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春耀幻花


<13>



 広々としていて起伏に富んだ祇堂邸の庭は、運動不足で鈍った八尋の足では巡りきれないほどだった。

 錦鯉が泳ぐ回遊池に注ぎ込む清流に沿って上がってゆくと、石造りの小さな鳥居と朱塗りの祠(ほこら)がある。

 祠の裏手には大きな山桜が生えていて、水辺の周りには紫陽花の色鮮やかな茂みができていた。

 他にも楓、芍薬、水仙など、様々な種類の植物がそこここに植えられており、自然美豊かな景観になっている。

「この祠は、祇堂家の守り神。五穀豊穣の水神様を奉っているんだ。
 だから、ここに来たら、ちゃんとご挨拶をしてね」

 岩場から流れ落ちる滝の音を聞きながら、咲耶に倣って神前の二礼二拍手一礼をすると、何となく頭の中がすっきりする。

 ふと祠の横にある紫陽花に目を向けると、根本の方からするりと白い蛇が這い出してきた。

 手首ほどもある大蛇に驚いた八尋は、後退って転びそうになり、思わず傍にいた咲耶の腕をつかんだ。

「ああ、あれ。神様の使いだから、大事にしてあげて。
 悪さはしないから大丈夫。
 お昼になると、岩の上で日向ぼっこしてるだけだから」

 咲耶の言う通り、白蛇は滝の淵に近い岩の上でとぐろを巻くと、そのまま置物のように動かなくなる。

 のんびりと笑いながら、咲耶は怯える八尋の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「良かったね、お姫様。白蛇が出てきたってことは、ここの神様に気に入ってもらえたってことだよ」

 咲耶の言葉はやはりどこか不可思議だったが、迷い家の神様に認めてもらえたなら嬉しい。

 ここの神様に嫌われたら、屋敷には二度と戻れない──咲耶はそう言っていたから。

 まだわずかな時間しか過ごしていないのに、早々と出て行かなくてはいけないとなると寂しすぎる。

 祇堂邸の雰囲気は怖いような気もするけれど、慣れてくれば冒険ができそうで、ちょっとわくわくし始めていた。

 水琴亭に戻る道すがら、咲耶が突然何かか思い出したように「あ」と声を上げ、立ち止って八尋を見下ろした。

「そういえば……御巫家は、ここの祠と同じ神様を奉ってる神社の家系だって、鷹巳さんが言ってたな。
 珍しい苗字だから、姫とも何か関わりがあるのかもしれないね」




 八尋の母、御巫桜子は、生まれ育った家や町のことを、ほとんど語ることがなかった。

 それゆえに八尋も、母の生家を気にすることはなく、むしろ父方の瀬織家のことばかり考えさせられる日々が続いていた。

(だけど、お母さんの首の痣は、血族にだけ受け継がれるって、前に言ってたことがある)

 母屋とほぼ同じ造りになった檜の風呂から上がり、八尋は鏡の前で、母の痣があった首筋に触れてみた。

 八尋の内股にも、桜子と同じような痣がある。

 見るのが恥ずかしい場所にあるから、自分で観察したことはあまりないけれど、そこはひどく敏感な場所だった。

 御巫家は、水神を奉る神社の家系──神の使いだという蛇と、何か関係があるのだろうか。

 桜の花びらを重ねた形の痣は、見ようによっては、昼間の蛇の鱗と同じにも見える。

(そういえば、鷹巳と最初に出会った時、ぼくの名前を確認していたような……)

 紙に書いて八尋と名乗ったけれど、御巫の家名は伝えていない。

 それなのに鷹巳は、「御巫八尋か?」と問うてきた。

 誰かから桜子の噂を聞いていたのだろうか。

 そして今宵、咲耶が寝間着と称して用意した長襦袢には、奇しくも純白の鱗柄が織り出されていた。

 三角形が重ねられたシンプルな文様だが、蛇の鱗を表しているのだという。

「鱗文様は、魔除けの意味があるんだよ。邪気を払ったり、鬼を払ったりね。
 水神様へのご挨拶も済んだし、丁度いいでしょう?」

 絹の長襦袢を寝間着にしてはもったいない。

 浴衣で良いと断ろうとしたのだが、結局、「いいから」と押し通す咲耶の勢いに呑まれてしまった。

 とはいえ、女物の長襦袢を咲耶が着るはずはないのだが、どこから持って来るのだろう。

 布団の敷かれた和室に戻ると、いつの間にか咲耶はいなくなっていた。

 水琴亭にひとり残されてしまうと、土蔵に閉じ込められていた頃の寂しさが蘇ってきて、辺りの静けさが急に怖くなってくる。

(一年間、ここで我慢しろって、鷹巳は言ってたけど……)

 敷布団の上で膝を抱えた八尋は、顔を伏せて溜息をついた。

 今日はずっと咲耶と一緒に過ごしていて、彼の話を聞いていたから、ひとりきりの寂しさに苛まれることはなかった。

 物知りな咲耶は、八尋を退屈させないように、いろんな話を聞かせてくれた。

 これから先、咲耶は八尋の先生になってくれるのだという。

「礼儀作法とか、食事のマナーとか、いろいろ教えるようにって、鷹巳さんから言われてるんだ。
 そのうち姫を、みんなの前にお披露目するからって。
 祇堂家の嫁にふさわしいかどうかを値踏みされるから、本当に大変だよ。
 母さんなんか、今でも苦労ばっかりだし」

 咲耶の母、祇堂千佳子(ぎどう ちかこ)は、祇堂家の現当主である宗政の後妻となったが、若いがゆえに「金目当ての毒婦だ」と親戚中から罵倒されたらしい。

 周囲から憎まれてしまう状況が自分とよく似ていたため、八尋は千佳子や咲耶に同情してしまった。

 瀬織政子のように陰険な親戚ばかりだったら、きっと辛い想いをしただろう。

 そして、かりそめとはいえ、鷹巳の婚約者になる自分に対しても、厳しい批評の眼が向けられるに違いない。

『でも、学校に行かせてくれるって、おうみが言ってました』

 これが何よりも嬉しい事。

 楽しみが増えれば、嫌な事が少しくらいあっても我慢できるだろう。

 会話になると筆談になったが、八尋の書いた字を見て、咲耶はにっこりと笑った。

「お習字もしなきゃね。パーティーに呼ばれることも多いから、意外に重要なんだ。
 あとさ、鷹巳って漢字、面倒くさいよね──画数、多すぎ」

 暗に字の下手さを指摘されてしまい恥ずかしくなったが、こくりと頷いてみせる。

 せめて鷹巳の名前や、自分の名前、周りの人たちの名前くらいは、綺麗に書けるようになればいいと思う。

「明日から大変だよ」と笑う咲耶と共に夕食を摂りながら、八尋は穏やかな幸せを噛み締めていた。

 誰かが傍にいて、話し声を聞いているだけで、こんなにも心強い。

 土蔵の中でテレビばかり相手にしていた時とは全然違う。

 瀬織孝義や芳沢からは感じられなかった思いやりや気遣いが、咲耶の声やちょっとした仕草から伝わってきた。

(ああ、そういえば……テレビが無いんだ)

 ひとりきりの時はテレビをつけっぱなしにして孤独や無聊をやり過ごしていたのだが、今はそれが無い。

 瀬織家から運んでくるのかどうか判らないが、もし無いままなら、鷹巳に頼んでみた方がいいのかもしれない。

 静かな水琴亭で一年もの間、ひとりぼっちの夜を過ごすのは寂しかった。

 目を瞑って静寂の中で耳を澄ませていると、カラカラと玄関の引き戸が開けられる音が聞こえてくる。

(──咲耶さんだ!)

 ぱっと瞼を上げた八尋は、広縁から玄関に続く廊下へと飛び出し、ぱたぱたと小走りに出迎えに向かった。

 ところが、上がり框(かまち)に立っていたのは、咲耶ではなく鷹巳で、目を合わせた途端、意識を吸い取られたように頭が真っ白になる。

 笑顔を忘れてしまい、呆けたように棒立ちになった八尋を見返し、スーツ姿の鷹巳はわずかに片眉を上げた。

「随分な驚きようだな。咲耶の方が良かったか?」

 からかうような、揶揄するような低い声の響きに、我に返った八尋は慌てて微笑み、首を左右に大きく振ってみせる。

 鷹巳が来てくれて嬉しいのだが、どう振る舞えば良いのか判らなくて、躰が強張ってしまう。

 咲耶といる時は緊張感が無かったから、すぐに馴染んでしまい、こんな風にぎくしゃくすることは無かった。

 居間へと向かう鷹巳を追うと、「おかえりなさい」と言う間もなく、ソファに座るように手振りで示される。

 ゴブラン織りに猫脚のついたクラシカルな長椅子に腰を下ろすと、テーブルを挟んで対面に座った鷹巳が、長い足を優雅に組んだ。

「母屋に比べると少々手狭だが、この家で不自由は無いか?」

 戸惑いつつも、八尋は笑顔でうなずいた。

 比べるのが申し訳ないほどだが、瀬織家の土蔵に比べたなら、水琴亭は明るくて開放的だからずっと快適だった。