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今夜、あなたの猫になる



<9>



 刺々しい雰囲気を漂わせながら倶楽部『ファロス』のドアを抜けた大貴は、いつもより速歩でバーカウンターに近づいた。

「……慎一さん」

 美しいカットが施されたクリスタルのグラスを磨いている嶺村に、大貴は声を掛けた。

 振り返った嶺村は、大貴の顔つきを見て、驚いたように目を瞠った。

「不機嫌そうな顔だね、大ちゃん。
 もしかして、また痴漢に襲われたの?」

「またって何ですか、またって……。
 男の俺が痴漢に遭うなんて、もう二度と無いですよ。
 縁起の悪いこと、言わないで下さい」

 憮然とした顔で言い返した大貴は、いつものスツールには座らず、そのままカウンターテーブルに身を乗り出した。

 しばらく沈黙したまま、こつこつとグラスを磨く嶺村をじっと観察する。

 大貴より数センチほど背が高いものの、ほっそりとした嶺村は、「観音様」と呼ばれるに相応しい中性的な容姿をしていた。

 肌理の細かい肌は色白で美しく、唇もほんのりと赤く色づいている。

 形の良い唇から時々飛び出す下品な言葉さえ気にしなければ、同性とは思えないような美人だった。

 一大決心が鈍らないうちに、大貴は重大な用件を切り出した。

「それより、慎一さんにお願いがあるんです」

「──お願い? 何だい?」

 グラスを片付けた嶺村が、もの柔らかな微笑みを浮かべたまま首を傾げる。

 その優しい顔から目をそらさないようにしながら、大貴は思い切って告げた。

「俺にキスしてください」

「……はい?」

 あまりにも唐突な言葉に、さすがの嶺村も面食らったのか、長い睫毛を瞬かせた。

「だから……俺に、キスしてくれませんか、慎一さん」

 もう一度、はっきりとした口調で大貴がそう告げると、嶺村は吹き出して笑い始めた。

「何を言い出すかと思えば……熱でもあるの、大ちゃん?」

「笑うことないじゃないですか。俺はいたって真剣なんです」

 むっとして大貴が言い返すと、嶺村は腹を抱えて笑いながら、耐えられないとでも言うようにテーブルを拳で叩いた。

「真剣ってさ……そんな怖い顔で言われても……」

 苦しげに息を喘がせながら笑っていた嶺村は、ようやく笑いを収めると、涙ぐんだ瞳で大貴を見返した。

「キスはいいけど──どうして急に?
 あんなに嫌がっていたじゃないか、ノンケだからって」

「どうもこうも……慎一さんなら、ちょっと良いかなって……」

 大貴が思わず口ごもると、カウンターに頬杖を突いた嶺村は、悪戯っぽく双眸を細めた。

「こっちに来る気になったんだ。
 だから僕で、とりあえず試してみようかってこと?」

「そういうわけじゃ……ないんですけど……」

 半分外れで、半分正解。

 後ろめたさを感じて瞳をそらすと、嶺村の指先が、大貴の顎をついと仰向かせた。

「いいよ、キスしてみようか。
 思いっきり、ディープなヤツを、たっぷりと……」

 艶然と微笑んだ嶺村に怯み、大貴は腰が引けて、仰け反りそうになった。

「……ディ、ディープ?」

 思わず顔を引きつらせると、嶺村は親指の腹で大貴の下唇をなぞり、白皙の美貌を寄せながら囁いた。

「子供じゃないんだから、唇にチューだけなんて、思ってないよねえ?」

「……え? ええ……まあ、そうですよねえ。
 大人ですもんねえ、俺たち」

 内心の動揺を慌ててごまかしながらも、大貴の顔は青ざめた。

 本当は、唇にチューだけで良かったのだが……いまさら、後には引けない。

 自分から頼み込んだ事とはいえ、いざ禁断の扉を開ける瞬間になると、全身がガチガチに緊張してしまった。

(……は、早まったんじゃないのか、俺!?)

 瞼をぎゅっと瞑ったまま棒立ちになっていた大貴は、吐息が唇に触れた途端、激しい違和感に苛まれた。

 死にもの狂いで拳を握り締めなければ、危うく嶺村を突き飛ばしそうになった。

 ところが、実際に唇に触れたのは、水の入った冷たいグラスだった。

「バカだねえ、大ちゃん。
 倶楽部内で『猫』に手出しはできないルールだって、教えただろう?
 それに、『求愛者』がいる『猫』にキスをするなんて、もっとマナー違反だ」

 優雅に頬杖をついた嶺村はくすくすと笑い、呆気に取られている大貴をじっと見つめた。

「そんなに男とキスがしたいなら、千晴に頼めばいいじゃないか。
 『猫』のリクエストなら、『求愛者』は応える義務がある。
 要求に応えられないなら、ゲームオーバーになるだけだし」

「あの人は……何か、嫌なんです」

 むっつりと呟いた大貴は、はあっと盛大な溜息をついて、頭を横に振って見せた。

「すみません、慎一さん。今の、忘れてください」

「せっかくの大ちゃんからのお誘いを、断るのは辛かったんだけどねえ。
 だけど理事長の僕が、ルールを破るわけにはいかないじゃないか」

 からかうように言った嶺村は、カウンターの下に身を屈め、大きな紙袋を取り出した。

「そうそう……今日は、これね」

 いつものように『猫』の衣裳が入っているはずだが、今日の紙袋は呆れるほど大きく、中身が溢れ出すほど嵩張っていた。

 怪訝に思いながら、大貴が袋の中身を取り出してみると、モフモフとした感触の着ぐるみが出てきた。

「──なっ……何ですか、これ?」

 唖然として訊ねると、嶺村はくすくすと笑った。

「昨日、大ちゃんが着ていた服に、クレームが入ったんだよ。
 あまりにも扇情的すぎて、けしからんってね。
 大ちゃんが色っぽく千晴を誘惑したから、余計だろうねえ」

「……本当に……申し訳ありませんでした」

 シャンパンに酔った勢いでやらかしてしまったが、あの行動が、倶楽部の品位を貶めているとメンバーに思われたのかもしれない。

 基本的に、この倶楽部『ファロス』には、紳士的な人たちが集まっている。

 一年間のアルバイトとはいえ、『猫』になる条件の中にも、「館内の雰囲気を壊さない事」とあるのだ。

 自分の失敗にしょげ返っている大貴に、嶺村は明るい声で言った。

「僕は別に気にならなかったけど、一人だけね。
 理事の一人だから、無視するわけにもいかないし。
 そういうわけだから、今日はコレで。
 この衣裳、そのクレーマーからの注文だから、今日一日は我慢してくれないかな。
 被り物もあるから、今日は仮面を付けなくてもいいよ」

 最後にテーブルの上に置かれたのは、頭部をすっぽりと覆うような、大きな猫の顔だった。



 これはいったい、どういう罰ゲームなのか──?

 猫の着ぐるみの中で考え込んでいた大貴は、蒸し暑さに音を上げそうになった。

 ガラス部屋の中は適温に保たれているが、通気性の悪い着ぐるみの中に押し込められていると、だんだん息苦しくなってくる。

 外の様子はほとんどうかがい知れないが、さぞやメンバーたちの笑いものになっているだろう。

(ムカつく……ってか、誰だよ、こんなモノ持って来やがったヤツは……)

 某巨大テーマパークのキャラクターたち──その中にいる人たちの苦労を実感しながら、大貴は溜息をついた。

 何とか躰を起こし、部屋の外に出たいと、ガラスのドアを叩く。

 大貴の意思表示を察して、すぐにボーイがドアを開けてくれた。

「……ちょっと、トイレ行ってくる」

 裏方に回った大貴は、ボーイに手伝ってもらいながら、ようやく着ぐるみから脱出した。

 従業員用のトイレに入り、汗をかいた顔を洗った大貴は、大きな鏡に映った自分の顔を睨みつけた。

(やっぱり……慎一さんじゃダメか?)

 嶺村が言ったように、彼にキスを迫ったのは、男相手に自分がどう感じるのか、試したかったから。

 中性的な嶺村が相手なら、同性という嫌悪感が薄れるのではないかと考えていたが、大貴の躰は本能的に彼を拒絶していた。

 微妙な違和感──言葉にすれば「なんかダメ」という感覚。

 だが、男相手がダメというなら、どうして、庄領の愛撫にあんなにも反応してしまったのか判らない。

(それとも、まだ、あんまり溜まってないせいか?)

 すっきりしてしまった翌日だから、肉体が正常な本能に従って、男を拒否したのだろうか?

 そもそも自分はノンケで、男には興味無いのだから、その可能性は十分にあり得る。

 着ぐるみに戻りたくないということもあり、トイレの個室に引きこもったままうだうだ考え込んでいると、遠慮がちにドアがノックされた。

「大ちゃん、大丈夫? 倒れてない?」

 嶺村の声で我に返った大貴は、慌てて便座から立ち上がった。

「すみません──ちょっと暑くて、頭がぼーっとしてました」

 これは嘘ではない。

 すると、わざわざ大貴の様子を見に来たらしい嶺村は、心配げな顔になり、「やっぱり暑いよねえ」と呟いた。

「しばらく、外で休んでていいよ。千晴には、体調不良だって言っておくから」

「まさか……もう来てたんですか、庄領さん?」

 あの不格好な着ぐるみ姿を見られたのだろうか? 

 大貴が顔を引きつらせると、嶺村は首を縦に振って、くつくつと笑った。

「君に何かあったんじゃないかって、心配していたよ。
 出て行ったきり、帰って来ないからさ」

 大貴は思わず顔を歪め、自嘲的に笑った。

(あいつの場合、心配してるわけじゃねーよなあ。
 おバカな見世物が無くなって、つまんなくなっただけじゃないのかよ?)

 ひがみっぽく考えると、それでまた気分が悪くなる。

 そんな男に、どうしてろくに抵抗もせず身を任せてしまったのかと、今さらながらに自分を不甲斐なく思った。