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春耀幻花


<24>



(もう、ダメ……思い出したら――)

 思い切って立ち上がった八尋は、何も考えないようにそそくさと布団を畳み、自分の目が届かない押入れの中に片付けた。

 振り返って視線を落とすと、枕辺に置いてあったタブレットがそのままになっている。

 昨夜なかなか寝付けなかったのは、鷹巳に送ったメールの返信を今か今かと待ちわびていたからなのだ。

「エル・ラサルと日本じゃ、だいたい6時間くらい時差があるからね」

 昨日、咲耶がメールを送信してくれたのは、午後三時頃。

 日本は6時間ほど時計が進んでいるから、エル・ラサル王国は午前九時。

 朝の忙しい時間帯に返事はできなくても、暇になったら返信してくれるかもしれない。

 咲耶のその言葉に気を良くして、鷹巳から返信が来るのを楽しみにしていたのだが――。

(結局……夜中になっても返事くれなかったな)

 期待してはいけないと自分に言い聞かせながらも、心躍らせて待っていたのだ。

 着信が無いかと何度もカバーを開き、遠くにいても聞こえるように着信音量を最大にしていたけれど、タブレットに変化はなかった。

 そのうち待ちくたびれて、眠ろうと決心したのだが、気が昂ってしまい寝付けなくなり、挙句の果てにあられもない夢まで見てしまったのだろう。

 ふうっと長い溜息をつきつつ、恐る恐るタブレットのカバーを開いてみる。

 待ち受け画面にメールの着信を示す数字が浮かんでいることに気づき、八尋の心臓がドクンと大きな音を立てた。

 震える指先で画面を押すと、咲耶が設定した「祇堂鷹巳」の名前が浮かび上がり、文面が現れる。

 八尋は息を止めたまま、簡潔な文章に目を走らせた。

 エル・ラサル王国での仕事は順調に進み、予定通りに帰国できるとのこと。

 「ぼく」ではなく、「わたし」と書きなさいという、八尋のメールへの指摘もあった。

 お土産は何がいいのかという問いかけも――。

 どれも事務的で、鷹巳の感情をうかがわせる文章は無かったが、それでも読んでいるうちに八尋の目頭は熱くなった。

「……あ…っ――」

 思わず目を瞠り、唇を喘がせる。

 スクロールした先には、一枚の写真が貼り付けてあった。

 真っ赤に染まり、波のような形がどこまでも続く砂漠。

 深紅に燃える太陽が地平線に溶けてゆく。

 いくつもの尖塔がそびえる宮殿や高層ビルが黒い影となって、赤い空に浮かんでいた。

 長年幽閉されていた八尋が想像したこともない幻想的な風景を、鷹巳は見せてくれようとしたのだろうか。

 彼にとっては、さして意味の無い思いつきだったのかもしれないけれど。

 その想いが、嬉しい……嬉しくて、涙が落ちる。

『ありがとう、鷹巳』

 すぐには伝えられず、声にもならない感謝を、八尋はつぶやく。

 夢の中でどんなに抱き合っても聞こえてこなかった鷹巳の声が、形を変えて届いたような気がして、心にふわりと大きな花が咲いた。

 


 明日になれば鷹巳が帰ってくる。

 そう思うと落ち着かず、八尋は朝からそわそわしていた。

「──だいぶ上手になったね。
 八尋は練習熱心だから、僕も教え甲斐があるよ」

 昼過ぎから習字の指導をしてくれている咲耶が、文机に重なった半紙を取り上げ、満足そうに褒めた。

 そうは言っても、まだまだつたない文字。

 繰り返し練習をしたひらがなは随分マシになったが、画数の多い漢字のバランスは崩れているし、読み下せない漢字も多いのだ。

 覚えた常用漢字は、まだ小学生レベルだろう。

「そんなに悲観することはないよ。
 最近は大学生でさえ漢字読めない人も多いし、八尋はやる気があるから、すぐに追いつける」

 恥じ入り、落ち込んでいる八尋を励ますように、咲耶がぽんぽんと頭を軽く叩く。

 だが、小学校と中学校にさえ通えていない八尋の学力は、笑い事ではないほど危機的なものだった。

 土蔵のテレビで教育番組を見るようにしていたとはいえ、根本的なところが抜けている。

 簡単な四則演算はできるが、少数や分数がからんでくると、途端にお手上げになるのだ。

 いざとなったら計算機という手段もあるから、と咲耶は慰めてくれるが、それではまともな高校生活は送れないだろう。

 何とか同世代に追いつきたいと、咲耶がいない間も、自分なりに復習しているのだが……。

(つきっきりで僕に勉強を教えてくれる、咲耶さんにも申し訳ない)

 優等生になりたいわけではないが、せめて学校で恥をかかない程度にはなりたい。

 高校一年生の同級生と机を並べられず、自分ひとりだけ特別授業だったとしても。

(あんまり僕がバカだと、鷹巳にも迷惑かけちゃうだろうしな)

 書き散らかした半紙を重ね、硯と筆を片づけながら、溜息をつきそうになる。

 だが、じっと見られていることに気づき、慌てて呼吸を止めると、含み笑いを浮かべた咲耶が訊ねてきた。

「そういえば、お土産、何が欲しいって書いたの?」

 鷹巳からメールの返信があったことを伝え、「エル・ラサルのお土産って、何があるの?」と質問したのだが、砂漠の写真を見た咲耶はしばらく声を失っていた。

 信じられないものを目撃した時のように、激しいショックを受けている。

「鷹巳さんって……こういう事、する人だったんだ。
 血管に青い血が流れてるんじゃないかって、疑ってたんだけど」

 意味が判らず、八尋が目をしばたたかせると、咲耶はどことなく投げやりな表情で苦笑する。

「仕事とか必要事項のメールはともかく、プライベートでも呆れるくらい素っ気ないからね。
 付き合ってた女性にも、必要最低限しか書かないらしいし。
 こんな風に、相手を気遣うところなんて、今まで見たことがない。
 それだけ八尋のことを大事にしてるのか……」

【お土産、何が欲しいって、聞いてくれたこと?】

「それもあるけど、僕のオドロキは、むしろこっちの写真。
 すごく綺麗に撮れてるでしょ? 意識して撮ったとしか思えない」

 タブレットに表示された写真を指差し、咲耶は考え込むように顎を撫でた。

「誰かが撮った写真を拝借した可能性もあるけど……それにしてもねえ」

 独白のようにぼそりと呟き、咲耶はちらりと流し目で八尋を一瞥する。

「――嬉しかったでしょ?」

【うん。これは、ぼくの一番の宝物】

 笑顔でタブレットを抱き締める八尋に、咲耶は感情が大きく揺れ動いているような瞳を向けた。

「それはそうと、エル・ラサルのお土産といえば、一番メジャーなのは、ラクダのミルクチョコレートかなあ。
 地元の名産は、真珠や金銀細工が有名だし、あとは陶器とか織物くらい。
 まあ、買ってきてくれるなら、何でもいいんじゃない?
 八尋が欲しいものを、適当に書いちゃいなよ」

 ようやく八尋が聞きたかったことに咲耶は答えてくれたが、真剣に考えているというより、どことなく上の空な表情。

 どうして一枚の写真が、彼をそこまで動揺させるのか見当もつかず、八尋は首を傾げた。

 そして結局、「何があるのかよく判らないので、鷹巳が選んでくれたら嬉しい」と、メールを書き送ったが、その後の返信は無い。

【何でもいいって書いたけど、迷惑だったかな?】 

「それが一番、困るセリフではあるよね。
 デートの時、『何が食べたい?』って聞いたら、『何でもいい』って言う子、多いから。
 はっきり言ってくれた方が、男としては楽なんだけど」

 咲耶の言葉にショックを受け、八尋は落ち込んだ。

 鷹巳は確かに、曖昧な返事を嫌う人のように思える。

(やっぱり、ラクダのチョコレートって書いた方が良かったかも……)

 味の想像がつかなくて躊躇ってしまったのだが、それが一番買い求め易いお土産だろう。

 ただ、咲耶の言葉に意地悪な棘が含まれているように感じてしまい、戸惑う心が少し傷つく。

 気に病むことではないと思いつつも、いつも優しい咲耶の些細な変化が、何か意味深いように感じて引っかかるのだ。

(そういえば、咲耶さん、鷹巳のことが好きだって……)

 千佳子の言葉を思い出す。

 もし、千佳子の言葉が本当だったなら、咲耶にとって自分は、目障りな存在なのかもしれない。

(……どうしよう?)

 鷹巳のことは好きだが、兄のように慕う咲耶からも嫌われたくはない。

 考え込んでいると、窓辺の風鈴がチリンと鳴り、自然に目がそちらに惹かれた。

 花の終わった紫陽花の茂みから、するりと白蛇が滑り出て、水辺の方へと戻ってゆく。

 一瞬、赤く光る眼に見すえられたような気がして、八尋はその場に立ち尽くした。