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今夜、あなたの猫になる



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 忙しく働く男たちのために、倶楽部『ファロス』は土日や祝祭日も開館していた。

 年中無休なのだが、休日はランチメニューも出しており、ディナーも満席になるため、平日よりもレストランやバーは盛況であるらしい。

「今夜、僕の友人が店の様子を見に来るんだ。
 でも、愛想振り巻く必要はないし、いつも通りにしていたらいいよ」

 顔を合わせて早々、嶺村がそう言った。

 大貴が了解すると、嶺村は衣裳の入った紙袋を置きながら、不思議そうに首を傾げた。

「元気ないねえ、大ちゃん。顔は珍しくスッキリしてるけど、また何かあったの?」

「──すみません。久しぶりにアレルギーの薬飲んだら、なんか眠くて。
 まあ、お陰で鼻水に悩まされなくていいんですけど」

 うっすらと霞みがかっているような頭で考えながら喋っていた大貴は、紙袋を引き寄せ、中の衣裳に目を向けた。

「……今日はタキシード…ですか?」

 黒の上下にマットなシャンパンゴールドのベスト、グレーのシャツにベージュのタイ。

 まるで結婚式の新郎のようだと思っていると、嶺村が麗しき「観音様」の微笑みを浮かべた。

「大ちゃん、躰締まってるから、似合うと思うよ。
 今日来るのが金持ちのぼんぼんだから、たまには礼装でも面白いかと思って」

「金持ちのぼんぼんって……慎一さんだって、そうじゃないですか」

 この『ファロス』は、完全に嶺村の趣味的産物で、彼自身は生涯働かなくても暮らしていけるお金持ちだった。

「あいつに比べれば、僕なんて大したこと無いよ」

 本気なのか謙遜なのか判らなかったが、嶺村のその言葉は、大貴の好奇心を刺激した。

「どんな人なんですか、その人?」

「えーとね。一言で言えば、ド変態」

「……それじゃ、全然判りませんって」

 大貴が苦笑しながら突っ込むと、嶺村は優雅に首を傾げ、悪戯っぽく微笑んだ。

「これ以上は教えてあげない。
 気になるなら、自分で観察してみればいいよ。
 でも、あんまり関わらない方が大ちゃんのためかもね。
 あいつに惚れると、ろくな事にならないから」

「ほ、惚れるって何ですか! 俺は男には全然興味無いんです!」

 大貴がわめくと、嶺村は拗ねたようにそっぽ向き、妖艶な流し目を大貴に向けてきた。

「僕を前にして、そういう冷たい事言っちゃうんだ。可愛くないねー」

「だから〜」

「はいはい。お喋りはここまで。今日もお仕事、よろしくねー」

 なおも言い募ろうとする大貴をあっさりとあしらい、嶺村は観音様のように微笑んだ。



 タキシード姿でベッドに寝転がっているのは、いつも以上に落ち着かない。

 大貴は内心で溜息をつきながら、ネクタイをゆるめ、シャツのボタンを外した。

「着崩してもいいよ」と言われていたが、やはり見栄えが悪いかと思い、最初はびしっと決めていたのだ。

 だが、時間が経つにつれてやはり窮屈になり、嶺村の友人もなかなか現れないため、気が緩んできてしまった。

 そうなると、スーツやタキシードを着慣れていないせいもあり、息苦しく感じてしまう。

 喉元が緩むと楽になり、大貴は猫顔の仮面の上に掌を乗せた。

 今日は黒猫──模様のコントラストがはっきりしているせいか、いつもよりセクシーな雰囲気が漂っている。

(……今、何時だろう?)

 何故かいつもより時間が長く感じられた。

 テレビでも備え付けてあれば暇潰しもできるのだが、このガラスの檻の中には、ベッドと小さなサイドテーブルしかない。

 何もしないでゴロゴロしているのは、時に苦痛になることもあるのだった。

(まあ……こんな楽なバイトで、文句なんか言えないけどな)

 倶楽部『ファロス』の売上に、自分が貢献できているのかいまだに疑わしく思いながら、大貴はうたた寝を始めた。

 体内時計が正確ならば、もうすぐ午前零時。

 不意に、誰かに見られているようなくすぐったさを肌で感じた。

 そのまま顔を横に倒すと、ガラス部屋の向こう側に、背の高い男が立っていることに気がついた。

 怜悧な印象のある男の顔立ちは、美術の時間にデッサンしていた胸像のように秀麗で、凛々しい。

 感情をうかがい知ることのできない硬質な眼差しを向けられた瞬間、大貴の心臓に、刺し貫かれたような衝撃が走った。

(──あれは!?)

 がばっと躰を起こしそうになった自分を何とか抑え込み、大貴は掌をきつく握り締めた。

(どうして、あいつが……)

 忘れもしない男の顔だった。

 地下鉄で痴漢に遭ったあの日、よりによって大貴を痴漢だと勘違いした男。

 大貴の心の中に、あの時の屈辱と恥ずかしさが一気に蘇ってくる。

 ところが、男は何も気づかない様子で踵を返すと、『猫』を一番近くで観賞できる特等席に戻り、そこで待っていた嶺村に声をかけていた。

 二人が何を話しているのか、大貴の所までは届かない。

 分厚いガラスは防音効果があり、外側の音は完全に遮断されていた。

(つまり……あいつが、慎一さんの『お友達』ってことか)

 掌に汗が滲んでいるのを感じながら、大貴は深く息を吸い込み、荒立つ気持ちを落ち着けようとした。

『猫』の仮面を付けている限り、あの男に気づかれることは絶対にないだろう。

(さっさと帰りやがれ、バカ野郎)

 心の中で罵声を浴びせた大貴は、男と交わした苦々しい会話を思い出しながら、わざと特等席に背を向けた。




「……本当にすみませんでした。
 俺が汚したスーツ、クリーニングに出してお返しします」

 人の流れを避けた駅構内の案内板の前で、大貴は頭を下げて男に謝罪した。

 混み合う車内でのアクシデントだったとはいえ、不可抗力ではなかった。

 前々からアレルギー症状に悩まされていたのだから、マスクをするなり薬を飲むなりして、予防しておかなければいけなかったのだろう。

 男のスーツやネクタイ、シャツを、自分の鼻水で汚してしまったことに、大貴は自責を感じていた。

 ところが、衣服に飛び散った汚れを淡々と拭き取っていた男は、怒った風もなく、物静かな声で言った。

「それは困る。君に汚された服を渡すと、裸で帰らなければならないだろう?」

 その長身に見合った低い声は、騒々しい地下構内でもはっきりと大貴の耳に届いた。

「じゃ、じゃあ……クリーニング代出します」

 思いがけない答えに狼狽えてしまい、大貴はとっさに言い返した。

「君から金を取るほど困ってはいない」

 あっさりと言い切った男は、困惑した大貴の顔を見下ろし、唇を微笑の形につり上げた。

 見惚れてしまうほどの美形なだけに、その冷ややかな笑顔は、空恐ろしくさえ感じる。

 圧倒され、怯みそうになる自分を奮い立たせた大貴は、瞳に力を込めて睨み返した。

 すると男は深い黒瞳を細め、謎めいた微笑を湛えたまま大貴を見つめた。

「そんな事より……さっきの痴漢は君だろう?
 ずっと君の様子を見ていたから、そうだとしか思えないんだが」

 その瞬間、忘れていた屈辱と怒りがぶり返した。

「──お、俺じゃないです! だいたい、あれは、ちょっと当たっただけで……」

 むきになって声を荒らげると、男は皮肉げな流し目を大貴に向けた。

「やはり、君だったか。鼻水を垂らしながら痴漢行為とは恐れ入る。
 あの人混みで盛るほど、君は欲求不満だったのか?
 体調が優れないように見えたのだが、君の行動は、私の想像を超えていた」

「だから……違うって!」

 怒りに赤面し、握り締めた拳がぶるぶる震えた。

(こ…こいつ……性格悪っ!)

 先ほどから薄々感じていたが、どうもこの男は、強く出られない自分をいたぶっているような節がある。

 不愉快になり、眉間に皺を寄せて大貴がそっぽ向くと、男はひとしきり笑った後で言った。

「まあ、いい。今日はいつになく面白いものを見せてもらった。
 君に感謝しなければならないほどだ」

 その言葉に唖然とし、大貴が「はあ?」と首を傾げると、男は急に真顔になった。

 口許から微笑が消えると、怖いほど冷徹な雰囲気が立ちこめる。

 漆黒の瞳に見すえられた大貴は、顔の筋肉すら動かせなくなり、その場に立ち尽くした。

 男の長い手が緩やかに伸びてきても、身じろぐことすらできなかった。

「──ふががッ!」

 突然、鼻にハンカチが押しつけられ、大貴は飛び上がりそうになった。

「鼻ぐらいかんでおけ。間抜けに見えるぞ。
 今度女に手を出す時は、周りをよく見てからやるんだな」

 ハンカチの上から鼻を摘んだ男は、大貴の顔を自分に引き寄せるようにしてそう囁いた。

 そして、そのまま大貴を放り出し、何事も無かったように出口の方へ立ち去って行く。

 じんじんと痛む鼻を押さえて呻いていた大貴は、男の背中に向かって怒鳴った。

「だから、俺じゃねえって!」

 人の少ない階段を上がっていった男は、一度も振り返ることはなかった。

「何なんだよ、あいつは!」

 腹立ちを抑えきれず、男のハンカチを床に叩き付けた大貴は、不審者を見るような周囲の視線に気づくと、途端に顔を真っ赤に染めた。

(……畜生……覚えてやがれ)

 二度と会う事は無いと思いながらも、心の中で罵らずにはいられなかった。

 あんな風に誤解されて、世間では冤罪が生まれるのだ。

 女子高生のお尻に偶然触ってしまった事は綺麗さっぱり棚に上げ、大貴は悔しさのあまり拳を握り締めていた。