Rosariel.com
春耀幻花


<21>



 今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えてうつむいていると、昼食のテーブルを整えていた千佳子が、八尋の前に湯気の立つコーンスープを置いた。

「朝採ったばかりのトウモロコシで作ったから、甘くて美味しいの。
 これを飲んだら、体調が悪くても、すぐに元気になるわ」

 ふんわりと温かく、包み込むような千佳子の笑顔が、桜子の面影と重なった。

 我慢しきれず、ぽろぽろと涙がこぼれ始めると、それに気づいた千佳子が床に膝をつく。

「どうしたの? もしかして、咲耶に虐められた?」

 心配そうに顔を覗き込んでくる千佳子を見下ろし、八尋は顔を横に振った。

 千佳子の勘違いをすぐに訂正したかったが、その前に、咲耶が呆れたような声を上げる。

「ちょっと、母さん……人聞きの悪いこと言わないでよ。
 僕が八尋を虐めるわけないじゃないか

「だって、あなた、鷹巳さんのこと大好きだったから……。
 鷹巳さんが連れて来る女性を、いつも、けちょんけちょんにけなしてるじゃない」

 憮然としてテーブルに頬杖を突いた咲耶は、千佳子の反論を聞くなり、飲みかけていた水を噴き出した。

 涙を溜めたまま、八尋は目を丸くする。

 驚きのあまり、一瞬涙が引っ込んだが、咲耶は「違う、違う」と慌ただしく否定した。

「い……いったい、いつの話だよ、それ?
 真に受けちゃダメだよ、八尋。完全に母さんの誤解なんだから」

 畳みかけるような早口に気圧され、八尋が思わず頷くと、咲耶はゴホンと咳払いをした。

「とにかく、話を戻すけど……。
 
あのね。八尋のお母さんは、八尋が小さい頃に亡くなってるんだ。
 ずっとひとりぼっちだったから、母さんを見て、いろいろ思い出しちゃったんじゃないかと思うんだけど」

 咲耶の的確な代弁にほっとして、涙をぬぐいながらうなずいて見せる。

 すると、八尋の表情を見守っていた千佳子は、手を伸ばして濡れた頬に触れ、慈愛と憐憫が入り交ざった表情を浮かべた。

「そう──あなた、ずっと寂しかったのね。
 いつも気持ちを閉じこめて、ひとりで頑張ってきたんでしょう?」

 涙ぐんだ千佳子は前屈みの体勢で八尋の肩を抱くと、長い黒髪を撫でながら、頭部を胸元に引き寄せた。

「八尋さん。泣きたい時は、思いっきり泣いてしまえばいいわ。
 我慢しているとね、心の中の傷はいつまでも癒えなくて、どんどん色彩を失っていくの。
 そのうちに、寂しいと思っていても、そう感じられなくなる。
 みんな、一生懸命に我慢しながら生きているけど、あなたみたいにずっと我慢を続けていると、心が壊れていってしまうのよ」

 同情してくれる千佳子の声の震えが、胸の奥まで伝わってくる。

 八尋は優しい響きにじっと耳を傾けていたが、不意に、心につっかえていた何かが壊れたかのように、どっと涙が流れ出した。

 この家に来て、鷹巳にも言ってもらった――泣いていいと。

 以前は母を亡くした悲しみに涙していると、辛気臭いと孝義に折檻され、怖くて泣けなかった。

 鷹巳に助け出されて恐怖が薄れ、母の温もりにも似た千佳子に触れて、自ら科した箍がようやく溶けてゆく。

「思いっきり声を上げて、子供みたいに泣いてもいいのよ。
 みっともないって思っても、心の中を一度空っぽにして、またそこからスタートすればいいだけなの。
 もうひとりぼっちで頑張らなくてもいいわ。
 あなたの傍にいて助けてあげるから、あなたの背負っている重荷を、ぜ〜んぶ下ろしてしまいなさい」

 ぽんぽんと背中を叩く手はあまりにも優しくて、その声に励まされるように、八尋の喉から嗚咽が漏れる。

 悲しみの呻きは号泣に変わり、八尋は千佳子にすがりついて泣きじゃくった。

(ああ……ぼくの心は、こんなにも辛いって叫んでいたんだ……)

 そう認識できると、桜子の死から始まる心の深い傷が、少しずつ涙で洗われ、ゆっくりと癒えていく。

「大丈夫。もうあなたはひとりじゃないわ。今まで、本当によく頑張ってきたわね」

 八尋が置かれていた境遇を、千佳子は知っているのだろうか?

 まるで子守歌のように、千佳子の言葉がゆったりと繰り返される。

 だが、嵐のような激しい慟哭がおさまってくると、取り乱してしまった自分が途端に恥ずかしくなった。

 鼻をすすりながら、八尋が目元を手で擦っていると、隣で沈黙を保っていた咲耶がさりげなくティッシュボックスを差し出す。

 すかさず手を伸ばした千佳子の両目も、もらい泣きをしたのか、赤く腫れていた。

「いやね、こんな顔で宗政さんに会ったら、何があったんだってびっくりされちゃうわ。
 八尋さんのお鼻も真っ赤になっちゃって……。
 あなたは可愛いからいいけど、私はお化粧直してこなきゃ、外に出られないわね」

 上品な千佳子が盛大に鼻をかむ姿に親しみを感じ、八尋の顔にも自然に笑みが戻る。

「ねえ、そろそろご飯にしない?
 母さんご自慢のスープが冷めちゃうよ」

 お腹が空いたと言わんばかりに咲耶がスプーンを振り始め、ティッシュで顔を押さえていた千佳子は、息子をじろりと睨んだ。

「ホント、最近捻くれちゃって、可愛げがないったら。
 八尋さんが来てくれて嬉しいわ。
 この屋敷の男たちはみんな曲者揃いだから、あなたみたいに素直な子がいると、心が和むわね」 

 食事中も、千佳子は親切にサンドイッチやデザートを八尋に取り分けてくれた。

 瀬織家の食事は冷えた和食中心で、ほとんど洋食を食べたことがなく、ましてパンを口にするのは本当に久しぶりだったから、自分でも驚くほど食べてしまった。

 採れたて野菜のサラダは瑞々しく、食べたことの無い味がする。

 評判のクロワッサンで作られたサンドイッチは、バターの味とハムの塩加減がぴったりで、サクサクとした触感を楽しみながらいくらでも食べられるような気がした。

 新鮮な玉子、トマトとレタス、ベーコンにチーズ。

 サンドイッチの具材は豊富で、飽きることがない。

 何よりも、温かいコーンスープは甘さが口いっぱいに沁み込むほど美味しくて、おかわりまでしてしまう。

 八尋の旺盛な食欲を、千佳子は満足したように見つめて微笑んでいた。



 それから連日、千佳子は八尋を母屋に招き、いつの間にか一緒に食事をすることが当たり前になっていった。

 咲耶も反対はしていないようで、喋ることのできない八尋の代わりに、いつも食事の場を盛り上げてくれる。

 咲耶と千佳子の会話を聞いているだけでも楽しかったが、八尋を蚊帳の外に置くことはなく、話に巻き込んでくれるおかげで、家族の一員になったような気持ちに満たされた。

 千佳子が作ってくれる食事は家庭的でどれも美味しかったが、主に夕食で出される祇堂家専属シェフの料理は、八尋が生まれて初めて食べる豪華で本格的なものばかりだった。

 八尋に食事作法を教えるため、隣席の咲耶がナイフ、フォーク、スプーンの使い方などを丁寧に説明してくれる。

 最初はあやふやだったが、繰り返すうちに慣れ、そのうち指摘を受けずに食べ切ることができるようになった。

(だけど……こんなに幸せな生活していていいのかって、ちょっと不安になるよね)

 千佳子に教えてもらった玉子焼きを水神の祠に供え、鷹巳の無事を祈ってから、八尋は何とはなしに溜息をついた。

 玉子焼きは焦がさずに焼けるようになり、最近では祠へのお供え物にもなっている。

 早く鷹巳に食べてもらいたかったが、海外出張から戻ってくるまでにはあと一週間ほどあり、楽しい生活を送りつつも、寂しさが少しずつ大きくなっていた。

(咲耶さんも千佳子さんも優しいから、寂しいなんて思っちゃいけないんだけど……)

 どうしてなのか、心の中に埋められない穴があって、鷹巳を想うたびにしくしくと疼く。

 それは、亡き母を慕う感情と似ているようで、まったく違うような気もして、八尋を混乱させた。

 昼間は、咲耶に勉強を教えてもらったり、千佳子の野菜畑を手伝ったりして忘れていられるが、床に就く時、隙間風が胸の内側に吹き込んでくるのだ。

 踵を返して水琴亭に戻ろうとすると、滝壺に近い岩の上に、大きな白蛇がとぐろを巻いている姿が見えた。

 いつもの日光浴なのだろう。

 見慣れた光景になりつつあったが、傍に咲耶がいないこともあり、八尋は蛇を驚かさないように近づいてみた。

『……こんにちは』

 聞こえないと思っていたが、かすれ声で挨拶すると、白蛇が急に頭をもたげる。

 不思議と怖いと思わず、八尋は独り言のように話しかけていた。

『ぼくね……祇堂家の人たちに、本当に良くしてもらってるんだよ。
 いつか恩返しがしたいけど、何ができるんだろうね』

 言葉にならない感情が、ぽろぽろとこぼれ落ちてくる。

 周囲を見渡し、他に聞く人がいないことを確かめると、八尋はぽつんと呟いた。

『それからね……ぼく、御巫家にとっても、いらない子だったみたい』

 それは、祇堂家の当主祇堂宗政と夕食の席で初めて対面した時、聞かされた話だった。

「――おい、このお嬢さんは誰だ?」

 痩身ながらも重厚感のある宗政の登場で、和やかだった食堂に緊張が走る。

 着流しの着物姿で食堂に現れた宗政は、白いワンピース姿の八尋を見るなり、困惑した様子で両目を眇めた。

「びっくるするほど綺麗でしょう──お名前は八尋さんとおっしゃるの。
 ほら、鷹巳さんが瀬織のお屋敷から攫ってきた、御巫家の……」

 表情を消して口を噤んでいる咲耶の代わりに、千佳子が八尋を紹介してくれた。

「ああ、瀬織政子の孫で、あの孝義の子供だという――」

 こくりと頷いて肯定した八尋を、宗政は鋭い双眸でじっと凝視をし、信じられないとでも言うように首を横に振った。