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春耀幻花


<19>



 浅い眠りと目覚めを繰り返し、またとろとろと睡魔に引き込まれようとしていた時、入り口の引き戸が開いたような気がして、八尋は薄く瞼を開いた。

 耳を澄ませても、それっきり物音は聞こえない。

(……夢、だったのかな)

 重い瞼が下がるまま眠りに沈みかけると、ほどなく、誰かの手がそっと額に置かれた。

『……おかえりなさい』

 ぼんやりとした視線を向けて囁くと、枕元に跪いていた鷹巳が、距離を縮めるように身を屈め、顔を近づけてくる。

 寝室は蝋燭の火ほどの燈明(あかり)に照らされ、目が慣れると、影になっていた鷹巳の顔も見えるようになった。

「すまない、真夜中に起こしてしまったな。具合はどうだ?

『熱は下がったから……もう、大丈夫』

 聞こえているのかどうか判らないと思いながら応じると、鷹巳は八尋の額にかかった長い髪を払うように手を滑らせ、するりと頬まで撫でた。

 優しい指の感触が嬉しくなり、自然と口許が綻ぶ。

 壁にかかったアンティークの振り子時計に視線を向けると、時計の針は午前一時を過ぎていた。

(心配して、ぼくの様子、見に来てくれたのかな?)

 鷹巳はスーツ姿のままだから、仕事帰りに足を向けてくれたのかもしれない。

 瀬織家にいた頃は、体調が悪くても気に掛けてくれる人はいなかったから、ほんの少しの気遣いで胸に日溜りができたような温もりが広がった。

 けれど、吐息がかかるほど傍から鷹巳に見下ろされると、ゆったりと規則正しかった心臓が、急に鼓動を速める。

 間近に迫った鷹巳の顔を直視できなくなり、期待と不安にどぎまぎしながら瞼を閉じると、欲情の欠片も無い冷静な声が耳元に落ちてきた。

「お前の負担も考えずに、無理をさせすぎた。
 だが、私は明日から二週間、海外出張で留守をする。
 その間はゆっくり躰を休めて、元気を取り戻せばいい」

『海外…出張? 鷹巳、どこか遠くに行っちゃうの?』

 思いがけない言葉にぱっと目を開け、慌てて言葉を口にすると、鷹巳が訝しげに片眉をわずかに上げる。

 八尋が何を言っているのか判らなかったのだろう。

 だが、うろたえる様子で察したのか、タブレットを探そうと上半身を起こしかけた八尋の肩を、鷹巳の手が押しとどめた。

「お前が心配するような事は何も無い。
 私が不在の間、咲耶や他の家の者がお前の面倒をみるだろう。
 私が戻ってくるまでに、ここでの生活に慣れておくことだ」

 鷹巳と再会してから、まだ三日と経っていないというのに、二週間も会えないと思うだけで寂しさが募ってくる。

 咲耶の方がすっときめ細やかに世話を焼いてくれるし、ひとりぼっちになるわけではない。

 それなのに、鷹巳と離れることが、どうしてこれほどの動揺を引き起こすのだろう。

 大きく目を瞠ったまま、身動きできずに鷹巳の顔を見返していた八尋は、傍から離れようとする彼の手を思わず捕まえていた。

「どうした? 何か言いたい事でもあるのか?」

 追いすがる八尋を見下ろした鷹巳は、聞き分けの無い子供をあやすように頭をぽんぽんと軽く叩く。

「さっさと眠らないと、誘われているのだと思って、また昨夜のように啼かせるぞ。
 明日また起き上がれなくなってもいいのか?」 

 鷹巳から欲望は感じられないが、誘惑的な台詞に頬が熱くなる。

 急いで首を横に振った八尋は、それでもつかんだ鷹巳の手を離さなかった。

 迷惑をかけていると判っていても、あと少しだけ……。

『もうちょっとだけ、傍にいて』

 こんな我が儘を言ってはいけないと思うのに、訴えずにはいられなかった。

 顔を近づけ、ゆっくりとした囁きに耳を澄ませていた鷹巳は、小さな嘆息をひとつ吐き出すと、八尋の手をそっと握り直した。

「判った。お前が眠るまで、ここにいる。だから、大人しく休むんだ」

 少し呆れたような声音で八尋を諭した鷹巳は、同じ布団には入らず、畳の上に横たわった。

『ありがとう』と八尋が囁くと、空いた方の手で自身の額を押さえていた鷹巳が、向き合うように顔を傾ける。

「急に環境が変わって、仕方がないとはいえ――これでは子守りと変わらんな。
 誰にも言うなよ。私が添い寝したなどと……」

 わずかに憮然とした口調に首を傾げつつ、八尋は微笑んで「うん」と頷いた。

『鷹巳は、明日、どこに行くの?』

「アラビア半島にあるエル・ラサル王国だ」

 聞いたことの無い国の名前に反応できずにいると、無知な八尋を哀れに思ったのか、鷹巳は淡々と説明を加えた。

「アラビア海に面し、国土の大半が砂漠に覆われた小さな国だ。
 人々は海沿い一帯の緑地と、内陸に点在するオアシスに住んでいる。

 古くは真珠漁、現在は石油とレアメタルがそれに加わって栄えているが、砂漠では昔ながらのベドウィンも多く暮らしている」

 静かな語りは子守唄のようで、自分なりに海や砂漠の風景を想像していると、だんだん目を開けていられなくなる。

(気持ちいい……このままずっと、鷹巳の声、聞いていたい)

 話の内容は半分くらいしか理解できなかったが、大きな手の温もりを感じながら、落ち着いた声の響きに包まれていると、途切れていた眠気がすうっと全身に染み通ってゆく。

(いつか、鷹巳と一緒に、行ってみたい)

 まだ見ぬ広い世界を、自分の目で眺め、自分の足で歩き回ることができるだろうか?

(外国じゃなくて……近くの遊園地でもいいな)

 数えるほどしかなかったけれど、幼い頃、母に連れて行ってもらったカラフルな遊園地を思い出し、夢の世界で遊びながら、八尋は深い眠りに落ちていった。

 



 お供え物が置かれた祠(ほこら)の棚には、パラパラと卵の殻が散らばっていた。 

 祇堂家では毎朝、新鮮な果物や野菜、米、酒、鏡餅など、水神様にお供え物をするとのことだったが、生卵だけがいつも何ものかに食べられてしまうらしい。

「それも、生みたての卵しか無くならない。
 冷蔵庫に置いてあった卵だと、そのまま残っているんだよねえ」

 手箒で卵の殻を片づけ、台の上を拭き清めていると、咲耶が母屋から新しい卵を持って戻ってきた。

【神様が食べちゃうの?】

 掃除の手を止め、タブレットで質問してみると、素焼きのエッグスタンドに卵を供えながら、咲耶がくすくすと笑い出す。

「そうだろうね、きっと。
 だから、何を忘れても、卵だけは絶対に欠かしちゃいけない。
 卵が無いと、神様が怒り出すって言い伝えがあるらしいから」

 卵が大好きな神様――何だか不思議な気がしつつ、親近感も湧いて、八尋は微笑んだ。

【ぼくも、卵大好きだよ。咲耶さんの玉子焼きも美味しかった。
 今度、作り方、教えて欲しいな】

「僕のはかなり適当だから、料理がしたいなら、母さんに教えてもらった方がいいかな。
 八尋にだったら、喜んでいろいろ教えてくれるだろうし。
 そうそう……よければお昼ご飯、母屋で一緒にどうって、母が言ってたよ」

 咲耶の母親なら、きっと優しい人に違いない。

 昨日の明け方に聞いた女性の声を思い出し、八尋は顔を輝かせて頷いだ。

「八尋の荷物が母屋に届いているから、ランチの後で整理しましょう、だって。
 いろいろ足りないものもあるだろうし……。
 それに、いつまでも母さんの浴衣や着物ばかりじゃ、地味でつまらないよね」

 動きやすく、掃除で汚れてもいいようにと貸してもらった浴衣は、紺地に芙蓉の花が描かれていた。

 千佳子は、この浴衣が似合う、優美でしっとりとした雰囲気の女性なのだろう。

【この浴衣、好きだよ】

 自分に似合うかどうかは判らないけれど、何となく、亡くなった桜子のことを思い出す。

「それなら良かった。母さんもそれを聞けば喜ぶよ。
 もっとも、八尋はまだ若いから、もう少し派手でもいいと思うけどね。
 そうだ。新しい浴衣を作って、花火大会に行こうか?」

 心躍る提案に歓喜し、八尋は満面の笑みで咲耶に飛びついていた。

【行きたい! 鷹巳も一緒に、行ってくれるかな?】

「鷹巳さんは忙しいし……どうかなあ。
 スケジュールの都合もあるし、そもそも人出の多い場所に行きたがらないし……」

 首を捻った咲耶の言葉に、浮き立っていた心が急にしぼんで、八尋はしゅんとうなだれた。

(鷹巳は忙しいから、やっぱり、一緒にどこかに行ったりはできないのかな)

 すぐに眠ってしまったからどのくらい一緒にいてくれたのか判らないけれど、朝になると鷹巳はいなくなっていた。

 仕事だから仕方ないとはいえ、二週間もの間、鷹巳と会えないのはやはり寂しい。

 けれど、少しでも一緒に過ごしたいと願うのは、多忙な鷹巳にとっては負担になるだけなのかもしれない。