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春耀幻花


<11>



 さらさらとした栗色の髪と鳶色の瞳をした咲耶は、厳しく硬質な雰囲気の鷹巳とは違い、穏やかな空気をまとっている。

 背丈は八尋より高いが、長身の鷹巳に比べると頭半分くらいは低いだろうか。

「僕もこの家の住人だから、怖がらなくても大丈夫。
 案内するから一緒に来て。
 ここ、迷い家って呼ばれてるんだ。
 初めて来た人はたいてい、道に迷う」

 肩を揺らさず一直線に歩く鷹巳と違い、咲耶の歩き方はどことなく艶があり、酔っぱらっているのか時々よろけていた。

 肩越しに八尋を振り返った咲耶の頬は上気したようにほんのりと染まっていて、長い睫毛に縁どられた目を細めると何とも言えない色気が薫る。

「この屋敷には、神様が住んでいて、訪れる人を惑わすんだよ。
 神様に嫌われた者は、二度と屋敷の中に戻れないから、姫も気をつけて。
 怒らせると、神様は鬼に変わるからね」

 神様と鬼……? 咲耶の言葉は謎に満ちていて、八尋は首を傾げた。

 咲耶は面白がるようにくすくすと笑うと、曲がり角で立ち止り、その先を指差す。

 仄暗い廊下の先に、そこだけぼんやりと明るくなっている和室が見えた。

「ほら、あそこが姫の寝室。
 鬼に襲われないように気をつけるんだよ。
 もしかすると、天井裏に潜んでいるかもしれない」

 脅かされると、ひとりで部屋に戻るのが急に怖くなる。

 環境が変わってしまったから余計に、どうしたものかと途方に暮れた。

 ふと首を巡らせると、八尋が考え込んでいたわずかな間に、今までそこにいたはずの咲耶が消えていた。

 立ち去る足音も聞こえてこない。

 幽霊を、見たのだろうか? 

 背中がぞっとそそけ立ち、八尋は明るい部屋の方へ駆け出していた。



 誰もいない和室に飛び込み、ぴしゃりと障子を閉めきると、ほっとして気が抜ける。

 いつの間にか寝床の用意がされていて、降り積もる疲労を感じた八尋は、引き寄せられるように敷き布団の上にへたり込んでいた。

 頭上に腕を投げ出してぱたんと仰向けになり、年輪の刻まれた立派な木の天井を見つめる。

 和紙で作られたモダンな行燈がぼんやりとした光を放ち、天井に綺麗な影を作っていた。

(咲耶さんって人に、からかわれただけかな)

 思い返してみれば、綺麗な幽霊には足があった。

 日本の幽霊には足が無いと、昔話で言っていたような気がするが、祇堂咲耶と名乗っていたし、やはりあの人はちゃんとした人間なのだろう。

 安心した途端、眠気が忍び寄ってきて、八尋はあくびをした。

 部屋は静かで、人が住んでいるのかと疑ってしまうほど物音がしない。

 けれど、この「迷い家」のどこかに、鷹巳がいるのだろう。

 あの咲耶という人も。

 八尋はひとりではないし、もう閉じ込められてはいない。

 うつらうつらと微睡みかけていると、瞼の裏に東京の夜景が浮かんでは消える。

 今度はもっとゆっくり、街を散策してみたい。

 はしゃぎすぎて、鷹巳は呆れていたようだったけれど、本当に楽しい時間だった。

 十年以上の幽閉生活の中で、あんなに心が解放された時は一度も無い。

 それからどのくらい時が過ぎたのか、すっと滑らかに障子が開き、ふわりと甘やかな香りが微風に乗って吹き込んでくる。

 睡魔に全身を絡めとられ、瞼を開けることもできずにいた八尋の頬を、傍に屈みこんだ誰かがそっと優しく撫でる。

 温かな掌の感触に安堵して微笑むと、頬をたどったその手が首筋に落ちた。

「寝相が悪いな。こんな格好でいると風邪を引くぞ」

 苦笑混じりの鷹巳の声に気づき、八尋はのろのろと瞼を上げた。

 ジャケットを脱いではいるが、鷹巳はベストを着用した姿のままで、ネクタイもわずかに緩められているだけだった。

 額に落ちた前髪とくつろいだ雰囲気が、隙の無い完璧な姿を崩しているせいで、かえって大人の男の色香が増している。

 八尋のうなじと膝裏に腕を差し入れた鷹巳は、難なく抱き上げると、ちゃんと布団に横たわるように躰の向きを変えさせた。

「慌ただしく連れて来てしまったから、疲れただろう」

 応じて瞬きをした八尋は、睡魔と闘いながら、重く感じる瞼を懸命に開いた。

(でも……楽しかったよ)

 教えられた通りに吐息で囁くと、顔を寄せて耳を傾けた鷹巳の手が、八尋の額にかかる長い前髪をそっと払う。

 こんなに優しくしてもらえるのなら、ずっと鷹巳の傍で暮らしていたいと思ってしまいそうだった。

「これから先は楽しい事ばかりではないだろうが、一年間だけ我慢して暮らせ。
 ここで何を見聞きしても、怪異を目にしても、おまえは誰にも話してはいけない。
 私の命令には、必ず従うんだ。約束できるか?」

 かいいって、何だろう?

 難しい言葉に疑問を感じたが、深く考えずに首を縦に振って見せる。

 つまり、ここであった事は誰にも話してはいけないのだと、自分なりに納得した。

 鷹巳は露わになっていた八尋の額に、唇で触れるだけのキスをする。

 肌が甘くさざめき、八尋はうっとりと目を閉じていた。

「不自由を強いる代わりに、おまえの意思はできるだけ尊重しよう。何か希望はあるか?」

(ほんと? ぼく、学校に行きたい!)

 ぱっと目を輝かせた八尋は、ずっと胸の奥に封印してきた望みを口にしていた。

 すぐに声が出ていないことに気づいて口を押さえ、そうっと落ち着いて囁きかける。

「学校に行きたい? それだけか?」

 注意深く耳を傾けていた鷹巳が不審げに声をひそめると、八尋は明るい笑顔になって大きくうなずいた。

 ずっと閉じ込められてしまって、小学校にも通えなかった。

 学校で友達を沢山作ることが夢だったのに。

 わくわくしながら見つめていると、鷹巳はひとつ溜息をもらし、思い悩むように額を押さえる。

「──判った。お前が入れそうな学校を探してみよう。
 確かに、おまえには基本的な教育が必要だ。
 学校が楽しいかどうかは……行ってみなければ、判らないだろうがな」

 感激のあまり飛び起きた八尋は、鷹巳の首根に抱きついていた。

 こんなに嬉しくなったのは、母が死んでからは初めてだった。

 誰も八尋のことなど気にかけてくれなかったから、どうしたいのか聞いてもらえただけでも嬉しくて、胸が爆発してしまいそうだった。

 八尋の躰を抱き留めた鷹巳は、興奮に赤らんだ頬に掌を添わせると、硬い表情をわずかに崩して微笑んだ。

 ずっと見たかった笑顔。

 心の中にきらきらとした感動が満ち溢れて、嬉しくて、嬉しくて、泣きたくなってしまう。

「あまり喜ぶな。私は、おまえを酷い目に遭わせる。泣くことになるぞ」

 懊悩するように呟いた鷹巳を見つめ、八尋は左右に首を振って見せた。

 そして、笑う──母が大好きだと言ってくれた、明るい表情で。

 その途端、突然、鷹巳の唇で、口を塞がれた。

 驚く間も無く、頭が真っ白になる。

 何が起こったのかも判らないまま、気づいた時には鷹巳と折り重なるようにして、八尋は布団の上に押し倒されていた。

 角度を変えて重なり合った唇の狭間から、熱く濡れた鷹巳の舌が深くまで侵入してきて、口の中を掻き回してゆく。

「……くっ…ふぅっ……」

 息苦しさに思わず口の力を抜いてしまうと、ぬるぬると蠢く舌が、怯えてすくんでいる八尋の舌を捕らえるように絡みついてきた。

 逃げられないように顎を押さえられ、口を閉ざすこともできないまま、唾液にぬめる舌が擦れ合う淫猥な感触に意識を奪われそうになる。

 生々しい欲望とは無縁であるかのように、どこまでも清廉で完璧にも見える鷹巳の中に、これほど激しい情欲が潜んでいるとは思いもしなかった。

 呼吸を乱して見上げると、深海のように暗く、蒼い鷹巳の瞳がある。

 まるで、海の闇に引き込まれてゆくようだった。