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春耀幻花


<20>



(それに……ぼくは離れ離れで寂しいけど、もしかしたら鷹巳は、ほっとしているかもしれない)

 ろくに喋れない八尋の相手をするより、洗練された会話を交わせる大人同士の付き合いの方が、きっと楽しいだろう。

(子守りをしてるみたいだって、言ってたしな)

 祠の周囲を竹箒で掃きながら、どんどん暗い思考の深みに沈んでゆく。

 考えれば考えるほど、鷹巳は八尋の幼稚さに呆れ果て、連れて来たことを後悔しているのではないかと思われた。

「さてと――ここの掃除が終わったら、神様に『鷹巳さんが無事に帰ってきますように』ってお願いしておこうか。
 エル・ラサルの治安はそこそこ良いとはいえ、中東は物騒極まりないからね」

 はっと我に返った八尋は、祠の前に立つ咲耶を見つめて動きを止めた。

(エル・ラサルって、危ない所だったの?)

 鷹巳は何も言っていなかった。

 八尋自身、地理や世界情勢に疎いせいで、危険性を何も感じていなかったのだ。

 顔を曇らせた八尋に気づき、咲耶は慌てたように顔の前で片手を振る。

「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ。
 エル・ラサルへの出張は何度もあるけど、いつも問題なく戻ってくるし。
 ここの神様に家族の無事をお願いするのは、当然のことだしね」

(……そういう、ものなのかな)

 完全には納得できずにいると、参拝を終えた咲耶が、皺を寄せた八尋の眉間を指先で突っついた。

「八尋の困り顔は可愛いけどね。
 神様は、明るい笑顔の方がお好きだというよ。
 嫌われたくなかったら、毎日笑顔を忘れずに、卵をお供えしてね」

 浄明正直であれ――清らかで明るい、正しく真っ直ぐな心を持つことを、神様は尊ぶのだという。

(祠のお掃除も毎日します。
 卵も忘れずにお供えします。
 今はできないことも、少しずつできるように頑張るから、鷹巳が元気で戻ってきますように)

 鷹巳に添い寝をしてもらい、安心して眠ってしまったが、もっと沢山話しておけばよかったと、今になって後悔する。

(とにかく……鷹巳にも言われたし、ここの生活に早く慣れなきゃ。
 鷹巳が帰ってくるまでに、ぼくにもできること、増やさないといけないな。
 これ以上、心配かけたくないし――)

 人並みに生活できるようになれば、余計な気遣いをさせずにすむだろう。

 ふと良いことを思いつき、掃除道具を持って先を行く咲耶の後を追った八尋は、タブレットで話しかけた。

【ぼくが玉子焼きを作れるようになったら、鷹巳は喜んでくれるかな?】

「玉子焼き……ねえ。まあ、嫌いじゃないだろうし、喜ぶかもしれないね。
 外国に行った後は、日本食が恋しくなるとも言うし」

 不可解なものを見るような目つきで八尋を見下ろした咲耶は、苦笑いしながら花の咲き誇る日本庭園を見渡す。

 灼熱の砂漠が連なるエル・ラサル王国では、豊かな緑や流れ続ける清水は、手の届かない楽園にも等しいのだという。

「ここに戻ってきたら、鷹巳さんもほっとすると思うよ。
 向こうでは王族並みの扱いを受けるとはいえ、やっぱり、環境が違いすぎるから」

【じゃあ、玉子焼き、作れるように頑張るね】

 これからも鷹巳が家を空けることはあるだろうから、寂しがってばかりではいられない。

 自分なりの小さな目標を作り、まずは「美味しい」と言ってもらえるようになろう。

 寂しさや不安を振り切るように明るく笑いかけると、咲耶が表情を消して双眸を細める。

「八尋は、そんなに鷹巳さんが好き? ちょっと、妬けるね」

 ぼそりと呟いた咲耶は、八尋と目線を合わせるように身を屈めると、艶めいた微笑を浮かべた。 

「僕は八尋が好きだよ。だから……ずっと仲良くしよう」

 綺麗な顔が近づいたと思うと、八尋の唇に、柔らかな感触がすっと押しつけられる。

 かすめるような口づけに驚き、呆気にとられて突っ立っていると、にっと悪戯っぽく笑った咲耶が人差し指を八尋の唇に触れさせた。

「仲良しの印。でも、鷹巳さんには内緒だよ」



 八尋が母屋を訪れるのは二度目のことだったが、明るい陽射しが差し込む廊下を歩いていると、初日の夜とは全く違う印象に感じられた。

 夜の間は人の気配を感じず、「迷い家」はしんと静まり返っていたが、今はお昼時ともあって、屋敷で働く家政婦が通り過ぎたり、秘書だというスーツ姿の男たちの出入りがある。

 祇堂家に引き取られてからも、きちんと話をしたのは鷹巳と咲耶だけだったため、初対面の人たちにどう対応すれば良いのか判らない。

 内心びくびくしながら長い廊下を歩いていると、曲がり角で白い割烹着姿の老婦人と出くわした。

「あ、大竹さん。この子、水琴亭に住むことになった八尋っていうんだ。よろしくね」

 咲耶の紹介に続いてお辞儀をすると、、温和な笑顔を浮かべた老婦人は、にこにこしながら「こちらこそ、よろしくお願いします」と頭を下げた。

「あの人は、この屋敷で一番長く働いてくれている家政婦の大竹さん。
 お供え物のこととか、何か欲しいものとかあったら、彼女を見つけて言えばいいよ」

 挨拶を返す間もなく大竹は行ってしまい、失礼だっただろうかと気にしていると、咲耶が「行こう」と先を促す。

(次からは、ちゃんとご挨拶しなきゃ……)

 普通に話せれば問題無いのだが、タブレットを介していると、タイミングが難しい。

 鷹巳も咲耶も辛抱強く待ってくれるから、今まで不自由を感じなかったが、八尋のことを知らない人たちは不審に思うだろう。

 自分から「行きたい」と言い出したものの、学校に通い始めたら、この問題は一層深刻になるのではないかと思い、急に不安と緊張が湧き上がった。

 その後、咲耶に導かれて入った食堂は、純和風の屋敷の中では珍しく思えるような明るい雰囲気のダイニングルームだった。

 長方形の大きなテーブルには、金糸を織り込んだ美しい帯がテーブルライナーとして渡されており、その真ん中に清涼感のある白いカラーが花瓶に飾られている。

 一方の壁際には、水辺に佇む白鷲と睡蓮が描かれた金屏風。

 反対側の大きな窓からは手入れの行き届いた中庭が見渡せ、床が明るい色のフローリングであるためか、重苦しさの無いモダンな解放感が漂っていた。

(何となくだけど……瀬織家に比べて、家全体が明るい気がする)

 同じくらい歴史ある古い屋敷なのだろうが、空気がどんよりと重く澱んでいた瀬織家は、その場にいるだけで息苦しくなった。

 祇堂邸に来てからというもの、そういう気分を感じたことは一度もない。

 きょろきょろと部屋の中を見回していると、台所に繋がるドアが隠された金屏風の裏側から、透け感のある夏大島を着た女性が現れた。

「あら、その浴衣――あなたが八尋さんね」

 サンドイッチが綺麗に盛り付けられた大皿を手にして、にこにこしながら八尋に歩み寄ってくる。

「まあ……何て綺麗なお嬢さんかしら。
 源氏物語のお姫様みたいね。
 鷹巳さんが隠そうとするのも、判る気がするわ」

 ふんわりと優しい笑顔を浮かべた彼女は、四十歳くらいの美しい女性で、初夏の風が吹き込んできたかのような清々しさに満ちていた。

「紹介するよ、八尋。
 この人が、鷹巳さんのお祖父さんの奥さん、祇堂千佳子さん。
 つまり、鷹巳さんにとっては、義理のお祖母さんになるわけ」

(……鷹巳の、お祖母さん!?)

 お祖母さんという年齢にはとても見えず、千佳子は若々しい。

 むしろ、八尋の母桜子と、ほとんど変わらない年頃のように見えた。

「その紹介の仕方はどうかと思うけれど……。
 それを言うなら、あなただって、鷹巳さんの義理の叔父さんでしょう?」

 咲耶をちらりと睨んだ千佳子は、驚きを隠せないでいる八尋に笑いかける。

「咲耶の母です。よろしくね、八尋さん。
 さあ、堅苦しい挨拶は抜きにして、お昼にしましょうか。
 お庭で育ったトマトのサラダや、コーンスープも作ったの。
 八尋さんが来るっていうから、久しぶりに張り切ったのよ。
 遠慮せずに、沢山食べてね」

「また野菜だらけになってるし……。
 どうせなら、カレーとかかつ丼とか、ガッツリしてる方が良かったんだけど」

 八尋を椅子に座らせ、隣の席についた咲耶がぶつぶつと不平をこぼすと、台所に戻りかけていた千佳子はころころと鈴を転がしたように笑った。

「文句があるなら咲耶は外で食べてらっしゃい。
 わたしは八尋さんに、うちの野菜を食べてもらいたかったし、ここのパンは美味しいって評判なの。
 焼き立てを買ってきたんだから、美味しくいただかなきゃ。
 うちは和食が多いんだから、たまには良いでしょう?」

「はいはい。母さん自慢の野菜畑だもんね」

 親子の仲が良いことが判る、遠慮のない会話。

 二人のやり取りを聞いているうちに、抑えきれない母への思慕が膨らむ。

 いつもどこか哀しげな表情を漂わせていた桜子は、千佳子のような溌剌とした笑顔になることはなかったが、それでも八尋を包む優しさは同じだった。

 二人きりの家族だったけれど、あの頃は本当に悩みなどあまりなくて、幸せで温かな日々が続くと信じていたのだ。

(──お母さん……ぼくは、お母さんと一緒に、ずっと暮らしていたかった。
 傍にいてくれるだけで、良かったのに……)

 どうして、母はあんなにも早く逝ってしまったのだろう――八尋ひとりを残して……。

 重石を積み重ねるように我慢し続けていたけれど、心の隙間から悲しみが滲み出した。