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今夜、あなたの猫になる



<25>



 茫然としていた大貴は我に返ると、慌てて庄領の背中を追いかけた。

「窓を閉めて出なかったのか?」

 ベランダ周辺の暗闇に明かりを照らしながら、庄領が厳しい声でそう訊ねた。

 その言葉に狼狽えつつ、自分の朝の行動を思い起こして、大貴は首をひねった。

「うーん。閉めたはずなんだけど……開いてたんだよな」

 その曖昧な呟きを聞きつけ、庄領は呆れたように嘆息をもらした。

「頼りないにも程がある」

 ぴしゃりと断言されると、さすがにむっとする。

「頼りなくて、悪かったな」

 人から頼ってもらいたいという男の心理的には、それが一番辛い言葉なのだ。

 だが、かつて優衣から言われた時のようなダメージはなく、むしろ甘くもどかしいような不思議な気分になった。

 言い返した大貴に流し目を向けた庄領は、口の端に微笑を刻み、ベランダの前に立ちふさがる木の枝に懐中電灯を向けた。

「私は二階を見に行ってくる。お前はここにいろ」

「二階って……人が住んでるんだぞ?」

「ベランダを見せてもらうだけだ。断られたら、外からのぞくしかないだろうが──」

 踵を返した庄領を見送った大貴は、首を傾げながら、二階のベランダを仰いだ。

 確かに長い木の枝が、二階のベランダまで届いているが、生まれてから一度も木登りなどしたことのないアンズが、あんな所までたどり着けるだろうか?

(だいたい、そんなに簡単に、部屋に入れてもらえるかっつーの)

 二階の住人は、女性だったはずだ。それも一人暮らし。

 突然訪問してきた見知らぬ男を、部屋の中に入れるはずはない。

 ところが、庄領が出て行ってからほとんど間をおかず、ベランダの窓が開く音が響いた。

「……嘘だろ、おい」

 あまりの早業に、唖然としてしまう。

(だけど……アパートの前に、マイバッハも停まってるからなあ)

 見るからに大金持ちのイケメンが、営業スマイルで声をかけたら、警戒の扉は簡単に開かれるものなのかもしれない。

 だが、そんな事よりも、今はアンズがいるかどうかが気になった。

 首を長く伸ばして二階を仰ぎ見ると、上から見下ろした庄領が、懐中電灯で大貴の顔を照らした。

「二階にいたぞ。室外機の後ろに入り込んでしまっているがな」

 その言葉を聞いた瞬間、歓喜と安堵が同時に湧き上がった。

「ちょっと待ってろ! 俺もそっちに行くから!」



 無事にアンズは発見されたが、その後、悲劇が起こった。

 どうやら相当怖い思いをしたらしく、アンズはウーウーと低い声で唸り続けている。

 大貴が懐中電灯を向けると、アンズの瞳孔はこれ以上無いほどまん丸に広がっていて、顔も恐怖に引きつっていた。

「アンズ……ほら、おいで。俺だよ。迎えにきたよ」

 大貴がいくら優しい声で呼びかけても、アンズは石のように固まって、小さく縮んでいた。

「どうしてだよー、アンズ〜」

 何故、こんな狭苦しい所に入り込んでしまったのか。自分の声が通じないのか。

 初めてのことに、大貴は混乱してしまった。

 部屋の住人である女性も、どうしたものかとオロオロしてしまっている。

「らちが明かないな。大貴──バスタオルを持ってきてくれ」

 見かねた庄領が指示をすると、女性はぱっと顔を輝かせ、華やいだ声を上げた。

「バスタオルなら、お貸ししますよ」

「しかし、汚してしまうかもしれませんから」

 庄領が遠慮がちに言うと、彼女はにこやかに首を振って、部屋の中に戻っていった。

「古くなっているので、これ、差し上げますわ」

 差し出されたバスタオルを見つめ、庄領は魂が抜けるような、人の心を誑かすような営業スマイルを浮かべて礼を言った。

 それを横目で見ていた大貴は、一瞬、心の中に不可解なイライラを感じた。

 アンズ捕獲作戦は、その後も困難を極めた。

 クーラーの室外機が、床にしっかりと固定されていて動かないのだ。

 さらにアンズが、壁際の隅から動かないため、大貴が横から腕を伸ばしても届かない。

 そのため、ジャケットを脱いだ庄領は、シャツを肘までまくりあげ、室外機の上部からアンズを捕獲しようとした。

「……もうちょっと、右」

 懐中電灯でアンズを照らし、頂き物のバスタオルを広げて待っていた大貴は、ハラハラしながら状況を見守っていた。

 そして、庄領の手が、アンズの首根っこを押さえた時──。

「フンギャアアーッ!」

 狭い隙間から強引に引きずり出されたアンズは、町内一帯に響き渡るような、恐ろしい悲鳴を上げた。

 パニックを起こしたアンズは、死にもの狂いで暴れ回ったが、それでも庄領の手は離れなかった。

 だが、そのまま首の皮をつかんで吊り下げると、アンズがそれまで我慢していたオシッコを突然漏らしてしまった。

 驚愕しながら庄領の顔を見た大貴は、さらに愕然とした。

 暴れた拍子に爪が入ったのか、男の眉間から、タラタラと真っ赤な血が流れ落ちていた。



 バスタオルでぐるぐる巻きにされていたアンズを放してやると、怯えきった様子でベッドの下に駆け込んでいった。

 女性宅のベランダを掃除しに戻った大貴は、そこで一人娘の粗相を何度も謝り、深く頭を下げた。

 庄領がすぐにクリーニング業者を手配してくれたため、彼女はほっとしているようだったが、顔は明らかに強張っていた。

 アパートの前に停車していたマイバッハは姿を消していたから、おそらく庄領が何らかの指示を出したのだろう。

 溜息をつきながら自室に戻った大貴は、まず最初に、もうもうと湯気が立ちこめるユニットバスをのぞき込んだ。

「おーい。大丈夫か?」

 シャワーを浴び終えた庄領は、バスタオルを腰に巻いただけの姿で、小さな鏡をのぞき込んでいた。

 激しい流血は止まっていたが、まだ少し、眉間の真ん中から血が滲み出している。

「小さなかすり傷だが、顔は出血量が多いからな」

 タオルで額を押さえながら、ユニットバスから出てきた男の裸体を見た途端、大貴の心拍数が急に上昇した。

 慌てて視線をそらし、棚の中に置いてある薬箱を探す。

 ベッドに腰を下ろした庄領は、白いタオルを染める血痕を見て、「やれやれ」と呟いていた。

「……病院、行った方がいいぞ。猫のひっかき傷は腫れるっていうからさ」

 普段は大人しいアンズが、まさかあれほど凶暴化するとは思っていなかっただけに、大貴もショックを受けていたのだが、庄領の傷を見ると、さすがに申し訳なく感じた。

 眉間の傷だけではなく、手の甲にも痛々しい引っ掻き傷が赤い筋になっている。

「──ごめん。迷惑かけた」

 意気消沈しながら謝り、黙り込んで薬箱の中をガサガサやっていると、額を押さえていた庄領がくすりと笑った。

「パニック状態の猫に手を出すと、大概怪我をする。
 アンズは大人しいから、私も少し油断していたな」

「ホントにごめん。俺もまさか、アンズがあんな風に暴れるなんて思わなかったんだ」

 消毒液とカット綿、それに絆創膏を準備して、大貴は庄領の隣に座った。

「ちゃんとした治療は、病院でやってもらった方がいいけど、とりあえず消毒だけしとくな」

 引っ掻き傷は、下駄の歯のように二本の筋になっていて、見るからに痛そうだった。

 左手だったのが、まだ救いだろうか。

 消毒液を染みこませたカット綿を、傷の上にそっと載せると、庄領はきつく眉根を寄せた。

 どうやら消毒液がかなりしみたらしい。

 ところが突然、眉間に皺を寄せていた庄領が、過去を思い出すように、ふと呟いた。

「昔……まだ小学生だった頃、家の庭に野良猫が遊びに来ていた」

 その思いがけない話に驚き、大貴は消毒する手を止めていた。

「家政婦がこっそり餌をやっていたらしいんだが、まったく体を触らせないような、警戒心の強い黒猫だった。
 餌場に来るその猫を、私は毎日見に行っていた。
 少しでも懐かせてやろうと思ってね」

 懐かしげに目を細めた庄領の話に耳を傾けながら、大貴は消毒を再開した。

 流れるような男の声は、聞いているだけで引きこまれそうだった。

「ある日、その黒猫がひどい風邪を引いて、紫陽花の下にうずくまっているのを発見した。
 私はバスタオルにくるんで、その猫を動物病院に連れて行ったんだ。
 幸いすぐに元気になったが、調子を取り戻した途端、私の手を引っ掻いて逃げ出した」

 当時を思い出したのか、庄領は苦笑した。

「その猫は、病院中を逃げ回ったんだ。捕まえるのが本当に大変だった」

 その話を聞いて、大貴は思わず笑ってしまった。

 目を丸くして野良猫を追いかけている少年の顔が、目に浮かぶようだった。

「その後熱を出して、三日間ほど寝込んだ。
 祖父からは、二度と猫には手を出すなと、きつく叱られたよ」

「もしかして、それから猫嫌いになったとか?」

 大貴が思わず顔を引きつらせると、庄領はくくっと喉を鳴らした。

「むしろ逆だな。禁止されたから、余計に気になってしまったんだ。
 元気になった黒猫に、それからもこっそり餌をやり続けて、少しずつ撫でさせてもらえるようになった」

 穏やかに微笑んだ庄領の顔に見惚れてしまった大貴は、赤い傷痕が刻まれた額に、そっと手を伸ばした。

「あーあ。せっかくの男前が台無しだな」

 血が固まった傷口に消毒液を付けると、男は痛みを堪えるように顔を歪めた。

「──それで、その後、その黒猫はどうなったんだ?」

 笑い出しそうになりながら、大貴が思い出話の続きを訊ねると、庄領はふっと窓の向こうに寂しげな眼差しを向けた。

「……それからしばらくして、車に轢かれて死んでしまった。
 急に雨が降り出した、夏の夕方だった。
 雨に打たれて息絶えている姿が可哀想で、紫陽花の下に埋めてやったんだ」

 静かに語った庄領は双眸を閉ざし、微かに自嘲的な笑みを浮かべた。

「すまない。こんな話を聞かせるつもりは無かったんだが──」

 大貴の顔を見返した庄領は、驚いたように言葉を途切れさせた。

「あ、あれ……何で、涙が出るんだろ?」

 我に返った大貴は、眦から涙が流れ落ちていることに気づき、慌てて顔を擦った。

「俺も……アンズの事が心配だったから。
 車に轢かれたんじゃないかって──」

「無事に戻って来て良かった。
 怖い思いをしたなら、二度と外には出ないかもしれないな」

 慰めるようなその言葉にうなずきながら、大貴は泣き顔を隠すように、慌ててベッドの下をのぞき込んだ。

 衣裳ケースの隙間に逃げ込んでいたアンズは、ようやく落ち着いたのか、恐る恐るという顔で出てこようとしていた。