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今夜、あなたの猫になる



<28>



 落ち着いているようには聞こえるものの、庄領の声には焦燥と苛立ちが滲んでいた。

『お前の部屋で異変が起きたと、そこにいる那波から連絡があった。
 今、私もそっちに引き返している』

 その声を聞いているうちに、大貴は混乱していた心が少しずつ鎮まってゆくのを感じた。

 そして、安心させてやりたいと、何故かふと思う。

 だが、口を開けて答えようとした途端、まだガムテープが貼りついていることに気づいた。

 助けを求めて、黒ずくめの男を見上げた大貴は、その顔を見て愕然とした。

 髪をオールバックにぴったりと撫でつけ、目元全体を覆う黒いサングラスを取り出したその男は、倶楽部『ファロス』で大貴の『求愛者』になっていた那波瑛吾に間違いなかった。

 双眸を隠した那波は、大貴の口に貼られたガムテープに指をかけると、躊躇することなく一気に引きはがした。

「……いってえ…ッ!」

 思わず大貴が声を上げると、庄領が心配そうに訊ねてきた。

『──どうした? 何かあったのか?』

「何でもねーよ! けど、こいつ、誰? あんたの何?」

 腹立ち紛れに言葉をぶつけると、電話口の向こうで庄領がくすりと笑った。

『元気そうだな。安心したよ』

「そーじゃねーだろ! 説明しろよ、バカ!」 

 緊張が緩んだせいか、それまで鬱積していたモヤモヤが爆発し、感情的な言葉が溢れ出していた。

「言っとくけど、襲ってきたこの変態コスプレ野郎が、地下鉄の痴漢だからな!
 こいつが、俺のケツに散々触ってきたから、捕まえようとしたんだ。
 俺が痴漢だったわけじゃねー!」

 大貴がぎゃあぎゃあと騒ぎ立てると、さすがにその勢いに圧されたのか、庄領は沈黙してしまう。

「それより、さっさと俺を自由にしてくれ。
 パンツはいてないから、股間がスースーするんだ!」

 一拍の間の後、庄領が感情を抑えた低い声で告げた。

『──那波に替わってくれ』

 その直後、那波は手際よく、大貴を拘束から解き放ってくれた。



 ようやく刑事の質問責めから解放された大貴は、アンズを入れたキャリーケースだけを手に持って、庄領の車に乗り込んだ。

 何が起こっているのか判らないでいるアンズは、不安そうにニャアニャアと鳴き続けていたが、大貴が何度か名前を呼んでやると落ち着いたようだった。

 車が走り出すと、ようやく安全を実感し、溜息がこぼれた。

「あの犯人は、お前のストーカーだったということか。
 プールでも盗撮を繰り返していたらしいな」

 しんと静まりかえった車内で、庄領の声が驚くほど厳粛に響いた。

「……ホント、勘弁してほしいよ。
 何で俺が、ストーカーに狙われなきゃいけないんだよ」

 大貴は、キャリーケースに顔を伏せ、疲れ果てたように呻いた。

 警察に逮捕された犯人を確認した途端、大貴は愕然としてしまった。

 コスプレマスクを被った犯人は、大貴が通うジムで時々顔を合わせていた男だったのだ。

 名前は知らないが、言葉は交わしている。

 一度目はシャワールームで、二度目はプールのジャグジーで──。

 てっきり、ジムの常連だと思い込んでいたのだ。

 警察が押収した犯人の持ち物の中には、小型のデジタルカメラも入っていた。

 撮影された写真には、ジムの更衣室で着替える大貴の姿や、他の男たちの裸体が、何十枚も隠し撮りされていた。

 中には遼真の水着姿もあって、それを見た時、大貴はほんの少し友人に同情した。

 被害者である大貴から、事の発端となった地下鉄内での痴漢遭遇話を聞いていた中年刑事も、最初は少々疑心暗鬼のようだったが、その写真を見て納得したようだった。

 さらには大貴の部屋から盗聴器までもが発見され、だんだん同情的になった。

「いやはや、災難でしたね。
 後日またお話を聞かせていただくことになりますが、その時はご協力お願いします」

 どうやら、他にも余罪があると見て、警察は捜査に乗り出すようだった。

(……で、結局俺とアンズは、こいつの世話にならなきゃいけなくなったわけで──)

 深くうつむいたまま、ちらりと隣に座る庄領に視線を走らせると、男の手がいたわるように大貴の頭を撫でた。

「──あんたさ。どうして、警察にあーいう事言っちゃったわけ?」

 顔を上げて大貴が強い口調で問い詰めると、庄領はわずかに首を傾げた。

「ああいう事とは?」

「だから、その……あんたが、俺の『恋人』だって言った、あれだよ」

──そうなのだ。

 ストーカーに襲われるという事件の横で、何故か大貴の人生の一大事が勝手に決められてしまった。

 刑事の質問は、当然、その場にいる庄領にも及んだ。

「……ところで、あなたは、秋永さんとはどういうご関係で?」

 中年刑事に質問された庄領は、至極真面目な顔つきで答えた。

「私は大貴の恋人です」

 ショックで固まってしまった大貴に、刑事はちらりと疑わしげな目つきを向けてきた。

「そうなんですか?」

「……えっ!? ええ、まあ……その……一応」

 倶楽部『ファロス』の客だと答えれば、いろいろ面倒くさくなりそうだった。

 そのため、そう答えるしか無かったのだが──。

(……都合良く、既成事実にされた気がする)

 そしてその証人は、よりによって刑事だったりするのだ。

 しかし、冷静になってみるとやはり納得できず、大貴は庄領に不満をぶつけた。

「でもさ、やっぱり恋人って言っちゃうのはまずくない?
 せめて友達とか、知り合いとか、他にも言い様はあるんじゃないの?」

 すると庄領は皮肉げな微笑を浮かべると、意味深な流し目を大貴に向けてきた。

「ただの知り合いが、二人でマスかき合ったりするのか?
 盗聴器が発見されている以上、私たちの会話が録音されているだろう。
 それに、犯人が容疑を否認した場合、警察は現場検証をするかもしれない。
 その時、私とお前の精液が出てきたら、どう説明する?」

 その言葉を聞いて、大貴は目を見開いたまま動けなくなった。

(……確かに……いろいろ飛び散ってるよな……)

 さらに、壁の薄いアパートであるから、庄領との情事を、隣人に聞かれてしまっている可能性は非常に高い。

 いずれバレるなら、庄領との関係をさっさと認めておいた方が、傷は浅いのかもしれない。

 後になって警察に説明するよりは、先に教えておいた方が、印象も良いのだろうが──。

「……何か、ホント、面倒くさい事になったなあ」

 思わず大貴がぼやくと、庄領が淡々と言った。

「裁判になれば、事件が公になり、お前にも不利益が生じる可能性がある。
 だから、強制わいせつは親告罪になっているんだ。
 お前が告訴を取り下げれば、検察は起訴できない。
 今後どうするかは、お前の考え方次第だな」

 刑事の説明を聞いて、被害届と告訴状にさっさとサインしてきてしまったが、あの男が起訴されたなら、いずれ裁判所に呼ばれることになるらしい。

 ただの痴漢だと思っていたのに、まさかこんな事件に発展するとは想像もしておらず、頭の中はまだ混乱していた。

「もしかして……裁判沙汰になったら、あんたにも迷惑かけるかな?」

 ただの学生でしかない自分はともかく、庄領には社会的な地位も名声もある。

 こんな事件が公になって、万が一彼の名前が外に出てしまったら、自分以上に大きなダメージを受けてしまうかもしれない。

「私の事は気にするな──やましい事は何一つしていないのだからな。
 お前が決めた事なら、最後までサポートしよう。
 まだ時間は十分にある。
 きちんと気持ちが定まるまで、しっかり考えることだ」

「正義の味方って柄じゃないんだよ……俺」

 ことなかれ主義にいきなり突きつけられた最大級の試練──大貴が再び溜息をつくと、庄領はくすくすと笑いながら、優しく指先で髪を梳いた。

「とにかく……次の家が決まるまでは厄介になるから……それまではアンズ共々よろしく」

 そして結局、可愛い一人娘と共に、庄領の家に住まわせてもらわなければいけない事態に陥ったのだった。



 庄領家の邸宅は、高級住宅街と名高い地域の真っ直中にあった。

 二人で初めて食事をした矢萩屋にも近い場所だったが、お屋敷が建ち並ぶ町の中でも、一際濃い緑に囲まれているため、その区画だけ闇が深く、まるで神社の鎮守の森のように見えた。

 街路の突き当たりに面した正門をくぐり、誘導路を通り抜ける。

 都会の雑踏から切り離されたような空間に、華麗な大邸宅が出現した。

「……家って…これ?」

 堂々とした石造りの車寄せにマイバッハが滑り込むと、大貴は茫然とした声を上げた。

「ここは、祖父から生前贈与で私が受け継いだ土地だ。
 この家も古くなっていたから建て直すかどうか迷ったが、一階部分はそのまま残して改築することにした。
 結果的に、基礎から建て直した方が、簡単で安上がりだったんだがな。
 まあ、耐震補強は済んでいるし、内装もリフォーム済みだ。安心して生活すればいい」

 庄領は事も無げに答えたが、大貴は苦笑いを浮かべてしまった。

(そーじゃなくて……『家』っていうのは、もっと慎ましやかなものじゃないのか?)

 この大邸宅を「家」と呼ぶなら、大貴の実家は多分「物置小屋」レベルだろう。

 その時、車のサイドドアが開き、聞き覚えのある声が外から流れ込んできた。

「お帰りなさいませ、千晴様、大貴様」

 恭しい言葉遣いで二人を出迎えたのは、カラスのように真っ黒な服を身にまとう那波瑛吾だった。

 神父服のような、詰め襟の学生服のような、マオカラーの奇妙な洋服を着た那波は、相変わらずのサングラス姿であることもあって、かなり怪しげに見える。

 実はこの那波というこの男、庄領千晴の個人秘書──その他、執事であり、ボディーガードであり、運転手であり、掃除人であったりもし……と、要は身近にいる召使い。

 というのが、那波本人による自己紹介だった。

 だが、変質者を現行犯で逮捕した那波は、詳しく事情聴取しようとする刑事に対して、「忙しいから、また明日」ときっぱり断って、一足先にさっさと帰って行ったはずなのだが──。

「お食事のご用意はできておりますが、いかがいたしましょう?」

 その問いかけに、庄領が当たり前のように答える。

「先に済ませておきたい用事がある。
 だが、すぐに食べられるようにしておいてくれ」

「かしこまりました」

 その会話を聞いていると、突然異世界に紛れ込んでしまったかのような気分に襲われた。

(……ここは、21世紀の日本だよな?)

 今まで全く縁が無かった上流社会というヤツなのかもしれないが、馴染みの無い典雅な雰囲気に、大貴は当惑してしまった。

「大貴様──そちらのお手荷物をお預かりいたしましょう」

 大貴がしっかりと抱えているキャリーケースに、那波が手を差し伸べる。

「こ、これは自分で運ぶから大丈夫」

 きっとアンズも、見知らぬ場所に連れて来られて怯えているだろう。

 せめて自分が抱えてやらなければ、さらに怖い思いをさせてしまいそうだった。