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今夜、あなたの猫になる



<33>



「大ちゃん……千晴の事は内緒にしとくんだ?」

 その言葉にぎくりとして、大貴は慌ててソファから立ち上がった。

「や、止めてください! あいつの事は、まだ完全に納得した訳じゃないんですから!」

 しかし遼真は、その名前を聞いて怪訝な顔をした。

「──千晴? 誰だ、それ?
 いつの間に彼女作ったんだよ、お前?
 例の『女子アレルギー』はどうなったんだ?」

 どうやら遼真は、名前を聞いて勘違いをしたらしい。

 すると、遼真が座っているソファの肘掛けに、浅く腰を下ろした嶺村が、狼狽している大貴を見つめて微笑んだ。

「あのねえ、遼真君──女の子みたいな名前だけど、千晴はれっきとした男だから。
 大ちゃん、千晴と付き合い始めたらしくてねえ……。
 だから、ここも今日で辞めちゃうってわけ」

 平然と暴露した嶺村の顔には、慈悲深い観音様からはほど遠い、性悪な微笑みが浮かんでいた。

「うわあーッ! 違います! まだ付き合うって決めたわけじゃないですから!」

 顔を真っ赤にして大声を上げる大貴を見つめ、遼真はがっくりと肩を落とした。

「可哀想に、失恋しちゃったねえ。
 でもね、遼真君──好きになったら、さっさと告白しとかないと。
 ぼやぼやしてると、好きな子は他の誰かに攫われちゃうよ。
 特に、君はずっと、大ちゃんの傍にいたんだから」

 往生際の悪い大貴を完全に無視して、嶺村がシャンパンをグラスに注ぎながら、落ち込んでいる遼真を優しい声で諭す。

 しばらく沈黙していた遼真だったが、小さな仕草でうなずいて見せた。

「ほらほら、もっと飲みなさい。
 失恋の痛手は、自棄酒で発散するに限るから」

 勧められるがままグラスを空けた遼真に、嶺村がさらにシャンパンを注ぐ。

 どうやら、倶楽部『ファロス』の麗しき理事長は、遼真に目を付けたらしかった。

「──ところで、遼真君。ここでバイトしてみない?
 ちょうど大ちゃんが辞めちゃったところで、困ってるんだけど。
 バイト代は、一日一万円だから悪くないと思うよ?」

 完全に蚊帳の外に置かれた大貴は、遼真と嶺村のやり取りに、かつての自分の姿が重なるような気がして、深々と溜息をついた。

(……俺も、ああやって誘われたんだったな)

 優衣に振られて、偶然入ったバーで自棄酒していた時、嶺村が近づいてきたのだ。

 初対面ではあったが、大貴は親身になってくれる彼に、いつの間にか優衣との破局を洗いざらいぶちまけていた。

 そうして、アルバイトをしないかと、言葉巧みに勧誘されたのだった。

「バイトって……何をすればいいんですか?」

 聞き返す遼真の言葉も、以前の自分と似たようなものだった。

「あのガラスの部屋の中にいて、この倶楽部のメンバーを楽しませてくれればいい。
 我々はその存在を『猫』と呼んで、可愛がっているんだけど」

 嶺村は、かつて大貴に語った時と同じ言葉で、遼真にも『猫』を説明した。

(飲み食い代はタダだし……良いバイトだと思ったんだけどな。
 まさか、こんなオチがつくとは考えてなかったけど──)

 ちびちびと舐めるようにシャンパンを飲みながら、大貴は思い出に浸った。

 あの時は振られて自棄になっていたせいもあって、変なバイトでも気が紛れるなら、何でも良いと思っていたのだ。

 だから、遼真も自分と同じように、『猫』を引き受けるのではないかと大貴は思った。

 ところが、遼真の答えは意外なものだった。

「──遠慮しときます。俺は、可愛がられるより、可愛がる方が好きなんで。
 だいたい『ネコ』って、ゲイ用語で『受け』の事でしょ?
 俺はケツ掘られるの嫌ですよ。どうせヤるなら、突っ込む方がいい」

 じろりと遼真に睨まれ、大貴は硬直した。

(……こいつ……今、何て言った?)

 思考回路が混乱し、フリーズを起こしかける。

 すると、そんな大貴に悪戯っぽい流し目を向けた嶺村が、くすくすと笑い出した。

「あらら……やっぱり、バレちゃった?
 普通はすぐに勘づくんだけど、大ちゃんは意外に世間知らずだったからねえ。
 まあ、プライドが高いくせに、やんちゃで無邪気なとこが可愛かったんだけど」

「──大貴……まさかお前、マジで気づかなかったのか?」

 嶺村の言葉を聞いて、遼真が呆れ果てたと言わんばかりの目を向けてくる。

(つまり、俺は……今まで何も気づかないで、お気楽に『猫』をやってたわけか……)

 すぐには立ち直れないくらいのショックを受け、大貴は頭を抱え込んだ。

 金と食べ物に釣られて、割りの良いバイトだと喜んでいたが、嶺村の本当の意図に全く気づいてなかったのだ。

 どうやら、最初から自分の尻は、男に狙われていたらしい。

「──何で、教えてくれなかったんですか!」

 自分の無知があまりにも恥ずかしくて、大貴は顔を真っ赤にして嶺村に噛みついた。

「だって、教えたら逃げちゃうでしょう?
 せっかく捕まえた可愛い子猫を、逃がすわけにはいかないよねえ。
 だから、君には随分気を遣ったんだよ」

 にこやかに微笑む嶺村の笑顔は、もう「観音様」には見えなかった。

 どこから見ても、彷徨える子羊を誑かす悪魔の微笑でしかない。

「お前も、ホント、抜けてるよなあ」

 遼真の言葉が、さらに追い打ちをかける。

 事実だけにもはや何も言い返せず、大貴は顔を覆うしかなかった。


 その後、倶楽部『ファロス』の理事長のゲストとして、遼真と共に「卒業祝い」の夕食に招待された大貴は、終電に乗り損ねないうちに立ち去ることにした。

 嶺村に気に入られた遼真は、何やかんやと構われながら、いまだに『ファロス』の中に残っている。

 大貴に告白した時点で、倶楽部への入会選考基準──「男性同性愛者であること」は、条件を満たしたと認められたらしい。

 陽気な他のメンバーから、大貴への失恋を慰められていた遼真は、意外に楽しそうにビリヤードなどに参加していた。

「……大丈夫かな、あいつ」

 全く大丈夫ではなかった自分と同じ轍を踏むとは思わないが、やはり場所が場所だけに心配だった。

 そのまま真っ直ぐに帰るのは何となく癪だったため、大貴は途中のコンビニに立ち寄った。

 ふと思い出し、道路に面した雑誌コーナーで、グラビア雑誌をぱらぱらとめくってみる。

(確かに、『女子アレルギー』は出なくなったよなあ……)

 あれほどコントロールが難しかったというのに、最近は大学で女子に囲まれていても、全然鼻水が出ない。

 彼女たちの存在が気にならなくなったというより、最近バタバタしすぎていて、それどころでは無かったのだが──。

 胸の谷間も露わな水着姿のグラビアアイドルを、大貴はしばらく眺めていた。

 真っ白で、柔らかそうな胸元に、やはり自然に視線は吸い寄せられてゆく。

 華奢な肩も、くっきりとくびれたウエストも、丸みを帯びたヒップも、どれも男の躰には無い曲線美で、ついつい鼻の下が伸びそうになった。

(……あれ? マジで俺、アレルギー治ったとか?)

 三十秒もすればアレルギー反応が起こるのだが、今日はその予兆も感じられない。

 他の写真を見ても、目も鼻もすっきりしたままで、あの不快なムズムズ感がやって来ない。

(確かに、優衣と会った時も平気だったけど──)

 それ以前だったら、彼女の事を考えただけで胸が苦しくなったりしていたのだが、実際に会った時にそういう異常は出なかった。

(もしかして……このまま治ったら、また女の子といちゃつけたりするかも?)

 急に大きな期待が湧き上がり、大貴はちらりと奥まった店の片隅へ視線を向けた。

 気恥ずかしさをぐっと我慢しながら、大貴はさらに強い刺激を求めて、18歳未満購読禁止コーナーへと移動した。

 これは実験だと自分に言い聞かせ、格好悪いとか恥ずかしいといった感情を抑えつける。

 窓ガラスに映った自分の姿をちらりと一瞥して、ごく普通の、そこら辺によくいる若い男でしかないと自身を納得させようとした。

 そしてとりあえず、一番表紙に抵抗感が無い雑誌をさり気なく手に取って、パラパラとページをめくってみる。

 だが、扇情的なエロ漫画を目にしても、肉体は何故か反応しなかった。

 まるで別世界から、自分とは異なる生物を冷静に観察しているような気分になり、色情が全くシンクロしない。

 首を傾げつつも、内心で奇妙な焦りを感じ、大貴はページをさらにめくった。

 ところが、アナルセックス特集が目に入った瞬間、ぞくりとした官能が生まれ、躰の奥に火が点いた。

(──……や、やばいかも!?)

 無理矢理男に肛門を犯され、悲鳴を上げながらも感じている女の姿に自分が重なると、何故か耳元で囁く庄領の声まで蘇ってくる。

 ところが、欲情しそうになった途端、ペニスの付け根がきつく締め付けられ、大貴は思わず息を止めていた。

 慌てて雑誌を棚に戻し、何事も無い風を装って店の外に逃げる。

 しかし内心は、歩く姿勢が変に前屈みになっていないだろうかと、焦りまくっていた。

「……ちくしょ……千晴のヤツ、変なモノ、付けさせやがって……」

 敏感な肉に食い込む金属の感触に呻き、大貴は思わず電信柱に手を突いてしまった。

 深呼吸を繰り返し、興奮が鎮まるのをじっと待つ。

 どうやら、庄領千晴という男に注ぎ込まれた甘淫の毒は、大貴の肉体を根底から狂わせてしまったらしい。

 ノーマルだった自分の性癖が、気づかない間に変化していた事に、大貴はショックを感じていた。

 再び歩けるようになると、今度は寄り道をせずに、真っ直ぐ庄領邸に戻ることにした。

 正門の外にあるインターフォンを躊躇いながら鳴らすと、「お帰りなさいませ」と応じる那波の声が響いた。

 ロックが解除され、人が出入りする通用門から中に入った大貴は、やけに長く感じる玄関までの道のりを、溜息混じりで歩いていった。

「お帰りなさいませ、大貴様」

 玄関のドアは、大貴がノブに手をかける前に、那波の手によって開かれた。

 恭しく一礼する那波の腕の中には、アンズが居心地良さそうに抱かれている。

(……どうして、こいつに慣れたんだか)

 複雑な気持ちを抱えつつも、大貴は床に下ろされたアンズを撫で回し、自分の腕に抱き上げた。

「ただいま、アンズ。寂しくなかったか?」

「先ほどキャットフードを完食して、その後は、家中を元気良く走り回っておりました」

 聞いてもいないのに、那波が律儀に報告する。

(……また、俺がやるより先に、餌をやっちゃったのかよ!?)

 アンズが那波に懐いた理由──それは、餌をくれる人だと、しっかり認識したためだった。

 大貴が朝起きられずにいた時、那波が代わりに餌をやってくれたのだが、それからはすっかり懐いてしまった。

(このままじゃ、俺がアンズに見捨てられるんじゃねーのか?)

 そんな不安が胸をよぎり、大貴は思わず恨めしげに那波を睨んだ。