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春耀幻花


<25>



「ねえ、咲耶――あなた、仕事はどうするの?
 いつまでもブラブラして、遊んでばかりじゃ困るのよ」

 その日の夜、夕食の席で、千佳子が心配するように訊ねた。

 テーブルには宗政もいて、一瞬、面倒くさそうにちらりと目線を上げた咲耶は、作り物めいた愛想笑いを浮かべる。

「今は、鷹巳さんに頼まれて、八尋の家庭教師をしているだけだから。
 夏休みが終わって、八尋が学校に行き始めたら、僕も一緒に働きに出る予定。
 実は内定、とっくにもらってるんだ」

「あら、そうだったの?
 あなた、全然言わないから……」

 それでも息子の言葉に安心したのか、千佳子の顔が嬉しそうにほころんだ。

 一方の宗政は特に表情を変えず、ナイフで肉料理を切り分けながら、淡々と口を挟む。

「咲耶。お前さえその気があるなら、グループ内に働き口はいくらでもあるんだぞ」

「祇堂の世話になりたくないんですよ。
 僕が出しゃばると、何かと外野がうるさいし。
 それに、僕はビジネスをするような柄でもないし、できれば関係の無い所で、のんびり生活したい。
 とはいえ、次の仕事は、ある意味関わりが深いとも言えるけど……」

 やはり千佳子が後妻で、宗政とは血の繋がっていない継子という関係だからなのだろうか。

 露骨ではないものの、咲耶の態度はよそよそしく他人行儀だった。

 いつも悠然としている咲耶だが、母親の再婚には、胸に秘めた葛藤があったのかもしれない。

(考えてみれば……咲耶さんのことも、あまり知らないんだよね)

 優しく教えてもらうばかりで、咲耶自身がどういう人なのか、これまであまり意識してこなかった。

(ぼくが学校に行き始めたら、咲耶さんとは、あまり会えなくなるのかな?)

 働き始めたら、鷹巳のように忙しくなって、今までのように八尋を構う時間など無くなってしまうだろう。

 そう思うと寂しくなった。



 母屋での夕食を終え、咲耶と二人で水琴亭に戻ろうと通用口を出たところで、激しいにわか雨が降ってきた。

 土砂降りになった夜空の雲間に、稲妻が踊る。

「ひどい雨だから、こっちに泊まっていけば?」

 傘を差し出しながら、千佳子が心配してくれたが、すぐ近くだからと八尋は断った。

 自分ひとりで帰れると、咲耶の付き添いも遠慮したのだが、それには取り合えってもらえない。

「見通しの悪い雨の中で、足を滑らせて、池に落ちでもしたら大変でしょ?」

 気にするなと咲耶は笑い、先に黒い男物の傘をさして八尋を手招く。

 鮮やかな花柄の傘を開いた八尋は、「気をつけてね」と呼びかける千佳子に手を振り返し、雨に濡れた石畳に踏み出した。

 咲耶がいつも浴衣姿で、千佳子や宗政も屋敷内で和服を着ているため、洋服を買ってもらったにも関わらず、八尋も同じように着物で装うことがほとんどだった。

 着慣れているせいか、あまり触れたことのない洋服を身に着けるより、気持ちがすとんと落ち着く。

 まさかこんな激しい雨が降るとは思っていなかったので、今日もまた藍染の浴衣に、素足に下駄を履いていた。

 石畳を歩くとカランコロンと軽やかに鳴り、気に入っているのだが、下駄の歯にゴム底がついていないためひどく滑りやすい。

 雨の中を歩くのは初めてだったため、地面を見つめたまま用心していないと、本当に転んでしまいそうだった。

「家の敷地内なのに、移動でずぶ濡れになるなんて信じられないよね」

 うんざりしたように、肩越しに振り向いた咲耶が声を上げる。

 ザーザーと大粒の雨が勢いを増したため、大声を出さないと、お互いの存在さえかき消されてしまいそうだった。

 タブレットを濡らさないように胸元に抱え込み、傘の陰で見えないだろうと思いつつ、八尋は首を縦に振る。

 日頃は近いと思っていた水琴亭が、豪雨の中ではずいぶん遠くに感じられた。

 地面で跳ね返った水しぶきが、容赦なく浴衣の裾を濡らしてゆく。

(そういえば……水神様の祠は、大丈夫かな?)

 ここのところ夕立が多くて、湧き水や滝の水量が増えているらしい。

 祠に住んでいる白蛇が、水に流されてしまうのではないかと、少し心配になってくる。

 上半身を捩じって驟雨の隙間を見透かし、祠の様子をうかがおうとした八尋は、咲耶に呼ばれて我に返った。

 気もそぞろになっていたせいか、飛び石になった石畳に気づかず、踵を踏み外す。

 濡れた敷石の角で下駄がずるっと滑る。

 あっと思った時にはバランスを崩していた。

(――鷹巳からもらった……タブレットが!?)

 背後に転倒しながら、宙に放り出しそうになったタブレットをとっさに引き寄せる。

 注意がおろそかになった傘は飛んでいってしまい、水溜りに尻もちをついた八尋は、勢い余って地面に横倒れになっていた。

「八尋! 大丈夫!? 怪我はしてない?」

 慌てて戻ってきた咲耶が、傘を差し伸べ、腕を引っ張り上げてくれる。

 それ以上濡れないように、衿合わせの内側にタブレットを強引に突っ込んだ八尋は、泥だらけになった自分が恥ずかしくなった。

 幸い肘を打っただけで怪我はなかったが、背中でひとつに編んだ髪は泥水を吸っているし、転んだ拍子に下駄が脱げてしまい、足も汚れている。

 立ち上がった八尋に黒い傘を持たせ、咲耶が下駄と花柄の傘を拾ってくれたが、その彼もまた雨でずぶ濡れになってしまった。

『ごめんなさい、咲耶さん』 

 うつむいて謝ると、咲耶が肩を叩いて明るく促した。

「謝らなくていいから。ほら、早く帰ろう。風邪を引くよ」



 頭から足先まで濡れそぼっている八尋を三和土(たたき)に残し、咲耶は手早く風呂や着替えの準備をしに行った。

 ひとりになった八尋は、急いでタブレットのカバーを開き、壊れていないかどうかをまず確認する。

 幸い問題無く起動し、鷹巳からもらったメールも、暇さえあれば眺めている砂漠の写真も無事だった。

 ほっと安堵の溜息をついて、次に、泥まみれになった自分自身を見下ろす。

 咲耶に渡されたタオルで、ポタポタと雫を落としている髪や、汚れた足を拭くと、真っ白な布地がすぐに茶色くなった。

 尻もちをついた浴衣で、ピカピカに磨き上げられた玄関に座るのは躊躇われ、靴箱に片手をついて、もう少し念入りに足裏を拭う。

(気を付けてって注意されてたのに……何でだろう)

 鷹巳の傍にいても恥ずかしくないように、もっと洗練された所作を身に着けなければならないのに、ドジを踏んだ自分が情けない。

 こんな失敗をするたびに自信が無くなり、ちゃんとやっていけるのか不安になってしまう。

 溜息をつきかけた時、風呂場から戻ってきた咲耶が、さも当たり前だという顔で呼びかけてきた。

「八尋――お風呂湧いてるから、一緒に入ろう。
 八尋の髪、洗ってあげるよ」

 耳を疑った八尋は、ぽかんとしたまま、上がり框(かまち)にタオルを落としてしまう。

 咲耶は汚れたタオルを拾い上げると、呆然と突っ立っている八尋を見て、くすりと笑った。

「僕と一緒じゃ恥ずかしい? でも、男同士なら平気でしょ?
 先に入っているから、気が向いたらおいで」

 咲耶の言う通り、男同士なら一緒に風呂に入るのは普通の事なのだろう。

 以前見たテレビ番組でも、温泉や銭湯ではみんな裸だった。

 水琴亭の浴槽は、大人二人が入っても十分に広いため、だからこそ咲耶は誘ったのだろうが……。

(でも、ぼくは、普通の人とはちょっと違うし――)

 仲の良い咲耶とはいえ、異形の肉体を見せるのは恥ずかしいし、全裸をさらすのは抵抗がある。

 どうにも気が進まず、その場にぐずぐずしていると、寒気がしてくしゃみが出た。

(明日、鷹巳が帰ってくるのに、風邪を引くのは嫌だな。
 また心配をかけてしまうだろうし……)

 髪を洗ってもらうくらいなら、平気だろうか?

 八尋の上半身は普通の男と変わらず、下肢の狭間をよく見なければ、半陰陽だとは気づかれないだろう。

(タオル巻いておけば、平気かな?)

 引きずるように足を浴室に向けた理由には、咲耶まで雨で濡らしてしまったという自責と、嫌われたくないという思いも入り混ざっている。

 脱衣所で汚れた浴衣を脱ぎ、ことさら丁寧に畳んだ。     

 びくびくしながら湯気で煙る浴室に入ると、総檜の浴槽にゆったりと身を沈めていた咲耶が立ち上がる。

「そこに座って。先に髪を洗って、背中を流すから」

 引き締まった裸体を隠すことのない咲耶を見ていられず、八尋は促されるまま、洗い場の椅子に腰を下ろした。

 腰に巻いたタオルに気づいても、咲耶はあえて何も言わず、八尋の長い髪にシャワーを浴びせる。

 泥を含んだ茶色い水が排水溝に流れ込んでいく様をじっと見つめたまま、八尋は緊張で身を固くしていた。