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今夜、あなたの猫になる



<5>



 男のことは無視をして、ふて寝してやろう。

 眠気はとうに吹っ飛んでいたが、大貴はそう決心した。

(ここに来るってことは、あいつもゲイか?
 偉そうな事言いながら、ド変態かよ。やだね〜)

 目を閉じた大貴は、頭の中で延々と悪口を言い続けていた。

 そうでもしなければ、男の存在が気になって仕方がない。

 何となく背中がムズムズしているのは、彼に見られているのではないかと、意識し過ぎているからだろう。 

 その時、ガラス部屋の内外を繋ぐドアが開き、銀のトレーを持った嶺村が入ってきた。

「大ちゃん、差し入れ。僕の友人から」

 思わずぎくりとした大貴は、サイドテーブルにグラスを置いた嶺村を見上げ、男に背中を向けたままゆっくりと上半身を起こした。

「『寝ているところを起こして悪かった』だってさ。
 欲しいものがあったら、何でも言ってよ。
 全部あいつにつけておくから」

 返答に窮した大貴は、どうしたものかと考えた。

(突っ返して、恥をかかせてやりたいけど……慎一さんの前じゃなあ……)

 腹の中に積もったどす黒い悪意を、大貴は辛うじて理性で抑え込んだ。

(ここはむしろ……散財させてやった方が良いかもな)

 逡巡した末に、グラスを受け取ることにする。

 猫顔の仮面の下で、大貴がにんまりと笑った時、嶺村がにこにこしながら言った。

「それからね。あいつが『ゲーム』に参加するって」

 その言葉に驚愕し、大貴は思わず背後を振り返っていた。

 男は長い足を組んで優雅にくつろいでいたが、大貴の視線に気づいたのか、手に持っていたグラスをわずかに掲げて見せる。

 客席の方が暗くなっているため、男の表情は見えないが、それでもキザな仕草にムカついてしまい、大貴はすぐに嶺村の方に向き直った。

「……ゲームって、今日からですか?」

 声が憮然としていたからか、嶺村は訝しむように片眉をつり上げた。

「そうだよ。だけど、珍しいね。大ちゃんが露骨に嫌がるなんて」

「す、すみません──そういうわけじゃなくて、考え事をしてただけなんですけど……」

 自分の子供っぽい態度を反省し、大貴が慌てて謝ると、嶺村は急に楽しげな笑顔になった。

 腰を屈めて顔を近づけた嶺村は、不意に片手を伸ばし、大貴のうなじを引き寄せた。

「別に構わないよ。
 大ちゃんが、あいつを袖にしたところで、それはそれで見物だからね。

 自信過剰な千晴様には、良い薬だろう」

 耳に吐息を吹きかけられ、大貴は思わず仰け反りそうになった。

「……ち、千晴様?」

 裏返った声で聞き返すと、嶺村は大貴から離れ、にっこりと微笑む。

「昔、クラスメイトからそう呼ばれていたんだ。
 あいつの名前は庄領千晴(そうりょう ちはる)──庄領組の十五代目」

「そ、庄領組って……まさか、ヤクザ、とか?」

 途端に顔を引きつらせた大貴の言葉に、嶺村は吹き出した。

「違うよー。庄領組は、いわゆる土建屋さん。
 もともと由緒ある宮大工の棟梁の家系なんだ。
 禁裏や江戸城の建造にも関わっていたらしいよ」

「キ、キンリって……」

 預金や借金の利息とは全然違うもの──それは一応、判っている。

 つまり、日本の首都東京のど真ん中にある、緑豊かな別世界、皇居の事だった。

(おいおい……冗談じゃねーよ)

 何だかよく判らないが、平凡なサラリーマン家庭に生まれた大貴には、全く無縁の世界である。

 この倶楽部『ファロス』に出入りしている男なのだから、間違いなくお金持ちなのだろう。

(そういや……『君から金を取るほど困ってはいない』とか、嫌味ったらしく言ってたよなあ)

 まるで、下々の者を見下したような、あの上から目線な態度にムカついた。

 だが、どうしてそんな男が、大貴を相手に『ゲーム』をしようと思い立ったのか──。

 とは言え、『猫』に拒否権は無いのだ。

 向こうが参加を表面したなら、相手をしなければならない。

 それが倶楽部『ファロス』の『猫』に与えられた、一番重要な仕事だった。



 駅から自転車で十五分ほど離れた場所に、大貴が住んでいる木造二階建てのアパートが建っていた。

 午前三時ともなれば、街の明かりはほとんど消えて、辺りは静まりかえっている。

 歩行者の姿は見当たらず、車もほとんど通らない。

 大通りから住宅街に入る路地に面した、高い生け垣の陰に埋もれているような一階の角部屋──そこが、大貴の住居だった。

「アンズ、ただいまー」

 玄関ドアを開けると、茶トラ柄の雌猫が、長い尻尾をぴんと立てて迎えに出てきた。

「おかえり」と言うように、ちょっと高い声でニャーンと鳴き、靴を脱ぐ大貴にすり寄ってくる。

 自分を見上げる愛猫のあまりの可愛さに、大貴の鼻の下はでれっと伸びていた。

「アンズ」の名前の由来となった猫の瞳は、明るいオレンジ色に輝いている。

 部屋に上がった大貴は猫を抱き上げ、にやけ顔のまま頬ずりをした。

 ゴロゴロと喉を鳴らすアンズも大人しく抱かれている。

「お前さえいてくれれば、俺は幸せだ」

 半ば本気でそう呟いた大貴は、アンズを床に下ろして六畳程度の部屋を横切った。

 ベランダに面した窓を開けて夜風を通すと、蒸し暑くなっていた部屋の中がすっきりする。

 しきりに餌を催促するアンズに定量のキャットフードを与えた大貴は、ユニットバスの中に置いてある猫用トイレを片付け始めた。

 帰宅後の日課を済ませると、着ていた洋服を洗濯機の中に放り込み、ブリーフ一枚になって冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。

 ペットボトルに口をつけて水を飲みながら、窓際に置かれたシングルサイズのパイプベッドに腰を下ろす。

 ベッドの他に家具らしいものといえば、折り畳み式のローテーブルと、本棚代わりのカラーボックスが三つだけ。

 たったそれだけでも、部屋の中は狭苦しく感じられた。

「バイト代は良いけど、とりあえず、貯金しとかなきゃなあ」

 倶楽部『ファロス』で『猫』をやり始めてから、収入は格段にアップしたが、一年の期限付きであることを考えると、あまり無駄遣いはできない。

 しかし、そう考えた途端、庄領千晴の冷然とした美貌を唐突に思い出し、大貴は盛大に顔をしかめた。

 よりによって、あの忌々しい男が、『求愛者』となったのだ──。

 倶楽部メンバーから、『七日間の求愛』と呼ばれているゲームは、大貴には面白さが全く判らない奇妙なルールだった。

 まず、ガラスの檻にいる『猫』を気に入ったメンバーが、ゲームへの参加を宣言する。

 参加者は『求愛者』と呼ばれ、スタートから七日間、何があっても毎晩クラブハウスに通い詰め、『猫』のリクエストを満たさなければならない。

 求愛される『猫』は、クラブハウス内のレストランやバーだけでなく、他店の食事や、高価なプレゼントを自由にリクエストすることができる。

『求愛者』に対して何を要求するかは、『猫』の判断に任されているが、『求愛者』の都合でゲームを終わらせることは、いつでも可能だった。

 だが、素顔の『猫』と会話し、食事をする権利は、七日間をクリアした『求愛者』のみに与えられる。

 途中でゲームから降りてしまえば、二度と同じ『猫』に求愛することはできないのだ。

(食事に行く権利って……つまり、キャバクラとかの同伴って事だよなあ。
 でも、顔も声も判らない相手に、そこまで貢ぐか、普通?)

『猫』は仮面で常に顔を隠しているため、『求愛者』は相手がどんな顔をしているのかさえ判らないのだ。

 声も届かない『猫』に、どうやって接近するか。

 そして『猫』が人に戻った時、それが『求愛者』の期待通りだったかどうか。

 その辺りに、楽しみとスリルがあるのだと、嶺村は言っていた。

 そして他のメンバーは、七日間の過程や結果を見物しながら、面白がっているらしい。

(まったく……何が面白いんだかな)

 金持ちが考えることは、平凡な庶民には理解できないらしい。

 憂鬱な溜息をついた大貴は、ゴロンゴロンと気持ち良さそうに身をくねらすアンズを見下ろし、眉間の皺を緩めた。

 どんなに嫌な事があっても、愛猫の姿を見ているだけで、荒んだ心が癒されてゆく。

「やっぱ、もうちょっと広い部屋の方がいいかなあ」

 20平方メートル程度のワンルームでは、猫のトイレを置く場所さえ困ってしまうのだ。

 それに、「一人」でこの部屋の中で過ごしているアンズの事を考えると、もっと伸び伸びと遊べそうな部屋に引っ越したくもなる。

 餌を食べ終え、ベッドの上で満足したように寝転がっているをアンズを撫でながら、大貴は真剣に考え込んだ。

 可愛い愛猫の事を考えている時は、あの嫌な男の顔も思い浮かんでくることはない。

(そういえば……アンズは女の子だけど、俺のアレルギーは出たことないよなあ)

 以前、遼真が言っていた。

 大貴の女性アレルギーは、「恋愛対象として意識する女性限定」なのだと。

 身内の母親や、知り合いのおばちゃんたち、恋愛対象外の幼い女児などに対しては、全く反応しないのだ。

 そして、対象範囲内の女性であっても、大貴が意識しなければ、さほど強い反応は起こらない。

 逆に、少しでも「可愛い」などと思ってしまうと、一気にアレルギー症状が出てくる。

 実験と称する合コンや、遊びに大貴を連れ出した遼真が、その結果を見て言った。

「まあ、爺さんみたいに枯れちゃえば、治るんじゃねえの?」

 ペットボトルをローテーブルに置いた大貴は、近頃めっきり大人しくなった自分の股間に視線を注ぎ、盛大な溜息をついた。

(……勃たねえもんなあ、最近)