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今夜、あなたの猫になる



<32>



 週明けの月曜日、大学の講義を終えてから、大貴は倶楽部『ファロス』に立ち寄った。

 ここ二週間ほど、ストーカー事件の事情聴取や、その後の引っ越しなどで慌ただしかったため、急遽『猫』は休業となり、『ファロス』には一度も訪れていなかった。

 そのせいか、重厚なドアをくぐる時、ふと懐かしい気分になる。

 だが、庄領が設計したというクラブハウスには、どことなく彼の邸宅と共通する気配のようなものが感じられ、それを意識した途端、大貴は落ち着かなくなった。

 まだ開館前ということもあって、クラブハウス内は静まりかえっており、ほとんどの照明が消えている。

 しかし、そんな静寂の中で、バーカウンターの内側に立っている嶺村は、大貴の目には白い後光を背負っているように見えた。

 慈悲深い微笑みを浮かべる観世音菩薩──爛れた肉欲にどっぷりと溺れ、世界が黄色っぽく見える自分には、少し眩しすぎる存在だった。

「おやまあ、大ちゃん。ちょっと見ない間に、ずいぶん色っぽい顔になったねえ」

 よろよろと歩み寄ってくる大貴を見て、嶺村が驚いたように言った。

 バーカウンターにたどり着いた大貴は、いつも通りスツールに腰掛けようとしたが、とっさに躊躇して立ちすくんでしまった。

「どうしたの? お尻がまだ痛い?」

 くすりと笑った嶺村に図星を突かれ、大貴は真っ赤になってしまった。

「じゃあ、こっちにおいで。こっちの椅子の方が、まだ座り心地が良いからね」

 全て見通しているような優しい笑顔で、嶺村は大貴をガラスの檻の方へと促す。

 案内されたのは、『猫』を観賞する、あの特等席だった。

 まだ電気は付けられていないが、わずかずつ屈折したガラスを使っているガラスの檻は、外側から見るとキラキラと宝石のように輝いている。

 複雑な気分で中のベッドを見つめていた大貴は、銀のトレーにシャンパンのボトルとグラス二脚を載せて戻ってきた嶺村に、単刀直入に切り出した。

「あの……慎一さん。『猫』を辞めさせてください」

 すると嶺村は、驚いた様子もなく双眸を細め、穏やかに微笑んだ。

「遠からずそうなるんじゃないかって、思ってたよ。
 僕の占いは当たるって言っただろう?」

 くすくすと笑いながら、トレーをテーブルに置いた嶺村は、緊張の糸が切れて脱力した大貴の隣に腰を下ろした。

「──それで、千晴とは上手くやれてるの?
 ストーカーに襲われて、あいつの家に引っ越したって、電話で聞いたけど。
 大ちゃん、怪我とかしなかった?」

「ストーカーに関しては、まあ、そんなに大した事は無かったんですけど……」

 口ごもった大貴は、わずかに腰をもじつかせた。

 それの存在を意識した途端、顔が熱くなってくる。

「千晴との事は……その、何というか、成り行きで……。
 でも、慎一さんが言ってたことが、よく判りました」 

 にやにやしていた嶺村は、考え込むように首を傾げた。

「あれ……何か僕、言ったっけ?」

「言いましたよ──『ド変態』って」

 訴える大貴の瞳が涙目になると、嶺村は盛大に噴き出し、腹を抱えて笑い始めた。

「笑い事じゃないですよ!
 どーしてくれるんですか、こんな事になっちゃって!」

 大貴の必死の訴えは、さらなる笑いを誘っただけだった。

「……だ、だけどさ。大ちゃんは千晴の事が好きなんだろう?」

 苦しげな声で笑いを堪えながら、嶺村がそう切り返してくると、大貴はむっつりした顔で黙り込んだ。

「それを認めるのは……今でもちょっと抵抗があるんですけど……」

 ほとんど独り言のようにぼそぼそと呟いた大貴は、顔の筋肉を震わせながら笑わないように努力している嶺村をきっと睨みつけた。

「それより、説明してください! あの那波って人は何者なんですか!」

「あれ、千晴から聞いてないの?」

「一応、教えてもらいましたけど──何となく納得がいかないというか……」

 嶺村から視線をそらし、大貴は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。

 その様子を見つめ、嶺村は事実のみを語る淡々とした声で話し始めた。

「那波は、千晴の影みたいなものだよ。
 彼は千晴の付き人として、幼い頃から育てられてきたんだ。
 千晴は昔から、庄領家の後継ぎとして英才教育を受けてきたんだけどね。
 その教育方針の一環として、絶対に裏切らない忠犬になるようにと、従者として選ばれたのが那波だったというわけ」

「……忠犬?」

 大貴は思わず唖然としてしまった。

 そう言われてみると確かに、那波にはドーベルマンのような怖さが漂っている。

 寡黙で必要な事以外は一切喋らないが、庄領からは信頼されているようだった。

「とは言え、あの二人に肉体関係は無いらしいけどね。
 あの二人はお互いに、鏡に映る鏡像みたいなものだ。
 千晴は、鏡の中の自分を愛してしまうほど、ナルシストじゃない」

 冷静な声で断言した嶺村は、すっと指先を伸ばし、大貴の眉間に刻まれた皺を押さえた。

「まあ、那波に妬いちゃう大ちゃんも、なかなか可愛いけどねえ。新鮮、新鮮♪」

「や、妬いてなんかいませんよ!
 同じ家に住んでるから、ちょっと気になっただけで……」

 慌てて額を押さえた大貴は、恨めしげに嶺村を睨んだ。

「──そんな事より、じゃあ、どうして那波さんが俺の『求愛者』になったんですか?」

「千晴は、君とデートした後、自分の代理人として『ファロス』に那波を送り込んできた。
『猫』の求愛者は、二回続けてはゲームに参加できないルールなんだ。
 だから千晴は、自分の影として那波を『求愛者』にエントリーさせ、無事にここに座る権利を競り落とした。
 他の男に、この椅子を奪われないようにするためにね」

 そう言って、嶺村はぽんぽんとソファの肘掛けを叩いて見せた。

「まあ、そのお陰で、ずいぶん儲けさせてもらったけどね。
 今までも『猫』は沢山いたけど、結果的に、大ちゃんが一番高く売れたかなあ」

「た、高くって……まさか、俺は知らない間に売られてたってことですか!?」

 愕然として声を上げると、嶺村は人の悪い笑みを浮かべて、大貴の頬を軽くつまんだ。

「僕が、ボランティアで『ファロス』をやってるとでも思ってたのかい?
 結構維持費だってかかるんだよ、ここ。
 そもそも、人件費がバカにならないからねえ」

 大貴が茫然としている横で、嶺村は楽しげにシャンパンの栓を抜いた。

「寂しくなっちゃうけど、大ちゃんには本当に感謝しているよ。
 だから、いつでも遊びにおいで──今度はお客として、千晴と二人でね。
 他の『猫』たちも、そうやって時々遊びに来てくれるんだ」

「はい、卒業祝い」と、グラスを渡された大貴は、複雑な気持ちで金色の液体を見つめた。

「『猫』がもらわれていく時は、いつもお祝いのシャンパンを開けるんだ」

「……もしかして、『猫』がすぐ辞めちゃう理由って、俺と同じですか?」

「ほとんどが、そうだねえ。
 やっぱり、恋人が見世物になって、喜ぶ男はいないからさ」

 嶺村の言葉を聞いた大貴は、自棄になってグラスの中身を飲み干した。

──と、その時、倶楽部『ファロス』の防犯を担当するダークスーツ姿の警備員が、嶺村に声をかけてきた。

失礼します。建物に侵入しようとした若者を拘束しましたが、いかがいたしましょう?
『大貴を出せ』 と騒いでいるのですが……」

 警備員の視線がちらりと向けられ、二杯目を飲んでいた大貴はむせそうになった。

「おやおや、大ちゃんの知り合い? じゃあ、とりあえず連れてきて下さい」

 理事長の言葉に、強面の警備員は一礼した。

 そして程なく連行されて来たのは、厳ついダークスーツ姿の警備員に、がっちりと両脇を固められた遼真だった。

「──遼真!? 何やってんだ、お前?」

 大貴が驚きの声を上げると、警備員に敵意を剥き出しにしていた遼真は、途端に気まずそうに顔を背けた。

「……君が遼真君? いいよ、放してあげて下さい。
 大ちゃんの前では、見苦しく暴れたりしないだろうから」

 好奇心をそそられたのか、嶺村の声が輝いた。

 命じられた警備員は両腕を放したが、なおも用心するようにその場から離れなかった。

「何してんだよ、お前?」

 大貴が改めて問い詰めると、嶺村がくすくす笑いながら言葉を重ねた。

「大ちゃんのストーカーが、ここにも一人いたね」

 その言葉を聞いて、遼真はじろりと嶺村を睨みつけたが、表情にはありありと戸惑いが浮かんでいた。

「さしずめ、大ちゃんが悪い男に弄ばれてるんじゃないかって、心配してたんじゃない?
 まあ、でもせっかく来たんだから、一緒に卒業祝いしようか」

 嶺村はそう言うと、近くから一人がけのソファを警備員に運ばせ、自分はバーにグラスを取りに行った。

 嶺村が大貴の傍から離れると、遼真は逡巡した末にぼそりと呟いた。

「確かに、あの人の言う通りだ。
 お前がどこに行くのか気になったから、大学から後をつけてきた。
 引っ越したって噂は聞いたけど、それがどこなのか判らなかったから、心配だった。
 ……この間の事、ずっと謝りたいと思ってたんだけどな」

 そこで一度口を噤んだ遼真は、目を瞠った大貴の前で頭を下げた。

「その……すまん。俺が悪かった。
 お前の事いろいろ考えてたら、何か頭がおかしくなってたみたいだ。
 お前がウリなんか、するわけないよな」

 反省している遼真の顔を見ていると、大貴は何とも言えない微妙な気分に陥った。

 確かに、自分自身の意思で「ウリ」などやるつもりは無かったが、結果的に似たような事になっているのだから笑い飛ばせない。

「……もう、いいよ。とりあえず、そこに座れ、遼真」

 キスをされた事も、そもそも自分がおかしな事を言い出さなければ、きっと遼真は血迷わなかったに違いない。

 だから結局、先日の一件は水に流すしかないのだ。

 促されるままソファに腰を下ろした遼真は、しかし思い詰めたような瞳で大貴を見つめた。

「だけど……お前の事がずっと気になってたって言うのは嘘じゃない。
 ただ、ダチだったから、何も言えなかっただけで──」

 いつになく真摯な眼差しを向けてくる遼真を、大貴は唖然と見返してしまった。

(──マジかよ!?)

 酒に酔った勢いで告白されたなら受け流しようもあるが、完全に素面では、どう反応すれば良いのか判らなくなる。

 大貴が思わず目線を泳がせると、新しいグラスを遼真の前に置いた嶺村が、叱りつけるように言った。

「ほら、大ちゃん。ちゃんと答えてあげないと。
 ここまで来たら、曖昧にしない方がいいと思うよ。
 遼真君はちゃんと言ったんだから、君もはっきりさせなさい」

 悪戯っぽく微笑む嶺村が、何故か遼真の肩を持つ。

 ことなかれ主義の大貴にとって、こんな形で白黒はっきりさせろと言われるのは、なかなかの苦行だった。

「ええーと。遼真は…その、やっぱりダチだから。
 そういう関係は考えられないっつーか……」

 考えられる限りはっきりと言ったつもりだったが、わずかに落胆の色を浮かべる遼真よりも、嶺村の視線の方が冷ややかだった。