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春耀幻花


<2>



 胸が苦しくなり、八尋は思い出を忘れようと黒髪を揺らした。

 ほとんど切ることを許されない髪は長く、立っていてさえ腰を覆うほど真っ直ぐに伸びている。

 日に焼けることのない両手をじっと見つめていた八尋は、ひとつ溜息をつくと、変えられたばかりの青々とした畳の上に立った。

 天井近くにある格子窓の下に行き、緋色の長襦袢の裾を絡(から)げて伊達締めに挟み込む。

 立てかけられた木製の梯子を上った八尋は、鉄格子の間から外の様子をうかがった。

 満開に咲いた桜の老木は、風が吹くたび、ひらひらと花弁を散らしている。

 細い格子の狭間から手を伸ばし、八尋は宙を舞い踊る花びらを掌に受けた。

(──もっと沢山……首飾りが作れるぐらいに……)

 毎年、こうやって手を伸ばしているというのに、気まぐれな花びらは八尋の手には収まらず、風に吹かれるがまま飛んでいってしまう。

 ふと、咲き誇る桜と、優しく微笑んでいた母の笑顔が重なった。

 この土蔵に閉じ込められていた母も、八尋と同じように、こうして桜を見つめていたのだろうか。

 外に出たいと……自由になりたいと願いながら──。

 格子の間からしばらく片手を動かしていた八尋が、諦めて溜息をついた時、乱舞する桜に導かれたように、母屋の方から一人の男が現れた。

 漆黒の喪服に身を包んだ男は、還暦を過ぎた孝義の、せいぜい半分くらいの年齢でしかないだろう。

 ズボンのポケットに両手を突っ込み、喪服と同じくらい黒い髪を後ろに撫でつけたその男は、ほとんど人と会う機会の無い八尋から見ても、並外れて秀麗な顔立ちに見えた。

 あまりにも隙無く整いすぎているせいか、どことなく冷たく、孤高の雰囲気が漂っている。

 まるで、夜闇の中で冴々と輝く冬の三日月のように──。

 だからなのか、漆黒の上下は彼の容姿に似合っていて、桜の老木の下に立つ姿は一幅の絵のように見えた。

 静謐なたたずまいに見惚れてしまい、思わず息を止める。

 瞬きもせずに男を見つめていた八尋は、さすがに息苦しくなると、薄い胸を喘がせて空気を吸い込んだ。

 気配を察したように男が振り返り、背後に建つ土蔵を鋭く見上げる。

 格子窓から手を伸ばす八尋に気づいた男は、訝しむように双眸を眇(すが)めた。

 怜悧な切れ長の眼差しを見下ろした八尋は、太陽の光を弾いた男の瞳の色を認めた瞬間、思わず「あっ」と口を開いていた。

 海の底を思わせる、紺青(こんじょう)の双瞳──。

 海をたゆとう魚の群や、人魚だけが見ることのできる竜宮の蒼のように、男の瞳は神秘的な色合いを帯びていた。

(……あなたは、誰?)

 声を出すことが叶うなら、そう訊ねていただろう。

 けれど、八尋の喉は音を発することはなく、唇だけがその言葉を刻む。

「お前は誰だ?」

 慌てて格子から手を引っ込めた八尋から視線を逸らさず、男は怪訝そうにそう訊ねた。

 今、もしかして、話しかけてもらったのだろうか?

 ちゃんと、彼の言葉も理解できる。

 二、三度瞬きをした八尋は、すぐに「八尋」という名の形を唇に乗せた。

 だが、声無き声は、彼には届かない──せっかく聞いてくれたのに、答えられない。

 八尋は慌てて梯子を下りると、文机に残っていた紙片に自分の名前を紙に書いた。

 歪んだ、たどたどしい文字。

 学校に通わせてもらえなかったから、上手く書けない。

 それでも、八尋の存在に気づいてくれた彼には、名前だけでも知っていてもらいたかった。

 ああ、でも……もしかすると、彼はもう、母屋の方へと引き上げてしまったかもしれない。

 心臓が、急にドキドキし始める。

 伊達締めから滑り落ちてきた長襦袢の裾を煩(わずら)わしげにたくし上げると、八尋はもう一度梯子を上って、格子窓から地上を見下ろした。

 いなくなってしまったかと心配した人が、先ほどと同じようにそこに立っている。

 ぱっと微笑みを浮かべた八尋は、安堵のあまり涙ぐんだ。

 名前を書いた紙片を半分に折り畳み、指に挟んで、格子の間から限界まで片手を伸ばす。

 差し出された紙を受け取ろうとするように、男はポケットから右手を出し、八尋の方へと差し伸べた。

(その手を取れば、僕は、ここから出られる?)

 閉ざされた虫籠から抜け出し、自由になれるだろうか。

 春の夢のごとく儚い幻想が脳裏を過ぎった時、不意に強い風が吹き、八尋の指先から頼りない紙片を奪い去っていった。

 桜の花弁と共に空を舞った白い紙切れは、男の足下へとひらひらと舞い落ちてゆく。

 緩やかに長身を屈し、紙片を取り上げた男は、幼い文字で書かれた名前に、深い海色の瞳を向けた。

「八尋──お前の名前か?」

 低く艶やかな声で名前を呼ばれ、八尋は胸が高鳴るのを感じた。

 父に呼ばれた時とは全然違って、光が差し込んだように、ぱあっと心が晴れてゆく。

 鼓動を速めた心臓が、痛いくらいに肋骨を叩く。

 こくりと小さくうなずくことしかできなくなり、八尋は恥じらいに頬を淡く染めた。

「八尋……お前が、御巫八尋(みかなぎ やひろ)か?」

 確認するように、彼はもう一度、八尋の名前を口にする。

 慎重な男の声音に微かな戸惑いを感じながらも、八尋はうなずいた。

 ふと、自分の顔が見えないのではないかと思い直し、右手を伸ばし、ピースサインを作る。

 小学校の入学式の時、クラスメイトと一緒に写真を撮った時のことが、何故か思い出された。

 誰よりも喜んでくれた母の笑顔が、誇らしかったあの頃。

 八尋を見上げていた男は、少し驚いたように首を傾げたが、それまでの厳しい表情を和ませ、ふっと優しい微笑を浮かべた。

 はっとするほど……胸の奥に火が灯るくらい素敵な笑顔。

 心臓がキュンと絞られるような感覚に、息ができなくなる。

「私の名は鷹巳(おうみ)──祇堂(ぎどう)鷹巳(おうみ)だ」

 名前を教えてもらった八尋は、心臓があちこちに飛び跳ねているように感じながら微笑み返した。

「おうみ」と唇に名を刻み、舞い踊る桜の花びらを求めた時のように、腕を精一杯まで伸ばす。

 そんな八尋の手を見つめ、笑みを消した鷹巳は、応じるように腕を掲(かか)げた。

 惹かれ合うように伸ばされた互いの指先が、触れ合うことはない。

 あまりにも、遠すぎるから。

 鷹巳は切れ長の双眸を細め、食い入るように八尋を見つめている。

 強い眼差しに引き寄せられて、八尋もまた、鷹巳を見下ろす。

 風の声さえも聞こえない──。

 時が止まった静寂をかき乱すように、突然、男の名を呼ぶ声が響いてきた。

 蒼瞳に険しさを滲ませ、鷹巳は母屋の方を鋭く睨みつけると、もう一度八尋を振り仰ぐ。

 海のごとき双眸に浮かぶ感情は、うかがい知れない。

 氷の仮面が張りついてしまったかのように、鷹巳の顔は作り物めいた無表情に戻っていた。

 鷹巳は無言で踵を返すと、来た道をたどり、八尋の前から姿を消した。

 一陣の風が、桜の花弁を舞い上げる。

 全てが幻だったかのように思えたが、心に残る痛みは現実のもの。

 鷹巳を見失った八尋は、取り残された孤独と寂しさに胸を締めつけられ、紫黒(しこく)の瞳から一粒の雫を落とした。