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今夜、あなたの猫になる



<3>



 柔らかい羽根枕を抱え込んだ大貴は、ガラスの向こう側に広がる幻想的な空間に目を向けた。

 古代ギリシャの神殿のような柱が、ガラスの檻を半円で囲むように立ち並んでいる。

 その向こう側に見えるシャンパンゴールドの壁。

 壁の内部には無限の泡沫が生まれ、天に向かって浮かび上がってゆく。

 天井の照明は薄暗く落とされているが、金色の壁や、ガラスの檻が光を放っているため、人の顔が見えないほど暗くはない。

(……思いっきり慎一さんの趣味だよなあ。
 外装も内装も凝りまくって、金かけたって感じだし)

 部屋のインテリアなど、あり合わせで、かつ安ければ十分だと思っている大貴には、理解できない美意識なのだが、美しく洗練されて見えるのは、やはりデザイナーのセンスなのだろう。

 嶺村が創設したこの会員制倶楽部の、『ファロス』という名前には、「燈台」という意味があるらしかった。

 ガラス部屋を客席側から見ると、ちょうど天井に向かって細くなる十角錐の燈台のように見えるのだ。

 ガラス部屋が置かれた中央部分は、二階から三階へと続く吹き抜け構造になっているが、客席スペースは二層になっている。

 二階は、ダーツやビリヤードなどができる娯楽場とバーになっており、三階はレストランや会議室、オーディオルームだった。

 この倶楽部『ファロス』に集うのは、高級で上質な雰囲気の中でリラックスできるセレブな男たちだけ。

 入会希望者が推薦人と共にゲストとして訪れることはあるが、異質な雰囲気に圧倒されると、二度と顔を出すことはない。

「僕は、男同士のカップルで気兼ねなく食事をしたり、お酒を飲んだり、一人でも自分自身を偽ることなく寛ぐことができる場所を作りたかったんだ。
 刺激が欲しいなら、他のハッテン場に行けばいい。
 過激なショーが見たければ、そういう場所はいくらでもある。
 例えば、『コロッセウム』とかね。
 だけど、この『ファロス』は、自分の家のようにのんびり過ごす場所だ」

 嶺村はそう言っていたが、このキラキラした空間が自分の家だとは到底思えなかった。

 自分の部屋は、狭苦しいワンルームで、もしかしたらガラスの檻より狭いかもしれない。

 大貴はいつも場違いな気分を味わっていたが、それでもこの『ファロス』に流れる空気は落ち着いていて、居心地が良いとも思っていた。

 特に「女子アレルギー」持ちの自分にとって、女性が一人もいない空間というのは、何より安心できる場所でもあった。



 独特の静寂の中に身を浸し、大きく水を切る。

 最後のターンを決めた大貴は、残り25メートルをクロールで泳ぎ切った。

 プールサイドのベンチに腰を下ろし、濡れた躰をタオルで拭いていると、中学時代からの悪友、杉田遼真(すぎた りょうま)が長い両腕を回しながら近づいてきた。

「よう、大貴──今日はもう終わりか?」

 全身真っ黒に日焼けして、髪も金色に脱色されている遼真は、見かけは完全にサーファーだった。

 同じ中高一環の学校で、共に水泳部に所属していた遼真は、大貴と同じく一浪して、また同じ大学に進学している。

 大学では二人とも水泳部には入らず、近所のスポーツジムで気楽に泳いでいた。

「今日もまたバイトなのか?」

 大貴の隣に座った遼真が、足首を回しながら訊ねてくる。

 肯定するように頷いた大貴を見て、遼真がニヤニヤと笑い出した。

「男ばっかの職場じゃ、つまんねえだろ? 
 たまには合コン、付き合えよ。
 荒療治すれば、お前の『女子アレルギー』も治っちゃうかもよ?」

「無茶言うな。この間、お前のせいで酷い目に遭ったんだ。
 俺はこのまま煩悩を絶って、僧侶になる」

 素っ気なく大貴が言い返すと、遼真は胸の前で両手を組み合わせ、大柄で筋肉質な躰をくねらせた。

「ええーっ!? もったいないよ、大ちゃーん。
 こんなにイイ男なのにー」

 男臭い低音で身悶えする遼真の頭部を、大貴は片手で突き放した。

「止めろ、バカ。キモ過ぎだろ」

 遼真の方が、大貴よりも背が高く、体格も良い。

 ジムで筋トレにも励んでいるせいか、高校時代よりも重量感のある躰つきになっていた。

 趣味のサーフィンをやりつつ、夏休みとなれば、プールや海水浴の監視員をやっている遼真は、どこに行っても女性に大人気だった。

 荒削りな濃い顔立ちは少々暑苦しいが、黙っていれば文句の付けようがないイケメンでもある。

 もっとも、最近は言動が軽すぎて、「チャラ男」と呼ばれていたりもするのだが──。

(あのまま頑張ってれば、インターハイも夢じゃなかったのにな……)

 記録が伸び悩んでいた大貴と違い、遼真は誰よりも期待されていた選手だった。

 高校時代までの遼真は、ストイックなほど真面目に水泳に取り組んでいたが、ある時期を境に、ナンパや合コンに明け暮れ始めたのだ。

 大貴が思わず溜息を吐き出すと、遼真は急に真顔になってにじり寄ってきた。

「だけどさ──お前のバイト先、ゲイの巣窟なわけだろ?
 そんな所に入り浸ってたら、絶対に狙われると思うんだけど」

 大貴の肩に片腕を回し、遼真が小声で囁く。

 すかさず遼真の手を叩いて立ち上がった大貴は、肩をすくめて見せた。

「心配すんな。どうせ一年契約だし、ヤバくなったらすぐ辞めるから」

「夏休み、俺と一緒に監視員やれば?」

「それは無理。可愛いビキニの女の子見たら、絶対アレルギー出るし。
 想像するだけで、痒くなってくる」

 その言葉通り、急に鼻がムズムズし始め、大貴は慌てて頭の中から海辺のイメージを一掃した。

 空中を睨んで心を無にしていると、少しずつ症状が治まっていく。

「困ったもんだな、お前の『女子アレルギー』も。
 そんなに優衣(ゆい)先輩に振られたのがショックだったのか?
 失恋なんて、よくあることだろ?」

 戸惑い顔で首をひねった遼真を、大貴はじろりと睨みつけた。

「──言うな。まだトラウマなんだ」

「けど、違う子と付き合ったら、治るかもしれねえじゃん?
 アレルギーの原因になったのは、優衣先輩なわけだから……」

「言うなって言っただろ!」

 声に怒気を含ませた大貴は、驚きに目を瞠った遼真を睨み下ろすと、そのまま無言で踵を返した。



 苛立つ気持ちを鎮めるようにシャワーを浴びた大貴は、脳裡に残った名前を消し去ろうと頭を振った。

 だが、忘れようと躍起になるほど、辛い失恋の記憶が鮮明に蘇ってくる。

 一年年上の手塚優衣(てづか ゆい)は、男子水泳部のマネージャーで、部員の憧れ的存在だった。

 美人で明るく、世話好きな性格。

 男子部員の誰もが、多かれ少なかれ彼女に恋をしていた。

 そんなアイドル的な彼女と、高校二年生の夏休みから、大貴は恋人として付き合うことになったのだ。

 成績不振で自己ベストを更新できず、心底落ち込んでいた大貴を、優衣が慰めてくれたのがきっかけだった。

「ねえ、大ちゃん。私と付き合ってみない?」

 ライバルと言われた遼真が記録を伸ばし続ける横で、人生真っ暗だと先行きを悲観していた大貴にとって、彼女のその言葉は救いだった。

 他の部員の嫉妬や憧れに満ちた言葉を心地良く感じながら、大貴は遼真に対しても、ささやかな優越感にひたることができた。

 初めてのキスとセックス──当時はまだ童貞だった大貴を、一人前の「男」にしてくれたのも、彼女だった。

 記録はそれからも大して伸びなかったが、優衣と付き合うことで、人生に対して前向きになれたのだ。

(そういえば、遼真が女遊びを始めたのも……同じ頃だったよな)

 もしかしたら、遼真も優衣の事が好きだったのかもしれない。

 だから失恋のショックで自棄になり、遊び回っていたのだろうか?

 あの頃は想像もできなかった事をふと思い、大貴は水に打たれるまま両目を閉じた。

(俺も……嫌な性格してるよな)

 遼真の記録が見る見るうちに落ち込み、部活の顧問から怒鳴られる姿を眺めながら、心のどこかでほくそ笑んでいる自分がいた。

「ちゃんと練習しろよ」と、口先では注意していても、本気で遼真を心配しているわけではなかったのだ。

 高校時代のほろ苦い思い出を引きずりながら、大貴はシャワーブースから出た。

 注意力散漫になっていたせいか、プールから戻ってきた男とぶつかってしまう。

「──あ、すみません」

 我に返った大貴が謝ると、彼は「いいよ、いいよ」と言うように片手を振った。

「眼鏡が無いと、前があんまり見えないんだ。悪かったね」

 大貴の顔を観察するように顔を近づけた男は、人の善さそうな笑顔になった。

「……君、さっきまで凄く綺麗なフォームで泳いでただろう?
 スイマー体型だし、羨ましいよ」

 年齢は四十代前半くらいなのだろうが、そう言う彼の体つきも引き締まっていて、腹筋も割れている。

 おそらくジムの常連なのだろう。

「高校の頃、水泳部だったんです」

 大貴が愛想笑いを返すと、男は「そうか、そうか。じゃあ、また」と片手を振って、シャワーブースに入って行った。

 その後ろ姿をぼんやりと見送った大貴は、ふっと溜息をつき、肩を落とした。

(そういや……『女子アレルギー』って最初に言い出したの、遼真だよな)

 更衣室に戻って着替えをしながら、大貴はもう一度深々と嘆息をもらしていた。