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春耀幻花


<12>



「忘れるな。おまえは今夜から、私のものになる」

 凄みのきいた低音が響くと、背筋に戦慄が走り、動けなくなる。

 気品と精悍さが見事に溶け合った顔が近づき、八尋はもう一度唇が奪われていた。

 鷹巳の唇は喉を伝い、肌を啄ばむように、繰り返し口づけを落としてゆく。

 逆らうことのできない陶酔に支配され、八尋は甘やかな感覚を追うように瞼を閉ざした。

『おうみ……おうみ──……』

 囁くように、声無き声を口ずさみながら、八尋は逞しい男の背中に両腕を回す。

 何も持たない自分が今、ただひとつすがりつけるのは、瀬織家から救い出してくれた鷹巳だけだった。

 不思議なほど温かな涙が頬を滑り落ちてゆく。

 泣きたくないのに……笑っていたいのに、どうして涙が溢れるのか判らない。

 涙の雫をぬぐうように、目尻に鷹巳の唇を寄せられ、瞼にも口づけがもたらされた。

(──早く、離れなきゃ……)

 芳沢に触れられた時には嫌悪感と寒気しか感じなかったというのに、どうして鷹巳に抱き締められるのは、こんなにも心地良いのだろう。

 堰を切ったように涙が次々と溢れ出し、八尋は広い胸に顔を伏せたまま嗚咽をもらした。

 こんな風に誰かに抱き締められて心が安らぐのは、いつ以来なのだろう。

 母が生きていた頃は、悲しい出来事があって泣いていると、温かい腕に包み込んで優しく慰めてくれた。

 母が亡くなってから、本当に心が慰められた事など、一度だって無かったというのに──。

「泣くほど嫌なのか?
 まだキスしかしていないというのに、こんなに泣かれては、先が思いやられる」

 苦笑しながら鷹巳が上体を起こそうとした時、八尋はまた独りぼっちで置き去りにされるような不安を感じ、思わずしがみついていた。

 涙で汚れた顔に強張った笑顔を作り、首を横に振ってみせる。

 わずかに身じろぎをしたものの、鷹巳は八尋を突き放したりはしなかった。

「泣きたいなら、無理に笑うな。今夜は、泣きたいだけ、泣いていい」

 いたわるような鷹巳の言葉が胸に沁み通り、心の中にぴんと張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れる。

 幼子のように八尋はしゃくりあげ、涙をぼろぼろと流し続けた。




 引き戸を開けるような軋んだ音が響き、明るい陽射しが差し込んでくる。

 夢も見ないほど深い眠りに落ちていた八尋は、安らいだ気持ちで目覚め、見覚えのない艶やかな木目の天井を見つめた。

(そうか……ここは、鷹巳の住む『迷い家』だ)

 昨夜は疲れていて気が付かなかったが、立派な床の間には瑞々しい紫陽花が活けられ、山水の水墨画が掛けられている。

 十畳ほどの和室の畳は青々としていて、夜闇を照らす行燈くらいしか家具が置かれていない。

 布団から起き上がった八尋は、夜着代わりの長襦袢を整えると、廊下に面する障子をそっと開けてみた。

「ああ、ごめんね。起こしちゃったかな。ちゃんと眠れた?」

 長い廊下の雨戸を開けていたのは、浴室を出たところで出くわした咲耶だった。

 浴衣姿だった咲耶は、今朝もまた渋い焦げ茶色の紬を着流しにしている。

 やはり幽霊じゃなかったと安心し、八尋は笑顔を作ってうなずいた。

「鷹巳さんは仕事に出かけちゃって、もういないんだ。
 彼が不在の間は、僕が君の世話をするようにって言われてる。
 他にも住人はいるんだけど、まあ、おいおい紹介するよ」

 カランコロンと下駄の歯音を響かせ、中庭から廊下に上がってきた咲耶は、居心地が悪くなるほど長い間八尋を見つめる。

 何か変だろうかと視線を泳がせると、咲耶は両手を伸ばして八尋の顔を押さえ、鼻先がくっつくほど近くまで覗き込んできた。

「紫水晶みたいな、ものすごく珍しい目の色だね、お姫様。
 君のこの眼に、鷹巳さんの邪視が惹かれたんだろうか」

 驚いて瞬きをすると、咲耶は意味深な笑みを浮かべ、八尋がまとう長襦袢の襟元を指先でなぞる。

「でも、君のその様子じゃ、新床(にいどこ)はまだだね。
 せっかく素敵な寝間着を用意してあげたいのに、手をつけなかったとはもったいない。
 あの人の鉄壁の理性、これでも崩れなかったのか」

 妖しく蠢く手からとっさに身を引くと、咲耶は軽やかな笑い声を立てながら、八尋が眠っていた和室を指差した。

「そんな無防備な格好で、うろうろしない方がいいよ。
 とりあえず、着替えと朝食を持ってくるから、待っててね」

 言葉数が少ないから鷹巳は何を考えているのか判りにくいが、饒舌な咲耶はもっと不可解だった。

 悪意が無いのは感じ取れるが、咲耶の言葉は時々八尋の理解を超えていて、惑わされてしまう。

 布団を畳みながら咲耶の言葉を思い返していた八尋は、頭を過ったひとつの単語に、ふと動きを止めていた。

(鷹巳の『じゃし』って……何だろう?)

 言葉の響きに該当する漢字が思い浮かばず、八尋は考え込んだ。

 咲耶は他にも「にいどこ」とか、難しい言葉を使う。

 やはり、ちゃんと勉強しなければ、人と話をするのは難しいのかもしれない。

 十分後、咲耶が運んできた朝食は、白ご飯も味噌汁もまだ湯気の立っている温かなものだった。

「いただきます」と手を合わせてみたものの、にこにこしながら見ている咲耶の前で、本当に食べてしまっていいのかと躊躇する。

 瀬織家ではいつも、芳沢の欲望を相手にしなければ、食事をすることさえできなかったから──。

「遠慮しないで食べていいよ。僕は早くに食べちゃったからさ」

 促されるように、豆腐とわかめが入った味噌汁のお椀を手に取った八尋は、口の中に広がった優しい味に感激した。

 美味しいと、舌が感じる。本当に美味しい。

 朝ご飯を作ってくれた桜子の顔を思い出してしまい、急に涙が溢れそうになった。

 唇を噛んで涙をこらえていると、すらりと立ち上がった咲耶が、中庭に面する障子や窓を開けてゆく。

「今日も暑くなりそうだ。
 どうせ出かけないから、浴衣の方が気楽でいいね」

 縁側に腰を下ろした咲耶は、のんびりと寛いだ様子で中庭を眺めている。

 こぼれ落ちてきた涙の雫を手の甲で拭った八尋は、咲耶の目がこちらに向かないことに感謝した。




 八尋が住むことになる離れの「水琴亭」は、洋風の応接間の隣に、広縁に囲まれた二間の和室と四畳半の茶室が続き、さらに厨房と食堂まである。

 他にも専用の洗面所や浴室、板間の物置などが備え付けられていた。

 咲耶によれば、プライバシーにうるさい客人専用の貴賓室ということだったが、実際のところは、あまり利用されていないらしい。

「母屋からは遠くて不便だけど、鷹巳さんのいる洋館からは近いからね。
 でも、寂しくなったら、いつでも母屋まで遊びにおいで」

 紫陽花柄の浴衣に着替えた八尋を案内しながら、咲耶が竹林の向こうに聳え立つ石造りの洋館を指さし、苦々しく笑う。

 説明によれば、祇堂邸の洋館は鷹巳の「城」で、家族はあまり立ち入ることがないそうだった。

 祇堂グループの会長であり、鷹巳の祖父である祇堂宗正の書斎、鷹巳の書斎と寝室、日本家屋に馴染まない海外からの客人への客室や、パーティーホールがあるが、特に用事が無い限り、咲耶は出入りしないらしい。

「他にも、地下牢とか拷問部屋とか、人様には見せられないようなモノが沢山あるって噂だよ。
 開かずの扉をくぐってしまったら、二度と外には出られない……とかね。
 自信過剰に見えて、意外に鷹巳さんは引きこもりがちだから、巣篭りしてる時は近づかない方がいいな。
 見つかったら、殺されちゃうよ」

 本気なのか冗談なのか判らないような事を言い、咲耶はにんまりと笑う。

(──地下牢に……拷問部屋?)

 深夜に見てしまった凄惨なホラー映画を思い出し、八尋はおののいた。

 足の無い日本の幽霊も不気味だが、血塗れのゴーストとかゾンビとか、そっちが出てきても怖い。

 あるいは凶器を持って追いかけてくる殺人鬼とか──。

 芳沢の腕を折った鷹巳の姿がにわかに恐怖となり、八尋は青ざめてしまった。

「あ、本気にしちゃった? 最後のは冗談だよ。
 さすがに殺されはしないだろうけどね。
 もっとも、何が起こるのかは、誰も判らない」

 びくびくしている八尋の姿を見て楽しんでいるようだったが、一瞬、眉根を寄せた咲耶の横顔に、憂いの影が過った。