 唇が蕩けてしまいそうなキスだった。

 ファーストキスのようなぎこちなさは全く無いが、同じくらい甘美な戦慄が全身に走る。

 ためらいがちに口を開くと、さらに唇が深く重なり、するりと舌が滑り込んでくる。

 唇や口の中が疼くほどに刺激され、急激に欲望が膨れ上がってゆくと、大貴はおののいて首を振ろうとした。

 ところが、まだ痛みに疼く額にキスが落とされ、腫れた部分に舌が這わされた途端、快感が吹き飛んでいった。

 疼痛で正気に戻り、大貴がはっと目を見開くと、おぼろげな青白い光の中で、庄領が微笑んでいた。

「──ね、寝込みを襲うのは、卑怯だろ!」

 濡れた感触が残る額を押さえた大貴は、慌てて逃げようとしたが、シートベルトが邪魔をして、ジタバタもがくだけだった。

「あまりに無防備な寝顔だったから、つい悪戯をしたくなった。
 もっと君の可愛い寝顔を見ていたいが、今夜はこのくらいで帰してやろうか」

 リアシートが元の位置に戻るとほどなく、助手席に乗っていた秘書がドアを開けてくれる。

 すでにそこは、大貴が住むアパートの前だった。

「部屋まで送っていこうか?」

「……い、いいよ! 一人で帰れるって」

 庄領の申し出を急いで断った大貴は、慌てて車の外に出ようとした。

 すると名前を呼ばれ、動きを止めた大貴は、恐る恐る男を振り返った。

「おやすみ、大貴。アンズによろしく」

 別れの言葉を口にした庄領が微笑んでいる。

「……お、おう。そ、その……送ってくれて……ありがとな」

 キスは余分だったが、送ってもらえたのはありがたかった。

 始発電車を待っていると、アンズをまた寂しがらせてしまう。

 背の高い秘書が、ドアを開けたまま待ってくれていることに気づき、大貴は慌てて車外に出た。

「ありがとうございました」と、社長に対するよりも丁寧に礼を言うと、オールバックの髪型に黒縁眼鏡をかけた秘書は、黙って会釈を返してくる。

 ふと、どこかで見たような顔だと感じたが、愛猫が心配だった大貴は自室へと急いだ。

「アンズ、ただいま」

 ところが、いつも通り玄関を開けて、大貴が声をかけても、どうしたことか、アンズが迎えに出てこなかった。

「……あれ? 寝ちゃってんのかな」

 電気をつけて部屋の中を見回したが、アンズの姿がどこにも見当たらない。

 その時、ベランダに面した窓が、網戸になっていることに気づき、大貴は慌てた。

 盗られて困るような貴重品は何一つ無いが、さすがに不用心この上無い。

 アンズが逃げてしまったらと思うと、自分の迂闊さに腹が立った。

 大貴が部屋に上がると、足音を聞きつけたのか、パイプベッドの下からアンズがひょっこり顔を出した。

「──良かった。そんなところにいたのか、アンズ」

 全身から力が抜けるほど安心し、しゃがみ込んで頭を撫でてやると、アンズは何かを訴えるように、じっと大貴の顔を見つめた。

「腹減ってるのか? ごめんな、遅くなって」

 アンズの猫トイレが片付く頃には、上手くいかなかった合コンの事も、突然のキスを仕掛けてきた遼真の事も、偶然出会った庄領の事も、すっかり頭の中から抜け落ちていた。



 もしかしたら自分は、恋愛には向いていないのではないか──。

 翌日、携帯電話が受信したメールを見つめ、大貴はそんな事を考えた。

 昨日、合コンで知り合った女子から、「また、一緒にご飯食べに行きましょう」と、男なら喜ぶべき、嬉しいお誘いがかかっているのだが、何故か気乗りがしない。

 ところが、「めんどくせーな」と感じてしまう正直者の自分を、冷静沈着な別の自分が厳しく諫めた。

(──それでいいのか? 明日は金曜日なんだぞ)

 確かに、このメールにちゃんと返信して、次に会う約束を取り付ければ、また彼女のいる生活に戻れるかもしれない。

(だけど……それって、優衣の時と同じだろ)

 昨夜、遼真に指摘されたことは、正しいのかもしれない。

 目の前の苦しみから逃げ出したくて、恋愛をその手段にしてしまった。

 講義の最中、ずっと携帯メールを眺めながら考え込んでいた大貴は、はあっと深刻な溜息をついた。

(まあ、付き合ってみなきゃ、判らないけどな……)

 ちゃんと二人きりで会えば、意外に気が合うかもしれない。

 胸がドキドキするような、ときめきが生まれるかもしれない。

 一緒にいて、楽しいとか、気持ちが安らぐとか、そういうことも感じられるかもしれない。

 その刹那、庄領の顔が頭の中に浮かび、だらしなく頬杖をついていた大貴は、椅子から飛び上がりそうになった。

(──ち、違うだろ! どうしてあいつの顔を思い出すんだ、俺は!)

 まだ痛みの残る額を押さえ、大貴は顔を赤らめた。

 庄領にキスをされ、舐められた時の感触が、記憶の中にまで刷り込まれてしまっている。

 これ以上、庄領と肉体的な接触をするのは、危険だと感じた。

 どうやら、倶楽部『ファロス』に長時間入り浸っている影響が、思いの外大きいらしい。

 知らず知らずのうちに、あちらの常識に、感化されているようだった。



 その夜、倶楽部『ファロス』の理事長嶺村は、大貴の額に浮かんだあざを見逃さなかった。

「──一体、君は何をやったんだい?
 『猫』が傷物になっちゃ、困るんだけど」

 いつも優しい微笑みを湛える顔が、厳しい表情を浮かべると、気軽に口答えできないような怖さを感じた。

「でも、ほら……マスクで隠れるから……」

 大貴が愛想笑いしながら告げると、嶺村はすっと涼やかな双眸を細めた。

「だけど、そのアザ、那波さんとデートする時までには、ちゃんと消えるんだろうね?」

 鋭く指摘され、大貴はぎくりとした。

 庄領にはバレているから、あざになっていても彼は納得してくれるだろう。

 大貴自身、見られても全く気にならない。

 だが、すっかり忘れていたが、もう一人『求愛者』がいたのだ。

 怖い顔でカウンターテーブルの中から出てきた嶺村は、蒸しタオルを大貴の額に押し当て、ぐいぐいと力を入れて揉み始めた。

「……いてててッ! やめてくださいって!」

「黙ってなさい。内出血した血が固まると、治りにくくなるんだよ。
──それで? これの原因は何?」

 問答無用な雰囲気に気圧され、大貴は痛みに顔を歪めながら歯を食いしばった。

(ひい〜ッ! 慎一さん、ドSじゃないかーっ!)

 そして、拷問めいた誘導尋問に引っかかり、大貴は昨夜起こった出来事を、あらいざらい喋らされることになった。

「ふーん。同級生から、キスねえ。
 何だか大ちゃん、最近モテモテになったよね──男限定で」

 壁にぶつかったという嘘は、嶺村には全く通じなかった。

 結局、遼真からキスされた事を話すはめになったのだ。

「お、男限定って何ですか! 昨日の合コンじゃ、俺だってわりとイケてましたよ」

「へーえ? やっぱり合コンだったんだ。
 男の純情を弄ぶなんて悪い子だねえ、大ちゃん。
 それを聞いたら、千晴も那波さんも、泣いちゃうよねえ」

 言葉の端々に皮肉の棘をたっぷりと散りばめ、嶺村は顔を引きつらせている大貴に、にっこりと笑いかけた。

「──で、どうしてまた急に、合コンしようなんて思ったの?
 前までは嫌がってたじゃないか」

「……う、ううっ……それはっ……」

 さすがに、その理由までは答えられず、大貴が視線をそらすと、嶺村はぐいと蒸しタオルを押した。

「……イデデッ!」

「僕は、君が誰と付き合おうと気にしないけど、中には振られて逆恨みするヤツもいるから、十分に気をつけなきゃねえ。
 男の嫉妬は、結構怖いんだよ、大ちゃん」

 そう言って、慈悲深い微笑みを浮かべる嶺村の方が、もっともっと恐ろしく感じ、痛みで涙目になっていた大貴は、従順に首を縦に振るしかなかった。


 庄領の次に『求愛者』になった那波という男は、また飽きもせずに『猫』の写真を撮ったり、ビデオカメラを回したりしていた。

 目元まで覆い隠す長い前髪が、相変わらず鬱陶しく、その上黒いサングラスを掛けっぱなしだから、人相が判らない。

 だが、これでマスクでもしていれば、見かけは完璧な変質者になるだろう。

「──頼むから、今日は勘弁してくれよ」

 今夜の姿が、画像データとして残ることを考えると、顔から火が出るほど恥ずかしい。

 嶺村から、今夜の衣裳として与えられたのは、履き慣れているはずの競泳用パンツ。

 ただし、いつも黒や紺のような地味色しか身につけない自分が、絶対に手を出さないような、明るいアクアマリンで、脇の部分も紐のように細い。

 股上も呆れるほど浅く、ほとんど申し訳程度しか股間を覆っていない代物だった。

「こんなのは嫌ですよ! 
 だいたい、倶楽部『ファロス』の品格とやらは、どこに言ったんですか!
 前にクレームがきたんでしょ!」

 恥ずかしすぎる水着を突き返し、大貴は声を荒らげたが、嶺村はしれっと肩をすくめた。

「今日はうるさいのが来ないからねえ。
 まあ、これも理事長権限ってやつ? 
 大ちゃんの綺麗なスイマー体型、一度はみんなにも見せてあげたいし。
 あと、怪我をした『猫』へのお仕置き? 
 このバイトする前に、何でも着るって言ったよねえ?」

 嶺村には全く取り合ってもらえず、逆に『ファロス』の雇用条件を突きつけられ、大貴はすごすごと引き下がるしかなかった。

 だが、大貴の水着姿は、カメラマン那波を大いに奮い立たせたようだった。

 一眼レフカメラのレンズをいそいそと取り替えたり、今までに無い様々な角度から撮影したりと、忙しく動き回っている。

(……男の半ケツ撮って、何が楽しいんだよ)

 羞恥心を少しでも和らげようと、大貴はずっとうつ伏せになっていたのだが、首をねじって背後に視線を向けた途端、シャッターを切られた。