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春耀幻花


<10>



 夜は続いていたが、 世界は色を変えた。

 古びた澱みの中から、眩い光が散乱する大都会に、八尋は足を踏み入れていた。

「大丈夫だ。さあ、おいで」

 土蔵の扉をくぐる時、急に怯えて立ち止った八尋に、振り返った鷹巳が手を差し伸べる。

 冷たく見えるけれど、大きな手は温かい。

 しんと静まり返った瀬織家の門扉を出て、出迎えの車に乗り込むまで、鷹巳はずっと八尋の手を引いてくれていた。

 連れ戻されるのではないかとビクビクしていた八尋は、バタンと後部座席のドアが閉まると、ようやく深く息を吐き出せるようになった。

 夢を見ているのではないかと束の間ぼんやりしていたが、走り出した車の窓から、夜闇の中で輝く高層ビル群を目撃した途端、純粋な驚きと喜びが弾ける。

 道路の両側に高層ビルが立ち並ぶ明るい駅前には、信じられないほど沢山の人が歩いていた。

 林立するビルの間を縫うように走る首都高速道路はさながら遊園地のジェットコースター。

 カーブを繰り返しながらビルの間を走り抜ける車は、空中を飛んでいるようにも見える。

 赤と白に光る東京タワーがビルの間に出現すると、八尋は興奮して窓にしがみついた。

(──すごい! すごい、すごい!)

「八尋、これからの事だが……」

(ねえ、見て……あれ、東京タワーでしょう!?)

 満面の笑みで指差しながら八尋が振り返ると、鷹巳は仕方なさそうに苦笑する。

「スカイツリーならまだしも、今時、東京タワーで興奮するやつがいるとはな」

 きょとんとしつつも、窓の外に釘づけになっている八尋に、鷹巳は軽く手を振って「気にするな」とだけ告げた。

 まるで異世界に連れて来られたと感じるくらい、何もかもが違っている。

 瀬織家も同じ東京にあったはずなのに、違う時代にタイムスリップしてしまったようだった。

 竜宮城を訪れていた浦島太郎が地上に戻った時、八尋と同じように感じただろうか。

 ひとしきり感激した後で、八尋はふうっと息を吐き出した。

 革張りのシートに座り直すと、ずっと鷹巳に見られていたことに気づき、急に恥ずかしくなる。

(きっと、子供っぽいって、思ったんだろうな)

 それとも、大都会を知らない田舎者だと思っただろうか。

 どちらも合っているから、言い訳できないけれど。

 幼い頃に母と暮らしていた町は山間の田舎だったから、八尋の記憶にある外の世界は、ずっと時が止まったままだった。

 桜子の死後、東京見物をする間も無く土蔵に閉じ込められてしまい、世の中の移ろいを感じることができなかった。

 テレビは見ていたが、映像と実際に自分の目で見るのとでは迫力が違う。

 見慣れた風景なのか、鷹巳は顔色ひとつ変えず、ノートのような形の物に視線を落としている。

 タブレットと呼ばれている端末だろう。

 そのくらいは知っていると、秘かに心の中でにっこりする。

(これから、どこに行くの?)

 鷹巳の腕をそっと叩いた八尋は、運転席を指差し、自分にも指を向ける。

 首を傾げて見せると、意図が伝わったのか、鷹巳はちらりと窓の外を一瞥した。

「この車は、祇堂家の本邸に向かっている。
 少し郊外にあるから、あと二十分ほどはかかるだろう」

(鷹巳の、お家?)

 他にも誰か家族が住んでいるのだろうか。

 そういえば、鷹巳の事を、まだ全然知らない。

 知っているのは、祇堂鷹巳という名前だけで、彼が何者なのか判らなかった。

 八尋はまた窓の外に目を向けた。

 夜になっても煌びやかな街には人が溢れていて、お洒落な服装をしている。

 八尋のように着物を着ている人は見かけない。

 みんな洗練されていて、歩くのが速い。

(やっぱり……ぼくだけ、浦島太郎かも)

 いきなり別世界に来てしまって、周囲の流れについてゆけずに、取り残されているような心細さを感じた。

 やがて車は、瀬織家よりもずっと長い白壁に囲まれた屋敷に到着し、さらに黒々とした正門から緩やかに続く坂を上っていった。

 両側には街路樹が植えられ、等間隔に街灯が整備されているが、その奥には鬱蒼たる森が続いている。

(何だか、ここ……神社みたい)

 黒門をくぐった途端、空気が変わった。

 幼い頃、母と一緒に夏祭りの神社が、こんな雰囲気だった。

 闇に包まれると、何か恐ろしいものが飛び出してきそうな──。

 八尋の不安げな顔を見つめ、頬杖を突いていた鷹巳が謎めいた微笑を浮かべた。

「ようこそ、八尋。我らが迷い家(まよいが)へ」
 


 風呂の中には涼やかな檜の香りが満ちている。

 ふわふわと白い湯気の立つ浴槽に身を沈めていた八尋は、胸いっぱいに息を吸い込み、水の滴る両手をそっと握り合わせた。

 浴槽や洗い場の床、壁、天井にいたるまで檜の板が張られた浴槽は、大人が二、三人入っても余裕のある大きさだった。

 右手に丸く切った窓があり、石灯篭の立つ坪庭が見える。

 カコン、カコンと規則正しく鹿威しが響き、風流なその音に耳を傾けていると心が安らいでゆく。

 八尋が連れて来られた祇堂家の屋敷は、瀬織家を凌ぐ広大な日本家屋と、明治期に建てられたという洋風の館が組み合わさった建物だった。

 屋敷というより、小高い丘に建つ御殿のようでもある。

「迷い家」というのは、増築をするうちに迷子になる客人が続出したから、誰からともなくそう呼ばれるようになったらしい。

 戸惑っている八尋を促して車から降ろすと、鷹巳はそのまま手を引いて洋館の裏側へと回る。

 戸口の鍵を開けて中に入った鷹巳は、渡り廊下を抜けて日本家屋の方へと引き返すと、客間だという和室に八尋を招き入れた。

「今夜はここで休みなさい。
 おまえの部屋は、また改めて整えよう。
 おまえの持ち物は届けさせるが、足りないものはこちらで用意する。
 とりあえず今日は、ありあわせで我慢してくれ」

 風呂から上がった八尋は、脱衣所の床を濡らさないように長い黒髪を何度も絞り、藤製のベンチに置かれていた真っ白なバスタオルを巻きつけた。

 もう一枚、同じバスタオルがあることに気づき、濡れた躰に巻きつける。

 着替えなのか、漆塗りの乱れ箱に、純白の長襦袢と金魚の尻尾のようにふわふわした兵児帯が入っていた。

 絹の長襦袢には、寝間着にするには勿体ないような豪華な刺繍の半襟が縫いつけられており、花菖蒲の模様が織り込まれている。

 肌着や下着などは無く、肌の上に直接着なければいけないようだった。

 瀬織家にいる時も、長着を着るのが億劫で、日中は長襦袢姿で過ごすことが多かった。

 どうせ誰も来ないと諦めていたからだったが、さすがに夜には浴衣に着替えていた。

 正絹は洗うのが大変だから、できるだけ汚さないようにと、古参の使用人に言われていたのだ。

 悩んだ末に、八尋は長襦袢を肩に羽織る。

 腰紐も伊達締めも無いから、着崩れないよう、きつめに兵児帯を巻き付けた。

 前で蝶々に結び、余った部分は帯の間に挟み込んでおく。

 据え置かれていたドライヤーで時間をかけて髪を乾かし、ほっとしながら浴室の扉を開けると、ちょうど出たところに見知らぬ若い男が立っていた。

 びくりと硬直した八尋を見つめ、青年は柔和な微笑みを浮かべた。

「初めまして、お姫様。
 僕の名前は祇堂咲耶(ぎどう さくや)──以後、お見知りおきを」

 突然の挨拶に狼狽し、八尋がおろおろしていると、咲耶はにっこりと綺麗な笑顔になった。

 紺地に縞模様の浴衣姿だからか、その笑顔を見ていると、何となく親近感も湧いてくる。

 着物仲間がひとり。

 どうやら八尋だけが時代遅れというわけではないらしい。