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天に歌い 大地と踊る



第1章 半月の子

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 グレイズの店を出たサイラは、空になった荷台にスヴァルを乗せた。

 荷馬車を出そうとした途端、後方から大きな蹄の音が聞こえ、鎖帷子(くさりかたびら)をまとった騎士が慌ただしく通り過ぎてゆく。

 その勢いに怯えたように、サイラのロバは道の端へ寄ろうとする。

 背後を確認したサイラは、ナフトに励ましの言葉をかけ、用心深く荷馬車を移動させた。

 今日はいつになく武装した騎士の姿をよく見かける。

 騎士がまたがる巨大な軍馬に比べれば、ロバのナフトは哀れなほど小さく見えた。

 用心していないと何が起こるか判らない。

 身分の高い貴族や騎士たちからすれば粗末な荷馬車でも、サイラやナランにとっては大切な財産だった。

 多くの人々や荷馬車が行き交う大通りから、あまり人気の無い路地に入ると、目指す居酒屋食堂の看板が見えた。

 色の褪せた看板には、白い酒盃(ゴブレット)に入った麦の穂と葡萄が描かれている。

 この店に入れば、麦酒(ビール)や葡萄酒(ワイン)にありつけるという目印だった。

 店の前に荷馬車を止めたサイラは、スヴァルの首にしっかりとした革の首輪を嵌めた。

 その首輪に鎖を通し、馬やロバを繋ぐ横棒の支柱に固定する。

「ちょっと待っててね、スヴァル。ご飯を食べてくるから」

 どれほど賢くても、混雑する食堂内にスヴァルを連れていくことはできない。

 サイラにとっては飼い犬のような存在だが、スヴァルは見た目も明らかに狼であるため、忌み嫌われることも多いのだ。

 とはいえ、こうして繋いでおけば、町に迷い込んできた野生の狼に間違われることもないだろう。

 いつも一緒にいるスヴァルと離れるのは心細かったが、サイラは鼻を鳴らす白狼の頭を撫で、馴染みになっている食堂の扉をくぐった。

 食堂の主人ノルドは、ナランの弟エドの長男であり、元猟師だった。

 イノシシに襲われて右足が不自由になったため、ノルドは猟師をやめ、キーレの町に食堂を開いた。

 やがて肉料理が美味いと評判になり、いつも腹をすかせた客で賑わうようになったのだ。

 エドの息子という気安さもあり、サイラもいつの間にか常連の一人になっていた。

「こんにちは、ノルド。今日は何が食べられるの?」

 厨房に面した立食席からサイラが声をかけると、ノルドは大粒の汗をぬぐいながら振り返った。

「久しぶりだな、サイラ。今日は鹿を焼いたんだ。親父が捕ってきたやつだぞ」

 破顔したノルドは、切り分けた鹿肉を木皿に載せ、コケモモと木苺のソースをかける。

「今日は親父の所に泊まっていくのか?」

 朝一番で焼いたというパンを添え、ノルドは皿をサイラに渡した。

「これから帰ると真夜中になるから、泊めてもらおうと思ってるんだけど」

「じゃあ、親父に会ったら言ってやってくれ。『今日の鹿は最高だった』って」

 にやりと笑ったノルドは、真鍮のジョッキに麦酒をなみなみと注ぎ、サイラに手渡した。

 料理の皿とジョッキをそれぞれ左右の手で持ち、サイラは空いているテーブルを探した。

 店内は今日も混んでおり、どのテーブルも客で埋まっている。

 とはいえ、人見知りの激しいサイラには、相席するなど考えられない。

 ようやく店の角に小さな空きテーブルを見つけ、ガタガタと揺れる椅子に腰を下ろす。

 ノルド自慢の肉料理を黙々と食べていると、隣の席から商人らしき男たちの会話が聞こえてくる。

「王弟殿下がマディヤルを訪問しているらしいが、やっぱりタリフェ王女との結婚話か?」

「王様のお妃は姉姫の方だったろ?
 王族同士の絆が深まれば、しばらく両国は安泰だろう。
 俺たちにとっては願ってもない話だ」

 麦酒のジョッキを持ち上げたサイラは、商人たちの話を、遠い世界の出来事のように聞いていた。

「……マディヤルはタリリア山脈を越えた先だな」

 サイラが住んでいる山の家は、タリリア山脈のほぼ南端にある。

 峻厳な尾根を越えていけば、マディヤル王国にたどり着くこともできるが、あまりにも険しい崖道であるため、人々はキーレから西へ続く大平原を抜けて行く。

 山間の細い道を辿るのは、ほとんどが密猟者か犯罪者だと噂されていた。

 けれどサイラは、そのような人間に出会ったことは、今まで一度も無い。

 サイラが物思いに耽っていると、いつしか商人たちの政治談義は白熱していた。

「だが、反アゼリス派の奴らには面白くない話だろう。
 いまだに『アゼリスは反逆者の国』だと叫び続けているんだぞ」

「マディヤルのルヴァン王は親アゼリス派だ。
 今さら二つの国を、一つにまとめようなんて思ってないんじゃないか?
 そもそも、病弱なオディアス王が死んだら、王子を後見すればいいだけの話だ。
 娘のシンフェ王女が生んだ子なんだから。
 戦をしかけなくても、マディヤルの影響力は今よりもずっと強くなる」

「むしろ王弟にとっては、王位を狙う絶好の機会じゃないか? 
 王太子はまだ幼いし、その王太子に何かあったら、王弟が玉座に座れる。
 ここでマディヤルの支持を得ておくのは悪いことじゃない」

 商人たちの会話は、サイラにはさっぱり理解できなかった。

 政治を語る商人への興味が薄れ、サイラは食堂内を見回した。

 商人の姿が一番多いが、農夫や職人らしき男も見える。

 みな酒が入って声が大きくなっており、他人の事など気にも留めていない。

 食事を終えたサイラは、混み合う食堂から早く出ようと立ち上がった。

 スヴァルが今か今かと待っているだろう。

 ところが急に酩酊感に襲われ、視界がくらりと揺れた。

 頭がぼんやりと霞み、足許がふらつく。

 日頃飲み慣れない酒を飲んでしまったからだろうか?

 サイラは自分を叱咤するように踏ん張った。

 空になった食器を両手で支え持ち、サイラはゆっくりと歩き始めた。

 床が波打つようにふわふわしている。

 大騒ぎする人の声がやけに大きく聞こえ、黒い人影が伸びたり縮んだりしながら、目の前を行ったり来たりしている。

(だめだ……気持ち悪い)

 暗い食堂の中に灯された蝋燭の炎が、この世ならぬ陰影を作り出し、サイラを幻惑する。

 異常なほど聴覚が研ぎ澄まされ、耳を塞ぎたくなる──その時。

「……いいか、聖舞師(せいぶし)、舞闘師(ぶとうし)もろとも、皆殺しにしろ」

 声音を抑えた低い囁きが、サイラの耳に鋭く突き刺さる。

 あれほど賑わっていた店内が一瞬しんと静まり、その言葉だけが大きく弾けた。

 雷に打たれたように棒立ちになり、手から食器が落ちる。

 何かに引っ張られるように、サイラは物騒な声の持ち主を呆然と見つめていた。

 不気味な顔の男だった。

 顔の大半が青いアザで覆われており、細くつり上がった右目の周りだけが白く浮いている。

 頬骨の張ったのっぺりとした顔立ちで、頑丈そうな顎が張り出し、薄い唇が嘲笑の形につり上がっていた。

 皿が床に落ちた音で、その男はサイラに気づいたようだった。

 細い双眸が糸のように眇められ、サイラを睨み付ける。

 その瞬間、全身が凍りついたように冷たくなり、鳥肌が立った。

 同時に周りの喧噪が戻ってくる。

 青アザの男の言葉に気づいた様子もなく、他の客は相変わらず賑やかに騒ぎ続けていた。

「俺の顔がそんなに珍しいか?」

 青アザの男がゆらりと立ち上がる。

 その周りを固めていた数人の男たちもまた、一斉に振り返り、サイラを見て殺気立った。

「……何だぁ、お前? 遊んでほしいのか」

 男たちは立ちつくすサイラをすばやく囲み、恐ろしい声で恫喝した。

 その荒っぽい迫力にサイラは怯えてしまったが、それでも青アザの男から目を離すことができない。

 仲間の男たちとは格が違う。

 この群を率いているのは、間違い無く青アザの男だった。

「おら、何とか言えよ!」

 立ちすくむサイラの肩を、男の一人が強い力で押した。

 床に突き飛ばされたサイラは、その衝撃でようやく我に返った。

 這いつくばったサイラを見下ろし、男たちは嘲るようにゲラゲラと笑っている。

(──逃げなきゃ!)

 真っ白になった頭の中で、自分自身の悲鳴が谺する。

 全身の血液が狂ったようにドクドクと鳴り響き、サイラは息苦しさに喘いだ。

 逃げ場を探して周囲を見回したが、男たちの太い足で囲まれてしまっている。

 ところがその中に一つだけ、黒革の長靴(ブーツ)に包まれた優雅な足が見えた。

 思わず見上げると、壁際の椅子に座っている人物と目が合う。

 だが、そんな気がしただけかもしれない。

 その人物は、黒い革の仮面で顔全体を覆い、両目があるはずの穴も薄い布地で隠していた。

 黒の仮面には、銀糸で美しい象徴模様が描かれている。

(……夜の神ニュヴス)

 天律(てんりつ)の神々の中で、夜と月を司ると伝えられる神。

 夜の神の仮面をつけるにふさわしく、その人物は全身が闇に包まれているように見えた。

 黒い布を頭に巻き付けて髪を隠し、喉元まで覆っている。

 革製の胸甲の上から、たっぷりと漆黒のマントを巻き付けており、ズボンや膝まである長靴、帯にいたるまで真っ黒だった。

 青アザの男も不気味だが、この黒装束の人物もまた異様だった。

 まるで彫像のように動かず、それでもサイラを冷ややかに見つめる眼差しだけは感じ取れる。

 青アザの男よりは細身だが、武装しているせいで、男なのか女なのかさえ判別できない。

 その時、サイラは自分の頭巾が払い落とされたのを感じ、はっと後ろを振り返った。

「……何だ、可愛いお嬢ちゃんじゃねえか」

 猛り立っていた男たちは、サイラの顔を認めた途端、下卑た笑みを浮かべる。

「お嬢ちゃんなら、可愛がり方を変えてやらないとなぁ」

 男たちは欲望を露にして笑い、サイラの細い腕を掴み上げた。

「は、離せ! ぼ、僕は……お嬢ちゃんじゃない!」

 黒衣の人物に見入ってしまった自分の愚かさにも腹が立ち、サイラは抗いながら声を上げた。

 だが、細く震える声が、男たちをさらに面白がらせる。

「ちゃんと喋れるじゃねえか」

 男たちは嘲笑い、テーブルの上に置かれていた酒器や料理の皿を乱暴に払いのけた。

 床に落ちた食器が騒々しく鳴り響く中、男の一人がサイラの腰をテーブルに押しつける。

「どれどれ……本当にお嬢ちゃんじゃないのか、確かめてみるか」

 背後から抱きついてきた男が、ごつごつした固い手でサイラの胸元をさぐり始める。

 その無遠慮な手つきに、サイラの全身は粟立った。

 生まれてから一度も、このような扱いは受けたことがない。

 両親に殴られたり、蹴られたりしたことはあったが、こんな──何かを確かめているような──気持ち悪い触り方は初めてだった。

「いい匂いをさせてるなあ、お前。
 こんな匂いをさせているのは、お貴族様か、ユラクの娼婦くらいなもんだぜ」

 サイラを押さえつけている男は、白い首筋に顔をうずめ、肌に舌を這わせた。

 男の一点が急に大きく膨らみ、その硬く強張ったモノを、サイラの尻にぐいぐいと押しつけてくる。

 ハアハアと喘ぐ男の生臭い息が首筋にかかり、サイラは本能的な恐怖を感じた。

「い、嫌だッ! 止めろ!」

 その時、テーブルの前に回り込んだ青アザの男が、サイラの琥珀色の髪をぐいと掴み上げた。

 髪を引っ張られる痛みに、思わず涙が滲む。顔をのぞきこんできた青アザの男を、サイラは息を止めて見返した。

「──お前、何を聞いたんだ?」

 青アザの男は、低くしゃがれた声で囁くように問う。

 サイラは大きく目を見開いたまま、射すくめられたように動けなくなった。

 言いしれぬ恐怖に囚われ、声も出せない。

 と、その時、ノルドの大声が響き渡った。

「困りますよ、お客さん。うちで喧嘩は止めてください」

 取り囲んでいた男たちがさっと離れるのを感じ、サイラは全身に安堵が広がるのを感じた。

 のろのろと振り返ると、ノルドが片手に恐ろしげな肉切り包丁を持ったまま仁王立ちになっている。

 ちらりとサイラを一瞥したノルドは、数々の修羅場をくぐり抜けてきた猟師の顔つきで、青アザの男をじっと睨みすえた。

「何があったか知らないが、ここは楽しく飲み食いする場所なんですよ。
 これ以上暴れるなら、出て行ってもらいます」

 青アザの男の迫力にも負けず、ノルドは堂々と言い放つ。

 父親のエドと同じく、獰猛な熊や狼とも対峙してきた男である。

 目をそらした方が負けだと言わんばかりに、青アザの男を睨みつけていた。

「悪かったよ。ちょっとした行き違いでね」

 先に折れたのは青アザの男だった。

 それを合図としたように、サイラにからんでいた男たちも、卑屈なほど頭を下げながら退散していく。

 最後に黒装束の人物が音もなく立ち上がり、乱れたテーブルの上に数枚の銀貨を放り出した。

 ノルドはそれを見て眉根を寄せたが、何も言わなかった。

 青アザの男と謎めいた黒装束の人物、そしてその仲間らしき数人が立ち去ると、食堂のあちこちから拍手が起こる。

 面倒事に巻き込まれたくないと思いつつも、男たちの物騒な行動を不愉快に思っていたのだろう。

「──大丈夫か、サイラ?」

 腰が抜けて床に座り込んでしまったサイラに、ノルドが心配そうに声をかけた。

 立ち上がるのを手助けしようと、サイラに手を差し伸べる。

 ところが、その大きな手を見た途端、先ほどの恐怖が躰中を冷たく駆け巡り、サイラは身を強張らせた。

「ご、ごめんなさい、ノルド。迷惑かけて……」

 深く息を吸い込むと、ざわざわとした不安が鎮まる。

 サイラはノルドの手を借りて立ち上がり、脱がされてしまった頭巾を被った。

 顔を見られないよう、顎の辺りまで布地を引っ張ると、ようやく少しほっとする。

「本当に大丈夫か? いったい何があったんだ?」

 心配するノルドにそう問われると、恐怖が蘇り、唇が震えた。

 恐ろしい青アザの男の言葉が脳裏を過ぎる。

『……いいか、聖舞師、舞闘師もろとも、皆殺しにしろ』

 あの男たちは、今からクセ聖殿の聖師(せいし)たちを殺そうとしているのだろうか?

 とっさに口を開きかけたサイラだったが、ノルドの顔を見返した瞬間、声が出なくなった。

 まるで悪夢の中のような出来事──青アザの男が本当にそう言ったのかどうかさえ、急に定かでなくなる。

 もしあれが、麦酒に酔った幻聴だったとしたら?

 黙り込んでしまったサイラを、ノルドは食堂の戸口まで見送りに来ると、すまなさそうに言った。

「これに懲りずにまた来てくれよ、サイラ。今度から傭兵には用心しておくから」

 サイラは「うん」と小さく頷いた後、ふと気になって「傭兵?」と聞き返した。

「ああ、多分あいつらは傭兵だ。金で雇われて殺し合う連中だよ。
 血の臭いをぷんぷんさせていやがる」

 ノルドは逞しい両腕を組み、不機嫌な顔つきで地面に唾を吐いた。

 あの男たちは殺し屋──これ以上関われば、無事では済まないかもしれない。

 ノルドに話せば、彼にも迷惑をかける。

(それに、きっと……舞闘師がいるなら、大丈夫だ)

 クセ聖殿の舞闘師は、武技を極めた強者ぞろい。

「皆殺し」になど、できるはずはない。

 あの男たちが言うほど、それは簡単な事ではないのだ。

 だから、自分が黙っていても何も問題は起こらない。

 あんな恐ろしい男たちの事は、もう二度と考えたくない。

 恐怖に怯えきっていたサイラは、心に残ったその言葉から、必死に耳を塞ごうとした。

 その時、荒れ狂う獰猛な唸り声を耳にして、サイラは荷馬車の傍に繋いであった白狼に駆け寄った。

「──スヴァル…ッ!」

 散々暴れたのか、地面には荒々しい引っ掻き傷が深々と残り、鎖を繋いだ木の棒には沢山の噛み痕ができている。

 サイラの悲鳴を聞きつけ、必死で助けに行こうとしていたのかもしれない。

 けれど頑丈な鎖は外れず、スヴァルはもがき続けたのだろう。

 まだ興奮が治まらず、背中の毛を逆立てて唸り続けるスヴァルの首を、サイラはしっかりと抱き締めた。

「……心配かけてごめんね」

 やがて獰猛な唸り声が少しずつ静まり、白狼が甘えるような鼻声を出す。

 サイラはスヴァルの顔を何度も撫で、小さく泣き笑いを浮かべた。

「今日はもう帰ろうか。疲れちゃったよ」

 どこよりも安心できる山の家に戻って、嫌な事はさっさと忘れてしまいたい。

 あの乱暴な男たちとは、二度と関わることなど無いはず──サイラはそう思っていた。