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春耀幻花


<3>



 季節は移ろい、春に見事な花を咲かせていた桜の古木は、みずみずしい青葉を茂らせている。

 いつものように梯子に上り、格子窓から景色を眺めていた八尋は、空がピカリと光ると、鉛色に垂れこめた雲を仰いだ。

 分厚い雨雲の狭間で、天を裂く銀の竜が踊る。

 その後を追って、雷鳴の轟きが忍び寄ってくる。

(……わぁ、凄い)

 いつもと同じように見える風景が、今日は全然違って見える。

 ほどなく、暗く染まった空から、ぽつぽつと水滴が落ちてきた。

 漆喰塗りの土塀を飾る紫陽花も、久しぶりの水雫を受けて鮮やかに蘇り、美しく澄んだ色彩を取り戻してゆく。

 雨が降ってきたのを、きっと喜んでいるだろう。

 けれど──今日も、あの人は現れなかった。

 うな垂れて瞼を閉ざした八尋は、下がってしまいそうな口角に微笑みを形作った。

 孝義の弔問に訪れていた客人のひとりだったから、また瀬織家に足を運んでくれることもあるだろうと期待していたけれど。

 失望を紛らわせながら梯子を降りた八尋は、奥壁の角に置かれている二曲の金屏風に歩み寄った。

 座敷牢を取り巻く八方の金屏風は全て、この春に死去した瀬織孝義が特注品だった。

 金地に描かれているのは酒池肉林、というらしい。

 地獄絵図かと見まごうほどに醜悪であり、妖美でもある、淫らな男女の情交の光景だった。

 様々な体位で交合する男女の姿を眺めながら、孝義は八尋にも同じ格好をさせて楽しんでいた。

 いかがわしい物という認識はあるが、長年傍に置かれていると見慣れてしまって、八尋自身は何も感じない。

 何が面白いのかも、実はよく判らない。

 ただ、二曲の屏風の裏には、大きな液晶テレビが隠してある。

 父から貰った物の中では唯一、素直に喜べたプレゼントだった。

 リモコンを使ってテレビをつけた八尋は、始まったばかりのバラエティ番組を見ることにした。

 いろんな芸人が漫才やコントをしたり、面白い事を言ったりして、テレビの中は常に笑いに満ちている。

 土蔵に閉じ込められた八尋さえも楽しませて、笑わせることができる芸人たちは、本当に凄い。

 笑っている時だけは、何もかも忘れていられる。

 幸せな気分になれる。


──八尋の笑顔が、お母さん、大好きよ。



 だから、どんなに辛くても、笑っていたいと思った。

 悲しい顔をしていたら、きっと天国にいる母が心配する。

 八尋には幸せになって欲しいと、いつも言っていたから。

 それなのにここ最近は、以前のようにお笑い番組に没頭できなくなり、気がつけば物思いに耽ることが多くなってしまった。

 毎日、毎日、同じ時刻に格子窓から外を眺めるのも、習慣になりつつある。

 たった一度だけ出会ったあの人……祇堂鷹巳に、もう一度、逢いたい。

 胸を熱くさせる笑顔が、もう一度だけ見たい。

 彼の笑顔を見ることができたら……彼を笑顔にできたなら、きっと自分も心から笑うことができるだろう。

 そんな事を、とりとめもなく考えてしまう。

 チカチカと明かりが点いたり消えたりしていることにふと気づき、八尋はテレビから目を離して、天井を仰いだ。

 ぶら下がった小さな白熱灯が、弱りかけているように見える。

 憂鬱な気分に襲われ、八尋は溜息をつきそうになった。

 天井は高すぎて、八尋の背丈では届かない。

 それに、取り換え用の電球がここには無かった。

 古びた年代ものの白熱灯は、すぐに電気が点かなくなる。

 天窓から陽光が差し込んでいる間はまだ良いが、夜になれば、物の形が判る程度の儚い灯りでしかない。

 けれど、土蔵にあるその他の照明といえば、文机に置いてある白い和蝋燭だけだった。

(電気が消えちゃったら、また、芳沢に頼まなきゃいけない)

 落ち着かない気分のままテレビを見続けていると、住み込みの庭師をしている芳沢吾郎(よしざわごろう)が昼食の膳を運んでくる。

 一日三回、八尋に食事を届けるため、ほぼ定刻に芳沢は土蔵の鍵を開ける。

 土蔵の外と内を隔てる分厚い観音開きの扉が、ゆっくりと軋みを上げて動き出し、雨音が強くなると、八尋は慌ててテレビを消した。

「やれやれ、ひでえ雨になってきやがった。
 おい、八尋! 昼飯、持ってきてやったぞ」

 金屏風でテレビを隠した八尋は、頑丈な木枠格子の前に正座をして両手をそろえると、小さな戸口を開けて入ってくる芳沢に深々と頭を下げた。

 父が通ってきていた頃から続く、出迎えの作法だった。

 覆いのかかった食膳を座敷牢の中に置いた芳沢は、どっかりと床に胡坐をかき、雨に打たれた頭や顔をごしごしとタオルで擦り始めた。

「何をぼさっとしてるんだ。さっさとご挨拶しろ」

 話ができない八尋に、芳沢は返事など期待していない。

 望んでいるのは、別の事だった。

 八尋はもう一度頭を下げると、膝立ちで芳沢の前に進み、ズボンのジッパーを下ろした。

 興奮しきった赤黒い男根が、勢いよく飛び出し、反り返る。

 太い肉柱に手を添え、八尋は顔を伏せると、さらさらと落ちてくる長い黒髪を掻き上げながら口に含んだ。

「……ぅぐっ……」

 すぐに後頭部を押され、喉奥まで突き上げられる。

 ムッと鼻につく汗の匂いと、舌に触れる生臭さにえずきそうになった。

「いやらしい音をいっぱいさせてしゃぶれよ、お姫様。
 オヤジの萎えチンじゃ、満足できなかっただろ?」

 嘲るように嗤った芹沢は、両手を背後について、気持ちよさそうに両目を閉じる。

「まったく、たまらねえな。
 お前みたいに上品な顔をしたお姫様に、俺のムスコを毎日しゃぶってもらえるなんてよ。
 変態オヤジに仕込まれたお陰で、ソープの女より上手いときてる。
 金もかからねえんだから、止められねえよな」

 孝義の葬儀の日から、芳沢は我が物顔でフェラチオを強いた。

 拒めば、食事ができず、父が遺した性具でいたぶられる──哀願しながら、八尋が芳沢のペニスを口にするまで。

 芳沢は、自分が孝義の身代わりになってやると言って、嬉しそうに笑っていた。

 顎が外れてしまうのではないかと不安になりながら、八尋は懸命に頭を動かし、芳沢の欲望を滾らせていった。

 口戯のやり方は、父の孝義に教え込まれた。

 孝義の男根は勃起することがなく、そのせいなのか、執拗に「勃たせろ」と八尋に命じていた。

 結局、一度も成功せず、「下手くそめ」と散々なじられることになったけれど。

 上手いと褒めらたことなど、一度もない。

 一方の芳沢は、勃起と射精は早いが、いつも精液を飲み干すようにと命じてくる。

 口の中で別の生き物のように脈打つ肉塊に舌を這わせていた八尋は、頬をすぼめて尖端に吸いついた。

 こんな嫌がらせから逃れるには、できるだけ早く芳沢を満足させるしかない。

 脈動する男根からびゅくびゅくと白濁が噴き出すと、八尋は涙の滲む双眸をきつく閉ざし、吐き気を伴うおぞましさに耐えながら、全てを嚥下した。