Rosariel.com
春耀幻花


<18>



 咲耶の手から逃れるように、八尋は思わず布団の上で後退った。

 内股の痣に触れられた時と同じような、それ以上の過敏な反応に、自分自身が驚いてしまう。

 混乱する八尋を見つめ、咲耶は苦笑を浮かべた。

「ごめんね。そんなに感じるとは思わなかった。びっくりしたよね」

 無意識に首筋を庇う自分の手に気づき、八尋は慌てて膝の上に戻すと、気にしていないと伝えるように小さく微笑む。

 それでもぎこちなさは残り、咲耶はどうしたものかと考えこむように溜息をついた。

「心配しなくても、鷹巳さんは吸血鬼じゃないよ。
 その傷痕は、祇堂家の神様に気に入られた徴(しるし)みたいなものかな」

(……神様の、徴?)

 咲耶の言葉は八尋の理解を越えていて、難しい暗号のように聞こえる。

 八尋が眉をひそめると、揺れる紫黒の瞳を見定めて、咲耶は鋭敏に察した。

「急にこんな事言われても、全然判らないよね。
 いろいろ事情が込み入ってるんだけど、僕が教えられる範囲で、姫には説明するよ。
 でもその前に、朝ご飯にしよう」

 発熱した八尋の体調を心配してか、咲耶は水琴亭のキッチンで玉子粥を作ってくれた。

 布団から起き出そうとする八尋を押し止め、「そこにいて」と言いつける割烹着姿の咲耶を見ていると、亡くなった母を思い出してしまい切なくなる。

 こんな風に甲斐甲斐しく世話を焼いてもらえるのは、鷹巳の婚約者になったからなのだろうが、かりそめとはいえ、家族として迎え入れてもらえることが嬉しかった。

「熱いから、ゆっくり食べてね」

「いただきます」と手を合わせる八尋の横で、咲耶が慣れた手つきで林檎を切ってくれる。

 ガラスの器に、ウサギの形になった林檎が盛られると、八尋はまた涙ぐみそうになった。

(お母さんも……林檎をウサギにしてくれたな)

 日常的な小さな事が、今もくっきりと色鮮やかな風景として残っている。

 心に描くと幸せになれる記憶は、どれも幼い頃のものばかりだったが、これからは少しずつ新しい思い出が増えていくかもしれない。

 そんな淡い期待が膨らむのは、瀬織家の土蔵から連れ出してもらったお陰だった。

「はい、これ。鷹巳さんからもらったタブレットでしょ?
 僕に聞きたいことがあったら、これを使って」

 ナイフや林檎の皮を片づけに台所に戻った咲耶が、居間に置きっぱなしになっていたタブレットを持ってきてくれる。

 鷹巳と交わした会話を思い出して頬を染めた八尋は、いつでも使えるように手元にタブレットを置いて、食事を続けた。



「鷹巳さんの目、普通の人と違うって、気づいてた?」

 どこから話そうかと迷うように、しばらく庭を見つめていた咲耶が、ぽつりとそう訊ねてくる。

 真剣な顔で見つめられ、八尋は粥をすくう木匙を止めて、ひとつうなずいた。

「鷹巳さんの眼が青いのは、彼の高祖父である祇堂正寅の奥さんに原因があるって、世間では思われてる。
 正寅爺さんがロンドンに留学していた若かりし頃、帰国の際に連れてきたのが、金髪碧眼の美少女だったんだ」

 目を丸くしている八尋の横で、咲耶は思いを馳せるように庭を見つめている。

 竹林の根元に咲いた紫陽花の茂みが、朝の陽射しを浴びて明るく輝いていた。

「でも、それは表向きの理由。
 祇堂家には昔から、ごく稀に、青い眼を持つ者がいたんだよ。
 正寅爺さん自身、青みがかった眼をしていたという噂だしね。
 とにかく、そういう時、一族は未曽有の繁栄するから、青い眼の子供は誰よりも大切に育てられる。
 水神様の化身として、山のような貢物を受け取っていたらしいよ」

 話を続ける咲耶の顔は、憂いを深め、どことなく苦しそうに見える。

 彼の話がどこに繋がるのか判らなかったが、鷹巳に関わることだけに、八尋は興味深く聞いていた。

 いつの間にか粥をすくう匙が止まっていたことに気づき、ぬるくなった残りを急いで食べてしまう。

「青眼の持ち主は、人並み外れた能力と強運の持ち主ばかりでね。
 才能に恵まれているだけでなく、九死に一生を得るような経験を度々することが多い。
 だけど、そういう恩恵を授けられた代償とでもいうのか、ここの神様は、自分が気に入る『花嫁』を求めるんだ。
 その花嫁を探し当てなければ、青眼を授かった本人だけでなく、祇堂家も衰退すると、一族の間では言い伝えられている」

 祇堂家の神様に気に入られる花嫁――。

 首筋の噛み痕に触れた八尋は、自分の事だろうかとふと思い、頬を赤らめた。

「さっきも言った通り、青眼の持ち主と同化した神様は、花嫁に口づけて御徴(みしるし)を残す。
 もっとも一度きりということも多いから、しばらく様子を見る必要があるんだけどね。
 姫は、いわば神様の花嫁候補に正式に上がったというところかな」

 一度の噛み痕が、決定となるわけではない。

 落胆にも似た感覚が胸に落ちると、その不可解さに八尋は眉根を寄せた。

(それに……神様に気に入られても、鷹巳がぼくのこと、好きじゃなかったら?)

 そもそも、神様の意思はともかく、鷹巳自身の気持ちはどうなるのだろう。

 もしかすると、だからこそ一年間という期限が定められたのだろうか。

 一年を通じて、神様に愛され、なおかつ鷹巳自身に愛されなければ、本当の花嫁にはなれないから。

(神様に嫌われてしまったら、ぼくは婚約者ではなくなって、鷹巳はまた別の人を探すんだろうか)

 そんな事を考えて、だんだん気分が落ち込んでゆく自分に気づき、八尋は首を横に振った。

(これじゃ、まるで……ぼくが鷹巳のお嫁さんになりたいって、思ってるみたい)

 顔色をころころと変える八尋をじっと見つめていた咲耶が、くすりと笑う。

 恥ずかしさに顔を伏せた八尋は、ややあってからタブレットを取り上げ、咲耶に質問をしてみた。

【神様がぼくのこと気に入ってくれたら、鷹巳は嬉しいのかな?】

 機械的なぎくしゃくとした声が流れ出ると、咲耶は面食らったように八尋をじっと見つめ、考えを巡らせつつ視線を逸らす。

「多分、嬉しいと思うよ。
 神様が気に入らなければ、鷹巳さん自身がいくら愛しても、一緒にはいられないから。
 とはいえ、ほとんどシンクロしてるから、別々の意識があるとも思えないんだけど……」

 最後の言葉はよく判らなかったが、沈んでいた気持ちを少し励まされ、八尋はにこりと笑った。

 神様にもっと気に入ってもらえれば、鷹巳と共にいる時間が少しでも長くなるかもしれない。

【それなら、神様が、もっとぼくの事好きになってくれるように、頑張るね。
 どうすれば、神様は喜んでくれるかな?】

「そうだねえ……毎日、お社の掃除をしてあげたら、きっと嬉しいと思うよ。
 神様は、清浄な場所を好むから。
 あと、うちの神様には、お酒と卵を毎日供えるんだ。
 それを姫がやってくれたら、お喜びになると思う」

 お社の掃除と、毎日のお供え。そのくらいなら自分にでもできる。

 八尋は目を輝かせて身を乗り出していた。

『じゃあ、今日から!』

 かすれ声しか出てないことに気づき、慌ててタブレットに打ち込もうとすると、咲耶が微笑みながら「聞こえたよ」と手元を叩いた。

「今日は、大人しく寝てなきゃダメ。
 姫が元気になったら、ちゃんと教えてあげるからね」

 優しい笑顔だったが、罪悪感を滲ませる咲耶の瞳に気づき、八尋は首を傾げた。

(咲耶さん、何か悩んでるみたいだけど……)

 でも、それは祇堂家に住み始めたばかりの八尋には、言えない事なのかもしれない。

 瀬織家もそうだったが、長い歴史を持つ旧家には様々な秘密があるものだと、八尋は疑問を呑み込み、手元のタブレットに気になっていた別件を打ち込んだ。

【あのね。ぼくは姫じゃないよ。八尋だよ】

 咲耶ともっと親しくなりたいから、ちゃんと自分の名前を覚えて欲しい。

「姫」と呼ばれるたびに、お人形のように扱われているような気がして、何となく馴染めなかったのだ。

 咲耶は瞬きをして八尋を見つめると、今度は曇りの無い笑顔になって、すっと腕を伸ばした。

「ああ……そうだね。君は、八尋だ。
 今度から、そう呼ばせてもらうよ」

 穏やかな手つきで頭を撫でられると、気持ちがほのぼのとして、八尋はくすくすと笑い出した。

 兄がいたなら、こんな風なのだろうか?

 テレビの中でしか見たことの無い兄弟というものに、ずっと憧れていたけれど、咲耶は想像していたお兄さんに近いかもしれない。

(鷹巳は……お兄さんとは思えないけど――)

 二人の関係は、うまく言い表せない。

 鷹巳は八尋のことを、「花嫁」とか「フィアンセ」と口にするけれど、感覚としてどれもしっくりしない。

 甘やかな単語だけが鼓膜を上滑りして、心の奥まで響いてこなかった。

(だけど、鷹巳が喜んでくれるなら……やれるだけのことはしよう)

 喜びなど無い暗い土蔵から、八尋の手を引き、連れ出してくれた。

 それだけで、感謝しても、し足りないほどなのだから。

 ずくりと疼いた首の傷痕に触れた八尋は、「何か食べたいものはある?」と訊ねる咲耶に、笑顔で「玉子焼き」と答えていた。